若山武義氏手記の解説(大森町大空襲) その6
東京大空襲の記録写真集としては、石川光陽氏の撮影された1942年(昭和17年)8月18日の東京初空襲から、1945年(昭和20年)5月25日の山の手地区空襲までの間の東京空襲の有様を地上からの被災現場写真を撮影して編集発行した、「<グラフィック・レポート>東京大空襲の全記録」岩波書店1992年3月10日発行の図書が、現存する唯一の貴重な記録資料なのです。
<グラフィック・レポート>東京大空襲の全記録 岩波書店
それは、1943年(昭和18年)5月7日に内務省警保局の命により、空襲被害の状況を敵国はもちろん国民の目からも隠匿するために、空襲現場の写真撮影や被害現場への立ち入りは禁じられておりました。唯一、石川氏が警視庁のカメラマンだった1944年(昭和19年)11月24日、B29による初めての東京空襲(中島飛行機製作工場)があった日、空襲写真専務になるように命じられて、愛機のライカを片手に、日々本格化する空襲の現場を飛び回り、未だくすぶる焼け跡、崩壊した家屋、無惨な遺体を撮影し続けたのです。
戦後、GHQ は、東京空襲を撮影した唯一のカメラマンである石川氏の存在を探り出し、フィルムの提出を命令した。しかし石川氏は、自分が命をかけて撮影したフィルムを渡すまいと提出を拒否し、こっそり持ち帰って自宅の庭に埋めてしまった。
繰り返しの提出命令にもかかわらず石川氏はそれを拒否し続け、これは当時としてみれば命がけの行動により、「東京大空襲の全記録」が発刊されたものです。
「東京大空襲の全記録」には、1945年3月10日の東京下町の大空襲を初めとして、4月13日の豊島、新宿や4月15日の大森町大空襲を含めて、34日に及ぶ撮影した無惨な遺体の写真や、見渡す限り瓦礫の山となった被災現場写真が掲載されております。
大森町大空襲の被災現場写真(4月16日撮影)には、①大田区大森6丁目付近の焼け跡1(同書115ページ掲載)、②大森警察署前で配給の乾パンを積み込む(同書115ページ掲載)、③大田区大森6丁目付近の焼け跡2(同書116ページ掲載)、④大田区大森3丁目付近(同書117ページ掲載)、⑤蒲田警察署前通り(同書116ページ掲載)などの学童疎開前に目の当たりにした所の瓦礫の山となった被災現場写真が掲載されております。
このブログに取って大森町大空襲の貴重な記録写真ですので掲載したいと思い、石川光陽氏のご遺族の方と折衝致しましたが、残念ながら折り合いがつきませんでしたので断念しました。
ご覧頂くには、「東京大空襲の全記録」は各所の図書館に蔵書として保管されておりますので、見ることができます。また、岩波書店には残数があると思いますので、購入の上ご覧下さい。
若山武義氏の手記(1946年記述) 第2編「戦災日誌(中野にて)」第2回
五月二十三日の大空襲
其の夜の空襲も、東中野、渋谷、目黒、大森に亘る一面火の海、相当大仕掛けの爆撃である。省線が全然普通、自転車で余燼つきぬ東中野から新宿、渋谷を経て目黒も相当な被害である。会社は無事なので、安心して久ヶ原に行く道筋、大岡山付近は全滅同様通行止め、迂回してやっと久ヶ原にに来たら、こはなんと高射砲陣地は跡も形もない。伊藤さんの所へ来て見ると、焼跡にお母さんが呆然立って「亦やられました」と苦笑された。先ず何より無事でよかったと心から喜ぶより外ない。そこへ利雄さんがかえる、なんとした事だ。「これではだんだん東京に住む家は一軒もなくなるね」と慰めようなく顔見合せて苦笑した。
これで東京が一軒残らず焼けた処で、戦争が負けるなんて事は夢にも亦みじんも思いもせず考えもしないのである。これで久ヶ原で借りようとした二軒も諸共形も影もない。借家の有無を鶴の首の様にして待って居た妻も伊藤さんの再度の羅災に唖然とした。
<前回 大森町界隈あれこれ(19) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1回) へ
次回 大森町界隈あれこれ(25) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第3回) へ>
