世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道(のぶみち)です。
えー、だれかのために何かをしてあげようとするのはいいことに違いないんですけれども、それが往々にしてですね、こちらはしてあげる人、相手はしてもらう人という関係を作りあげてしまうとしたら、こう知らず知らずのうちに優越感と卑屈さのギャップが出来てしまったりという風なことがあったりするわけで、これは残念な事ですよねえ。時には、確かに善意で福祉的な施設なんかでお助けするつもりであったとしても、「ために」という大儀名分で結局は自己満足的なものとなっていることに気がつかないで、かえって押し付けがましく相手を傷つけてしまっていたりとう事があったりするかもしれませんねえ。ですから「ために」というよりは「共に」あるいは「一緒に」ということが求められるのかなあというふうに思うんですね。難しいことかも知れませんですけれども、私たちは相手「のために」というよりは相手「と共に」同じ土俵、同じ立場に立って少しでも相手の身になって一緒に悩んだり苦しんだりすることができたらいいんだろうなあという風に思いますねえ。
えー、聖書にはこういう風に記されていますが、キリストのことなんですけれども、「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」って書いてあって、ピリピ人への手紙2章(6節、7節)なんですけれども、「仕える者の姿をとって人間と同じようになられた」 私たちが痛い思いをしたり苦しい思いをしたり、そういう風なことも、全部、経験できるお方として。
ですからイエス・キリストっていうお方は、私たちの弱さや苦しみを知ることのできる、私たちと同じ人間になって下さったということですね。それだけではなくって、最後はまぎれもない罪人(つみびと・ざいにん)と同列に置かれてですね、十字架にかけられたっていうこと。これはいかにも本当に私たちと全部連帯してくださったのだということを象徴する出来事ですよねえ。罪とさえも連帯して下さったのだ。私の罪の身代わりとして罪から救い私たちも今度は他者と連帯できるようにということをイエス様はそのようにはっきりとお示しになったのだということですねえ。
私たちも「ために」だけでなくって、少しでも悩み苦しむ者と共に、こう、まさに共に泣いたら幸いだなあっていう風に思うんですが、そんな風に心がけられたらなあって思います。
( PBA制作「世の光」2006.07.17放送でのお話しより)
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