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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(12) 鎮魂!大森町大空襲(第5回)

2006年04月27日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(1) 根津山小さな追悼会10周年記念文集についてその3
4月23日の午後、池袋で前の会社のOB会を開くということで、やや早めに家を出て根津山小さな追悼会が執り行われた「南池袋公園」に足を伸ばしました。
南池袋公園は、池袋駅東口の繁華街の駅前通りを東に10分ほどのところにあり、昭和26年(1951年)11月に開園した豊島区では2番目に大きい公園です。

大正時代には、池袋駅東口グリーン大通りを挟んだ11万5千平方メートルほどの根津山と呼ばれる雑木林だったそうです。戦争中に大きな防空壕が数か所作られ、4月13日の空襲で炎を逃れて根津山に非難した多くの人が助かったと云われております。この時の大空襲では741名の方が亡くなり、焼死体を根津山の西に位置する南池袋公園(当時 雑司が谷公園)周辺に仮埋葬されたといわれます。(4・13根津山小さな追悼会10周年記念文集から)


追悼碑にデザインされた矢島勝昭氏画集の防空壕
南池袋公園には、多くの犠牲者の冥福を祈るため、根津山追悼会の委員の方が碑文・デザインを草案した「豊島区空襲犠牲者哀悼の碑」、平成7年8月に建立されました。
戦争の痕を残す碑は、恒久の平和を願う碑文、追悼会委員の矢島勝昭氏が描いた根津山の防空壕と豊島区周辺の灰燼被害を示した地図がデザインされてます。
犠牲者の碑に冥福を祈り、公園を後にしました。


若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第4回
3月9日の夜から10日朝に於ける本所、深川、浅草に亘る、今迄になき大規模な絨緞大爆撃、空前の強風にあおわれ、死傷算なく、全く其の惨害、関東大震災の幾層倍ぞや。
震災で焼け残った浅草の観音さまも、遂に跡もかたもなく、其の惨悲筆紙の尽すところではない。

建物疎開
サイパン失陥後は、帝都空襲必死だ位は、我々素人でも予期して居った。されば其の当時なら余裕と時間があったのであるから、充分建物疎開をして居ったなら、此の惨害も、受けるとしても相当阻止し得たのでないかと思う。然るに3月17日遂に硫黄島失陥した翌18日、城南3区即ち品川、大森、蒲田、京浜電鉄沿線両側外数十線路の強制疎開の発令だ。
其の説明としては、「鶴見、川崎、蒲田、大森は精密工業地帯である。万一ここが戦災にあっては戦力の上にも由々しき大事である、故に万難を拝して強制疎開を実施するものである」と。


疎開前の会社事務所(1941年頃)
なんだ今頃、敵が土足で玄関にとぐろ巻いているではないか、呆れもするし腹も立つけれど、これが小磯さんの所轄強力政治なのであろう。
   一切政府と軍を信頼せよ
との事に、我々庶民は一言の抗議も批判も許されぬ。泣く子と地頭に勝たれぬ民衆は、羊の如く従順で且つ盲目である。必ず勝つ戦争だ、泣き言や愚痴は禁物だと一切あきらめてしまった。強制疎開は24日迄、間引疎開は30日迄と云う訳。何十万の人々、戦災で家のないのに何処に落付く事かと、全く足許から鳥の飛び立つ騒ぎである。

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