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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(25) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第3回)

2006年06月08日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
若山武義氏手記の解説 その7
大森町大空襲の戦災を受けた後、一旦仙台に帰郷してからご家族で東京の中野の借家住まいで再度の東京大空襲の戦災に遭い、その爆撃の情景の凄まじさを記述した、若山武義氏手記の第2編 戦災日誌中野にて(第3回)を読むと、無残な戦争を再び繰り返してはならないと改めて思いを募らせます。皆様で、平和について考え恒久平和を願い、戦争記録を風化させることなく、語り継いでいく必要があります。
若山武義氏の手記はまだまだ続きますが、お読みになられた方は、是非皆様にご紹介して頂ければ幸いと存知ます。

今回の東京大空襲の記録資料は、平和都市宣言20周年にあたる平成18年3月15日に東京都北区が発行し、無料で配布された記念誌の「戦後60年 写真で語り継ぐ平和の願い」をご紹介します。

記念誌の発行の趣旨は、A4版49頁たてで、戦争の記録と記憶を風化させることなく、未来に語り継いで行くことを目的として、北区出身の推理作家・内田康夫氏の特別寄稿をはじめ、写真を中心に当時の区民生活や区内の戦跡などを紹介しています。
なお、現在、無料配布が終わり、区役所第一庁舎1階「区政資料室」において、1冊250円で有料配付しています。
また、 「戦後60年-写真で語り継ぐ平和の願い」のホームページ(ここをクリック)の「ダウンロード」欄から、記念誌を27ページに抜粋したPDF ファイル (12296.68KB) のダウンロードができます。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第2編「戦災日誌(中野にて)」第3回
五月二十五日中野大空襲
翌五月二十五日、西荻窪に坂部氏を訪ね、借家さがしを頼んで夕方かえり、九時頃就寝しようとすると警報が出た。ものの十分とたたぬうちに空襲警報となった。大急ぎで身仕度をして戸外に出て形勢観望である。妻も娘も一昨夜と今晩と二度目の空襲である。
初め敵機は立川方面より帝都に侵入し始めた。我が軍の迎撃も物凄く、探照灯は八方より集中捕捉せる敵機に高射砲は力一杯火蓋をきり花火の如く沖天に炸裂する。見ている我々は、アー今少し、アッ、アタッタアタッタと手に汗を握るばかり。たちまち一機亦一機と火達磨となって墜落する。B29からの応戦も亦猛烈で、ドドッドドッと打ち出ち機関砲弾、一聯の花火のようである。戦は真に凄惨となった。
此の時、敵機の編隊の先頭機に隼の如き勢いにて突進迫る我が戦闘機に対し、敵機の集中砲火を物とせず遂に体当り、一塊の火の玉となって我が機は散華したのである。見て居った我々一団の男女、思わず知らず「アッ」と悲鳴をあげて声を呑んだ。体当りされた敵機も次第に速度がおち、火を吹き出したように見えた。こうして、他所事のように此の時は見て居れた。

今度は、敵機は反対の方面、帝都の中心より侵入し始め、我等の頭上に交錯し始めた。あっ、これは危険だぞと思うまに、幡ヶ谷、高円寺、東中野方面が次第に火の海となり出した。秒一秒、不安がつのり、焦慮がます。いよいよ大変な事になったと思うトタンに
  ピピユーピピユー
物凄い腸のちぎれるような怪音と共に、焼夷弾が一斉に附近一帯に落下した。
「組長さんのとこ、焼夷弾落下!」
と女の呼び声。ソレッとばかり、平素の訓練通りバケツ持ち出した連中、二発は消し止めたけれど、近所近隣のは一ぺんに火を吹き出した。もう消す処の沙汰ではない。此の勢いに皆退避し初めた。

前回 大森町界隈あれこれ(23) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第2回) 
次回 大森町界隈あれこれ(26) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第4回) 
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