吉田松陰に役人は無理

2010-07-02 15:02:40 | 塾あれこれ
「教育者」という言葉のイメージはどのようなものですか?

本来、プラスの語感を持っている筈ですね。
しかし私にはスッキリしないところが残るのです。
現在の日本語で「教育者」とは、どんな感じ?


まず個人的なことを書いておきますが
子供のころ、学校は嫌いでした。
先生の多くが好きになれなかったから。

修学旅行の引率で酒呑んで赤い顔してるか?
その直前の夕食時には生徒に長時間の説教してて。

もちろん、大変に尊敬できる先生も何人かおられた。

いま思えば良い先生の少なさは当時の教育界における
教育者の割合そのものだったかもしれませんね。
良い先生は、何十人かに一人、かな。(私にとって)

今はどうなっているのでしょう?
増減ありかなあ。


塾ですか?

話がどんどんと外れますね。

教育を考えておられる方と、受験請負業に絞った方
金儲け(または当面生活するため)の手段の方
・・塾にもいろいろおられるので良い先生の割合は
学校より低いかもしれません。

では、どこにも少数の立派な教育者がおられる、
で終わる話か?


吉田松陰は学校の先生になれるでしょうか?
ぜったいになれませんよね。

彼は、自ら肯んずるところのないことは
たとえ上からの命令でも行わない筈。

これは人間としての基本です。

そこを守れないで何が教育者・・・
なのですが、お役人ならばそうはいきません。
上からのワクに縛られるのがお役人です。

役人からは吉田松陰は生まれないのです。


ニニンが四、を教えるだけを教育とは言いません。
人としての在り方を示すことも大切です。
生きてゆくすべを伝えることも教育。

では教育者とは、それだけ?

明治時代に学校教育が始まって以来
教育者とは官吏でもありました。

権力を持って、国家の立場から子供を導くという
面があります。

自らは立派な人間として模範を示さねばならぬ存在でも
ありました。

もちろん立派に具現化された「教育者」もおられました。

また、相撲の親方のように、一見立派でジツはアヤシイ、
という教育者もおられたやの噂を聞いた人の、また聞きで・・


教育者という言葉に対して、人間だから神様のようなワケには
いかない、という先生もおられます。

かといって、日ごろは神様を演じながら、生徒と同じ旅館で
酒を飲むことに「それはどうか」と疑問を感じる真面目な方も
おられたハズです。

難しい話と思います。


イデオロギー過剰の先生方も苦手ですね。
教師は労働者、で良いのでしょうか。

医師がただの労働者でない如く
教師もただの労働者ではありません。

目の前の子供の人生に関わることもあるのだから。
責任は重いのです。

さまざまな難しさに押しつぶされようとしているから
「教育者」のイメージが曖昧なのでしょう。


さて、「ではお前はナニモノ?」

と言われると困りますねえ。

少なくとも「立派」と言われることはない自覚は
十分にあります。ハハ。残念ながら。

私に学校の先生は務まりませんよね。
(教育者なんぞになりたくねー、とか言ってます)

かといってもちろん手は抜いていません。
少なくとも自分ではそう思います。
けれど営業的に冴えないということは・・
え~~っと、ですね。。。