農を語る

自然にやさしい不耕起栽培

敗戦76年の今コロナで孫たちにも会えない日々

2021-08-13 06:00:30 | 日本不耕起栽培普及会
私は1941年10月に長崎で生まれ3歳で敗戦、双子だったため乳母が面倒をみてくれたが原爆でその乳母も5日後に亡くなった。父は三菱造船所の所長を務めていたが8月9日朝部下に誘われ魚雷の演習地に向かっていた。幸い助かったがその後爆心地に戻り半年残務処理に努めたため被ばくした。その後愛知の田原が両親の実家があったのでそこで教職に就き40過ぎてからの再出発であった。12,3歳上の兄がいててんかん発作で家族は何かと苦労した。そのことが今思えば人間形成にはプラスとなっている。時代が時代であるから多くの人が同じに貧しかったので兼業して母はお茶の小売りをし、父は受験生の家庭教師もし、土日はサツマイモと小麦畑の世話、庭には鳥小屋を作り20,30羽の鶏の世話をした。当時は井戸も外井戸で水汲みが毎日必要であった。小中学校でも家畜を飼い畑もあり夏休みには裏山に杉の植林も学校行事として動員された。ウサギが飛び出して追っかけた記憶もある。
高校の頃には渥美の和地、土田地区で電照菊の産地があり足しげく通った。試験場があったので将来は花の技師になりたいと千葉大の園芸学部を夢みた。

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