東京大空襲の記録写真集としては、石川光陽氏の撮影された1942年(昭和17年)8月18日の東京初空襲から、1945年(昭和20年)5月25日の山の手地区空襲までの間の東京空襲の有様を地上からの被災現場写真を撮影して編集発行した、「<グラフィック・レポート>東京大空襲の全記録」岩波書店1992年3月10日発行の図書が、現存する唯一の貴重な記録資料なのです。
<グラフィック・レポート>東京大空襲の全記録 岩波書店
それは、1943年(昭和18年)5月7日に内務省警保局の命により、空襲被害の状況を敵国はもちろん国民の目からも隠匿するために、空襲現場の写真撮影や被害現場への立ち入りは禁じられておりました。唯一、石川氏が警視庁のカメラマンだった1944年(昭和19年)11月24日、B29による初めての東京空襲(中島飛行機製作工場)があった日、空襲写真専務になるように命じられて、愛機のライカを片手に、日々本格化する空襲の現場を飛び回り、未だくすぶる焼け跡、崩壊した家屋、無惨な遺体を撮影し続けたのです。
戦後、GHQ は、東京空襲を撮影した唯一のカメラマンである石川氏の存在を探り出し、フィルムの提出を命令した。しかし石川氏は、自分が命をかけて撮影したフィルムを渡すまいと提出を拒否し、こっそり持ち帰って自宅の庭に埋めてしまった。
繰り返しの提出命令にもかかわらず石川氏はそれを拒否し続け、これは当時としてみれば命がけの行動により、「東京大空襲の全記録」が発刊されたものです。
「東京大空襲の全記録」には、1945年3月10日の東京下町の大空襲を初めとして、4月13日の豊島、新宿や4月15日の大森町大空襲を含めて、34日に及ぶ撮影した無惨な遺体の写真や、見渡す限り瓦礫の山となった被災現場写真が掲載されております。
大森町大空襲の被災現場写真(4月16日撮影)には、①大田区大森6丁目付近の焼け跡1(同書115ページ掲載)、②大森警察署前で配給の乾パンを積み込む(同書115ページ掲載)、③大田区大森6丁目付近の焼け跡2(同書116ページ掲載)、④大田区大森3丁目付近(同書117ページ掲載)、⑤蒲田警察署前通り(同書116ページ掲載)などの学童疎開前に目の当たりにした所の瓦礫の山となった被災現場写真が掲載されております。
このブログに取って大森町大空襲の貴重な記録写真ですので掲載したいと思い、石川光陽氏のご遺族の方と折衝致しましたが、残念ながら折り合いがつきませんでしたので断念しました。
ご覧頂くには、「東京大空襲の全記録」は各所の図書館に蔵書として保管されておりますので、見ることができます。また、岩波書店には残数があると思いますので、購入の上ご覧下さい。
若山武義氏の手記(1946年記述) 第2編「戦災日誌(中野にて)」第2回
五月二十三日の大空襲
其の夜の空襲も、東中野、渋谷、目黒、大森に亘る一面火の海、相当大仕掛けの爆撃である。省線が全然普通、自転車で余燼つきぬ東中野から新宿、渋谷を経て目黒も相当な被害である。会社は無事なので、安心して久ヶ原に行く道筋、大岡山付近は全滅同様通行止め、迂回してやっと久ヶ原にに来たら、こはなんと高射砲陣地は跡も形もない。伊藤さんの所へ来て見ると、焼跡にお母さんが呆然立って「亦やられました」と苦笑された。先ず何より無事でよかったと心から喜ぶより外ない。そこへ利雄さんがかえる、なんとした事だ。「これではだんだん東京に住む家は一軒もなくなるね」と慰めようなく顔見合せて苦笑した。
これで東京が一軒残らず焼けた処で、戦争が負けるなんて事は夢にも亦みじんも思いもせず考えもしないのである。これで久ヶ原で借りようとした二軒も諸共形も影もない。借家の有無を鶴の首の様にして待って居た妻も伊藤さんの再度の羅災に唖然とした。
<前回 大森町界隈あれこれ(19) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1回) へ
次回 大森町界隈あれこれ(25) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第3回) へ>