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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(9) 鎮魂!大森町大空襲(第2回)

2006年04月15日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
鎮魂!大森町大空襲の追憶記録
大森町大空襲により大森町近辺が61年前の4月15日の今日、爆弾と焼夷弾爆撃により殆どが焼き尽くされました。この大戦で、肉親や財産を失ったり、戦場であるいは戦場と区別がつかない銃後において、大変苦しく、つらい体験をお持ちの方々が現在も沢山おられます。

しかし、戦争が終わって、今日の経済的繁栄により暮らしが豊かになり、戦争体験のない世代が殆どになり、大森町大空襲の悲惨な思い出が風化して薄らいでおります。
二度と過ちを繰り返さないために、戦争の悲惨さや、平和の尊さについて、後世に語り継ぐ必要があると考え、ご遺族石川様のご好意によるご提供により、今回より連載で若山武義氏(没1972年10月27日 東北出身)の遺稿の貴重な手記(1946年1月記述)を無修正で原文のまま掲載して、大森町大空襲時の記録を追憶していきます。
若山武義氏が手記で大森町大空襲を体験した実在の場所は、「大森町界隈あれこれ(1) 大森町に住んで65年!(その1)」(2006年3月19日掲載ブログ)の掲載住居地図(再掲)のB地区が勤務先本社であり、A地区が出先の大森町事務所で後に強制疎開(第1回記事参照)で取り壊されました。大森町事務所の二階は、疎開前まで私の住んでいた居住宅であります。


若山武義氏の手記(1945年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第1回

B29帝都上空に初見参
昭和19年(1944年)11月1日と2日と引き続き、涙を呑んで失陥せるサイパン島を基地とせるB29の巨体が帝都上空に初見参したのであった。前年4月18日の空襲は全く予期せぬ出来事で、被害を受けた一部の人を除いては、何が何だか半信半疑であり、学童を機銃掃射をなしたる鬼畜の行為にただ憤慨したのである。
今日は、サイパンの基地が整備されたら来襲必至である事は予想はして居ったが、こんなに早く来るとは思はなかっただけ、全く不意を衝かれ、帝都民の周章狼狽沙汰の限りであった。
国運を賭する戦争に無関心な若き女性のある一部、銀座街道を華美な長袖をひらめかしてブラックに対し「決戦下長い袖はお切りなさい」と、カードを突きつけた有閑オセッカイ女史の忠告に、本当に御世話さまと笑殺した女性群も、今は云わず語らず戦時型のモンペイに防空頭巾と型式だけは先ず整った。我等男子は鉄兜を背にゲートル巻き、初めて前線もなく銃後もない戦時生活に突入せざるを得ぬ事となった。さもなくともいとど混雑の電車に、背中の鉄兜がこれこそ本当の鉢合せをなし、ゴツンゴツンと怪音を発し、押し込みへしこみ、遂にビリビリと窓硝子を破る珍風景は、この時よりぞ始まりける。

東京空襲の幕開け
敵もさるもの、偵察は頗る慎重を極め、11月下旬初めて編隊を組んで来襲、荏原区始め二、三ヶ所初爆撃を為してから、暫時其の戦法も本格化し、来る時間もだんだん短縮、機数も逐次増加して来たのである。
いよいよ戦はこれからだ、サア来い来れ、と都民も緊張して来て、灯火管制も先ず先ず完全の域に、お互いに注意せずとも、すむようになった。
12月になってから、敵機は毎夜、九時、十二時~或いは二時か三時と、定期便に十分といとわずに飛来して来る。其の都度警報のサイレンが物凄くいやな怪音を吹鳴する。
隣組の警報伝達がだんだん手際よくなる。三分間のサイレンの泣く中に完全に灯火が消え、防空の仕度が出来上がる。習うより慣れろで
   電灯消せ
なんて野暮な黄色い声でどなる必要がなくなった。
大晦日の晩は、年末の借金取しか、敵さん御丁寧にも三度御越しになって、浅草の一部が相当の火災であった。

前回 大森町界隈あれこれ(8) 鎮魂!大森町大空襲(第1回) 
次回 大森町界隈あれこれ(10) 鎮魂!大森町大空襲(第3回) 
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