日本語の曖昧な表現は否定的に捉えられてきました。
◎
この数ヶ月、話が、体罰→信頼→効果測定→文化
という具合に大きな内容をずるずると続けています。
思うに、話を聞いてもらえないオジサンの独り言かも
しれません。
「昔は・・だった。いまの若いものは・・」
ならばツイデにフロシキをもっと広げてやろう、と
いうのが本日の「曖昧」です。
◎
日本語の曖昧さは従来国際標準ではないと評判の
悪いものでした。
外国の人達に通じないという責任の半分はアチラに
あるのですが日本語表現ばかり問題にされました。
日本人の気配りですかね?
曖昧で分かりにくければ、外国の人に向かって
ハッキリと意思表示をすることで問題は終わりです。
外国語の勉強でも気をつければよろしい。
他文化との接触では、損得勘定からも「曖昧」は避け
ましょう。
ただそれだけのことで日本語の曖昧さを捨てる必要は
ないのです。
日本国内が外国レベルになることはありません。
けれども最近は曖昧表現に対応できない日本人が
増えてきました。
私は憎まれ口をたたいてます。
「あったま悪いんじゃねーの」
物を考えることをしないからあいまい表現に
ついていけないのです。
肯定的に使われる「ええ、まあ」
否定的に使われる「ええ、まあ」
(そしてその中間も)
これらを使い分けられるから日本語は豊かであり
聞き分けるから、心が働き、頭も回るのです。
それを捨ててしまえば外国人に勝てません。
何故なら彼らのような論理的思考を日本人は苦手
としており、また人と論争してもうまく収束できる
芸当を持たないからです。
国語教育でも論理的思考は恐ろしく脆弱ですね。
○
近年、モノを考えないで済むので曖昧表現が避けられ
ているようです。
国際化を目指しているのでしょうか?
曖昧にしない代りにモノゴトを断定的に言わないこと
で表現を和らげているようです。
こちらは責任転嫁を考えているのでしょうか。
「~とか。」
「思いますけど。」
曖昧を避けようとイイトコドリしてみたつもりが
まずいことことになってきました。
文化を軽んじたバチですね。
○
「この度はお世話になりまして」
「いえ、もうそのようなことは」
「あ、そうですか」
○
「このまえ検討すると言われてた件ですが。
あ、そうすか。はっきり言ってくれればア」
◎
さて「曖昧」をどう教えますかねえ。。。。
◎
この数ヶ月、話が、体罰→信頼→効果測定→文化
という具合に大きな内容をずるずると続けています。
思うに、話を聞いてもらえないオジサンの独り言かも
しれません。
「昔は・・だった。いまの若いものは・・」
ならばツイデにフロシキをもっと広げてやろう、と
いうのが本日の「曖昧」です。
◎
日本語の曖昧さは従来国際標準ではないと評判の
悪いものでした。
外国の人達に通じないという責任の半分はアチラに
あるのですが日本語表現ばかり問題にされました。
日本人の気配りですかね?
曖昧で分かりにくければ、外国の人に向かって
ハッキリと意思表示をすることで問題は終わりです。
外国語の勉強でも気をつければよろしい。
他文化との接触では、損得勘定からも「曖昧」は避け
ましょう。
ただそれだけのことで日本語の曖昧さを捨てる必要は
ないのです。
日本国内が外国レベルになることはありません。
けれども最近は曖昧表現に対応できない日本人が
増えてきました。
私は憎まれ口をたたいてます。
「あったま悪いんじゃねーの」
物を考えることをしないからあいまい表現に
ついていけないのです。
肯定的に使われる「ええ、まあ」
否定的に使われる「ええ、まあ」
(そしてその中間も)
これらを使い分けられるから日本語は豊かであり
聞き分けるから、心が働き、頭も回るのです。
それを捨ててしまえば外国人に勝てません。
何故なら彼らのような論理的思考を日本人は苦手
としており、また人と論争してもうまく収束できる
芸当を持たないからです。
国語教育でも論理的思考は恐ろしく脆弱ですね。
○
近年、モノを考えないで済むので曖昧表現が避けられ
ているようです。
国際化を目指しているのでしょうか?
曖昧にしない代りにモノゴトを断定的に言わないこと
で表現を和らげているようです。
こちらは責任転嫁を考えているのでしょうか。
「~とか。」
「思いますけど。」
曖昧を避けようとイイトコドリしてみたつもりが
まずいことことになってきました。
文化を軽んじたバチですね。
○
「この度はお世話になりまして」
「いえ、もうそのようなことは」
「あ、そうですか」
○
「このまえ検討すると言われてた件ですが。
あ、そうすか。はっきり言ってくれればア」
◎
さて「曖昧」をどう教えますかねえ。。。。