長い間言えずにきた話です。
それも、塾の基本的なありかた。
自分としてはAを拒否しBを選択したと言ってきたのに
「AもBも一緒じゃないの」疑惑があり
私には説明しきれないことかもしれないのです。
幸か不幸か、面と向かって「一緒じゃないの?」と
言われたことはありません。
ブログにそのような意見を寄せる方もおられません。
ではありますが、私としては、黙っているのも卑怯だし
かといって営業を思えば云いたくないことです。
気が重くなりますね。
言わなくてもよいことなんでしょうけれども。
「え~? そうか、気付かなかったなあ・・でもね」とか
何かあっても、しらじらしく言えばよいのです。
○
このブログでも今までに「AではなくB」と書いていますが
改めて羅列しておきます。
A 大半の学校や塾で一斉授業が行われている
B 個別形式が教育として、より有効である
A 文科省の方針を順守する
B 寺子屋に戻ろう
A 懇切丁寧な指導を目指す
B 「教えない」教育を目指す
A 新しい教え方の工夫を採用する
B 目先の「何%学力アップ」より長いスパンを考える
A 学校教育や受験を明確に意識する
B 受験優先などと(こちらの事情)を優先させない
などなど。
それらに関するより細かい話はここでは省略します。
いずれも一長一短はあるもののどちらを採用しているかの
理由は説明できます。(当たり前ですね)
もちろんどちらかが一方的に良いということはないでしょう。
数字も考え方も、自分としては、総動員しての結論です。
○
お叱りを受けそうですが、そういう自己検証の過程を経ずに
あちらこちらでしていること、それと同じものを自分も
という仕事もあるように見えます。
「世界で最新のシステムだから採用している」という
のはどんな世界にもよくあることです。(サッカー?)
あるいは、初めての食堂に行ったら皆さんが食べているのと
同じものを注文する、その感覚です。
失敗が少ない。
とはいえ「個性を伸ばす塾です」とか書いてあるチラシをみて
その具体論や根拠を求められたらどうするんだろう、と
人ごとながら心配をしたりすることもあります。
「私の信念」とか持ちだされてもねえ。
「これしかできない」なんて・・←ええかげんにせえ!
(客も客)の時代だから(店も店)でよいのかなあ。
○
たとえば、仮に寺子屋がよいとしましょうか。
「だから井上」か?
私がしていることが果して正しく「寺子屋」を具現していると
云えるのか?
寺子屋方式が長い歴史の検証を経てきたのは良いとして
これから未来へも有効だと言えるのか。
すべての人にあてはまる方式か。
結局、寺子屋も他のやり方も大差がないのではないか。
○
私としてはいろいろ持ちだして、違うと申しますが
それは「内側から見た景色」でしかないのではないか。
外から見れば同じような物でしかないのかもしれません。
長い歴史をもちだしても、当塾そのものは十年余でしか
ありません。
寺子屋の長所を取り入れられているか不明だとすると
長い歴史を持ち出すわけにはいきません。
たかがテストの点数が何点か上がっただけで
教育効果がある、とは誇大広告めくと思います。
「どこそこ何名」が直接は塾や学校の優秀性を証明する
わけでもありません。
教育とは証明しづらい世界です。
人の一生にかかわることだからです。
たとえ証明できるとしても自塾が十年では
何も言えませんね。
(自分の証明は不可能かもしれません・・)
○
入試ならば数字が出ます。
しかし、それも本人や家庭、学校の力があってのことです。
どこまでが塾の力と証明できるのか・・
先に悪口をいった「信念の人」と五十歩百歩なのですね。
「私はこうです、塾はこうです」と連呼しているに過ぎない
のでは?という気分になることがあります。
塾とはただの受験請負屋でしかないのかもしれません。
それで教育を論じることができるのか?
