特別委員会は、昭和14年8月23日に第6回が開かれ、島安次郎は多忙な日々を送っていた。この頃、ドイツは日独伊の三国同盟を提案してきているが、日本が、軍と外務省の間で侃々諤々の議論をしているうち、突然8月23日に、独ソ不可侵条約を結んでいた。ソ連の戦力が東アジアに集中しやすくなった訳である。
この年、1月5日発足の平沼騏一郎内閣は「欧州の天地は、複雑怪奇なる新情勢を生じたので、従来準備し来った政策はこれを打ち切り、更に別途の政策樹立を必要とするに至った」と述べ、わずか半年で辞任解散した。
この年の5月12日、満州国とソ連やモンゴル(外蒙)との国境で紛争が勃発している。ノモンハン事件である。関東軍はソ連を甘く見ていた。欧州方面から数千キロ離れた土地へ、シベリア鉄道で軍を移動させるのは時間がかかると踏んでいたのだ。ところがその規模とスピードは軍の予想をはるかに上回っていた。
結果は惨憺たる状況で、軍の威信に傷をつくことを恐れ、敗戦の報は、終戦の昭和20年以降まで発表されることはなかった。広軌であるシベリア鉄道の威力によるところが大きかったのだ。皮肉にも、これは広軌を主張する幹線特別委員会にとっては有利だった。
昭和14年の日本は、ソ連との衝突だけでなく、ベトナム国境の海南島でも小競り合いを起こし、7月25日アメリカから日米通商条約破棄の通告を受けている。
ブログ「懐かし通り 郷愁倶楽部」より 画像盗みました スンマセン
激動の昭和14年、8月30日には特別委員会の第7回が開かれた。そして、短期間で変わる内閣に向け、中間報告会を開いた。
9月1日、ドイツはポーランドへ侵入、第二次世界大戦の勃発である。
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