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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(16) 鎮魂!大森町大空襲(第9回)

2006年05月16日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
若山武義氏手記の解説 その2   写真 1934年の日本特殊鋼
若山武義氏の手記「戦災日誌(大森にて)」第6回(5月11日掲載)の、1945年4月15日の大森町大空襲の記述を見ると、
 「敵機は房総半島南端に集結しつつあり」
 ......とたんに空襲警報となった。
 「敵機は東京湾を西北進しつつあり」
 ......さては横浜か川崎が目標だなと判断した。
 ......あっと思う間もなく、京浜国道夫婦橋先に猛烈なる大炸裂音と共に一面火の海の火柱がたった。
とあります。

日曜日で快晴であった4月15日の大森町大空襲は、手記の記述にもある通り、京浜工業地帯の鶴見、川崎、蒲田、大森が精密工業の中心であることから、資料によりますと米軍は工場を破壊することを作戦として、B29爆撃部隊3航空団の1つが大森の平和島以南から蒲田以北の京浜国道を中央線とした大森町の工場破壊を目標として爆撃が行われ、他の2航空団が現在の川崎市小田、浅田、南渡田町を中心とした工場殲滅の爆撃が行われました。
この空襲で、大森は6万8千戸を焼き尽くし、特に大森町は壊滅的被害(国土交通省公開大森町上空の航空写真縮小画像1947年7月撮影)を蒙りました。川崎は3万5千戸を焼き尽くしました。

なお、大森町上空の航空写真標準画像版は、「大森町界隈あれこれ(13) 鎮魂!大森町大空襲(第6回) 」の「手記を読んで想う」欄の下から5行目記載の「ここをクリック」で見られます。
また、ここをクリックすると、大森・川崎大空襲の米軍作戦資料に関するWeb情報が見られます。   (続く)


若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第8回
「ああ、真紅の太陽」
殆ど何万とゆう人と荷物の波だ。この森ヶ崎には高射砲陣地がある筈、若しもここが爆撃されたら、それこそ被服廠の二の舞となる虞れがある。これならうっかり森ヶ崎には行かれないぞ、ここで暫く形勢を見ようと、河の土手に陣どって観望して居た。
此の間、敵機の爆撃は益々熾烈を極め、烈風にあおられる猛炎の火の海。大型焼夷弾は炸裂と共に花火の如き熱焔を吹き上げる。爆弾は轟然炸裂と共に黒煙を天に沖し凄惨とも悲惨とも書くすべを知らぬ。ただ
 「やりやがったな」
と切歯するのみである。午前四時頃、やっと警報解除のサイレンで、やれやれ助かったと安心した。前後約六時間、何ものも残さず燃え盛る。火の手は中々おさまりそうもない。東の空はほのぼのとあけて昇る太陽は真紅であった。

 「ああ、真紅の太陽」
このようなまっかなおてんとうさまは、過ぐる関東大震災の翌朝にあった。私としては生まれて二度目の真紅の太陽、一生に忘れられぬ印象である。

前回 大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂!大森町大空襲(第8回) 
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