をこがましー。
○
・・といっても未練がましく小声で
「そうは言っても、違うのだけれどなあ・・
そういうことがあるから、なおさら寺子屋で・・」
◎
この件に関しては様々なことを考えねばなりません。
上記は書きやすいことに少しふれただけでして。。
正直を申しあげると、気の重いワークでもあります。
気がむけば時おり続きを書くつもりですけれども。
それも、塾の基本的なありかた。
自分としてはAを拒否しBを選択したと言ってきたのに
「AもBも一緒じゃないの」疑惑があり
私には説明しきれないことかもしれないのです。
幸か不幸か、面と向かって「一緒じゃないの?」と
言われたことはありません。
ブログにそのような意見を寄せる方もおられません。
ではありますが、私としては、黙っているのも卑怯だし
かといって営業を思えば云いたくないことです。
気が重くなりますね。
言わなくてもよいことなんでしょうけれども。
「え~? そうか、気付かなかったなあ・・でもね」とか
何かあっても、しらじらしく言えばよいのです。
○
このブログでも今までに「AではなくB」と書いていますが
改めて羅列しておきます。
A 大半の学校や塾で一斉授業が行われている
B 個別形式が教育として、より有効である
A 文科省の方針を順守する
B 寺子屋に戻ろう
A 懇切丁寧な指導を目指す
B 「教えない」教育を目指す
A 新しい教え方の工夫を採用する
B 目先の「何%学力アップ」より長いスパンを考える
A 学校教育や受験を明確に意識する
B 受験優先などと(こちらの事情)を優先させない
などなど。
それらに関するより細かい話はここでは省略します。
いずれも一長一短はあるもののどちらを採用しているかの
理由は説明できます。(当たり前ですね)
もちろんどちらかが一方的に良いということはないでしょう。
数字も考え方も、自分としては、総動員しての結論です。
○
お叱りを受けそうですが、そういう自己検証の過程を経ずに
あちらこちらでしていること、それと同じものを自分も
という仕事もあるように見えます。
「世界で最新のシステムだから採用している」という
のはどんな世界にもよくあることです。(サッカー?)
あるいは、初めての食堂に行ったら皆さんが食べているのと
同じものを注文する、その感覚です。
失敗が少ない。
とはいえ「個性を伸ばす塾です」とか書いてあるチラシをみて
その具体論や根拠を求められたらどうするんだろう、と
人ごとながら心配をしたりすることもあります。
「私の信念」とか持ちだされてもねえ。
「これしかできない」なんて・・←ええかげんにせえ!
(客も客)の時代だから(店も店)でよいのかなあ。
○
たとえば、仮に寺子屋がよいとしましょうか。
「だから井上」か?
私がしていることが果して正しく「寺子屋」を具現していると
云えるのか?
寺子屋方式が長い歴史の検証を経てきたのは良いとして
これから未来へも有効だと言えるのか。
すべての人にあてはまる方式か。
結局、寺子屋も他のやり方も大差がないのではないか。
○
私としてはいろいろ持ちだして、違うと申しますが
それは「内側から見た景色」でしかないのではないか。
外から見れば同じような物でしかないのかもしれません。
長い歴史をもちだしても、当塾そのものは十年余でしか
ありません。
寺子屋の長所を取り入れられているか不明だとすると
長い歴史を持ち出すわけにはいきません。
たかがテストの点数が何点か上がっただけで
教育効果がある、とは誇大広告めくと思います。
「どこそこ何名」が直接は塾や学校の優秀性を証明する
わけでもありません。
教育とは証明しづらい世界です。
人の一生にかかわることだからです。
たとえ証明できるとしても自塾が十年では
何も言えませんね。
(自分の証明は不可能かもしれません・・)
○
入試ならば数字が出ます。
しかし、それも本人や家庭、学校の力があってのことです。
どこまでが塾の力と証明できるのか・・
先に悪口をいった「信念の人」と五十歩百歩なのですね。
「私はこうです、塾はこうです」と連呼しているに過ぎない
のでは?という気分になることがあります。
塾とはただの受験請負屋でしかないのかもしれません。
それで教育を論じることができるのか?
をこがましー。
○
・・といっても未練がましく小声で
「そうは言っても、違うのだけれどなあ・・
そういうことがあるから、なおさら寺子屋で・・」
◎
この件に関しては様々なことを考えねばなりません。
上記は書きやすいことに少しふれただけでして。。
正直を申しあげると、気の重いワークでもあります。
気がむけば時おり続きを書くつもりですけれども。