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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(K37) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第8回)

2006年08月29日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
北区平和マップ
北区では、今月から区内の戦争や平和に関する史跡などを紹介した「北区平和マップ」の配布を無料で行っております。
平和マップは、A2版を折りたたんだポケットサイズで、かって北区には軍施設や軍需工場が立ち並んでおり、その史跡や平和像など24箇所を写真と解説文で紹介したもので、無料で配布しており25日に入手してきました。

平和マップには、かって北区の面積の10%を占める多くの軍需施設が、北区全域のイラスト マップ上に写真と記事で示されており、どこにどんな軍施設や軍需工場があったのかが一目で分かるように作られておりますので、史跡を訪れるには非常に良いガイドです。
主な軍需施設の史跡は、王子駅近くの王子区役所、中央公園付近には東京第一陸軍造兵廠の赤レンガ建造物の面影が残っており、石神井川の南の滝野川には陸軍用地標石や憲兵の詰め所跡があります。また、環七通りの北側には、陸軍兵器補給廠や射撃場跡があります。

軍需施設跡の他に、北区に1916年から1953年まで住んで居た、彫刻家の北村西望氏(1884-1987)が製作された長崎の平和記念像の分身が、「北トピア」に1990年に建立されており、飛鳥山公園には、平和の女神像が人類の平和と幸福を願って、1973年に建立されております。



無謀、無知な戦争の犠牲
若山武義氏の手記にも戦災記録が克明に記載されておりますように、軍と官による無謀、無知な行為により、一般庶民は激烈な都市大空爆と原爆により多数の死傷者や家屋の戦災を蒙り、沖縄決戦では多くの民間人が激戦に巻き込まれるなど、戦争は勝つものと信じて何も知らない国民は悲惨な戦災の犠牲を蒙りました。
戦争は、想像を絶する大空襲を受け、当時の国民学校(今の小学校)の学童は、家族と離れて生活する縁故・強制の学童疎開が始まり、戦争のため小国民も犠牲を強いられました。

平和マップ配布の資料室には、「子どもの世界でとらえた戦争と平和 終戦50年」東京都北区平成8年3月15日発行 東京書籍印刷の図書が置いてありました。裏表紙に疎開先の学童が、病気療養の帰京した先生に送った絵手紙の、田植えの手伝い(1945年)が描かれてあるのを見て、当時6年生での疎開体験の田の草取りの想いをブログに記述したばかりであり、戦争記録を風化してはならないと購入してきました[大森町界隈あれこれ(K35) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第6回) 2006年06月08日掲載参照]。

この手記の掲載と北区の資料作成の思いは、何度もくどく繰り返しておりますが、二度と悲惨な戦争を起こしてはならないと、戦争記録を風化せずに平和について考えてもらいたいためなのです。

その他北区発行の戦争に関する資料・図書
北区では、「北区平和マップ」の他にも戦争に関する資料を配布しており、その一つに、「戦後60年 写真で語り継ぐ平和の願い」を発行し、平和都市宣言20周年にあたる平成18年3月15日に東京都北区が記念誌の無料で配布しました[大森町界隈あれこれ(25) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第3回) 2006年06月08日掲載参照]。現在、記念誌の残数を北区区役所で有料頒布しておりました。

また、区役所の資料室には、各種の図書・資料が閲覧してあり、記念誌配布の際に、東京空襲関係の図書「真っ赤な空は忘れられない 戦争体験の記録」昭和63年(1988年)3月15日東京都北区編集・発行、(有)鯨吼社制作が置いてありましたので入手しました[大森町界隈あれこれ(26) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第4回) 2006年06月11日掲載参照]。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第8回
東久邇宮内閣
終戦内閣としての任務終了せりとして、今後の後始末は他の適任者にと云う理由に鈴木内閣は総辞職した。敗戦の困惑、国家内外の難問題累積、一歩其の収拾を誤まらんか、亡国とならんとも限らない。皇国の興廃の岐路、真実 卵の危機である。此の際、幕末の勝安房先生の如き卓越した人は居ないものか、何もかも安心して任せられる人がないものかと、我々庶民の目でさがしてみたが、政党には勿論、今更軍人ではなし、では重臣はと指折って見ても、これはと思う人は一人もない貧困さである。処が東久邇宮殿下に大令が降下したのでホット安心、全く嬉しかった。昔はともかく、明治以来初めての宮様内閣である。

而して初の内閣記者団との御会見の席上、何が故に戦争に負けたかの理由として
 一、戦力の壊滅的打撃と戦災の被害が想像以上甚大なる為め其の生産力の低下。
 一、官僚統制の為め、法律法令の乱発、全部とは云わぬが我が国情に適せぬ統制の為め、
   国民が働きたくも働けぬ程苛酷であった。
 一、軍、官はなかば公然とヤミをやり、国民はひそかにヤミをやった。
 一、国民道義の低下。  
等数項目を挙げて御説明遊ばされた。

何れ来るべき議会に数字を挙げて、国民の得心の行く様説明をするが、大体空襲が想像以上激烈であり、故に戦力が壊滅的打撃を受け、新に真に恐るべき原子爆弾の出現と、ソ連の参戦を直接の原因とし、国民はあまりにも多き朝令暮改の法律法令の乱発に手も足もしばられて、働きたくとも働く気力を失い、且つ官僚統制が全部とは云わぬが、大部分、我が国情に沿わぬ統制を行う事が却って戦力の増強を阻止し、軍、官は半ば公然と、民間はひそかにヤミをやり、為に国民の道義頗る低下したるが重なる素因である。丁度父親が派手に商売をやっていて、うんと儲けて居たとばかり思うて居た処、ポックリ死なれた。あると思う資産がなく、却って数えきれぬ程の借金で、その始末に処置なしと呆然たると同じであると、くだけて仰せられた。然して、新日本建設には真に国民全部総ざんげをしなければならぬと、力強く仰せ給ったのである。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
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