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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(K32) 手記第3編 終戦前後目黒にて (第3回)

2006年07月07日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(7)
若山武義氏の手記に同期して、今回も「海野十三敗戦日記」を見ていきます。

八月九日(その一) の日記から
○ 去る八月六日午前八時過ぎ、広島へ侵入したB29少数機は、新型爆弾を投下し、相当の被害を見たと大本営発表があった。これは落下傘をつけたもので、五、六百メートル上空で信管が働き、爆発する。非常に大きな音を発し、垂直風圧が地上のものに対して働くばかりか、熱線を発して灼く。日本家屋は倒壊し、それによる被害者は少なくなかった。熱線は、身体の露出部に糜爛を生じ、また薄いシャツや硝子は透過して、熱作用を及ぼすのである。

八月九日(その二) の日記から
○ 「今九日午前零時より北満及朝鮮国境をソ連軍が越境し侵入し来り、その飛行機は満州及朝鮮に入り分散銃撃を加えた。わが軍は目下自衛のため、交戦中なり」とラジオ放送が伝えた。
ああ久しいかな懸案状態の日ソ関係、遂に此処に至る。それと知って、私は五分ばかり頭がふらついた。もうこれ以上の悪事態は起こり得ない。これはいよいよぼやぼやしていられないぞという緊張感がしめつける。

○ 夕刻七時のニュース放送。「ソ連モロトフ人民委員は昨夜モスクワ駐在の佐藤大使に対し、ソ連は九日より対日戦闘状態に入る旨の伝達方を要請した」由。事はかくして決したのである。
これに対し、わが大本営は、交戦状態に入りしを云うるのみにて、寂として声なしというか、静かなる事林の如しというか......
とにかく最悪の事態は遂に来たのである。これも運命であろう。二千六百年つづいた大日本帝国の首都東京が、敵を四囲より迎えて、いかに勇戦して果てるか、それを途中迄、われらこの目で見られるのである。
 最後の御奉公を致さん。

八月十日の日記から
○ 今朝の新聞に、去る八月六日広島市に投弾された新型爆弾に関する米大統領トルーマンの演説が出ている。それによると右の爆弾は「原子爆弾」だという事である。
 あの破壊力と、あの熱線輻射とから推察して、私は多分それに近いものか、または原子爆弾の第一号であると思っていた。
......
 戦争は終結だ。

原子爆弾 (Wikipedia原子爆弾から)
広島市:1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分。原子爆弾リトルボーイは、第33代アメリカ合衆国大統領、ハリー・S・トルーマンの原子爆弾投下への決意(トルーマンの日記に7月25日夜投下決意の記載あり)により発した大統領命令を受けたB-29(エノラ・ゲイ)によって投下された。爆心地は、市街地中心部の細工町の広島県産業奨励館の東約200メートルで、爆心地から1.2kmの範囲では8月6日中に50%の人が死亡し、1945年12月末までに14万人が死亡したと推定されている。
長崎市:1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分。原子爆弾ファットマンが、B-29(ボックスカー)によって市北部に位置する松山町171番地のテニスコート上空に投下された。即死は推定3万5千名で、最終的には7万名以上が死亡した。

ソ連参戦 (Wikipediaヤルタ会談から)
1945年2月にソ連クリミア半島のヤルタで行われた、ルーズベルト(米)、チャーチル(英)、スターリン(ソ連)による首脳会談(ヤルタ協定)の極東密約で、ルーズベルトは、千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、ソ連の対日参戦を求め、これが協定の形にまとめられた。協定では、ドイツ降伏の2~3ヵ月後にソ連が日本との戦争に参戦すること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すことなどが決められた。
ソ連は、ドイツ降伏3ヵ月後に日本に宣戦布告。広島に原爆投下されても、なおも抵抗を続けていた日本軍は、ソ連参戦の翌日にポツダム宣言受諾を決めた。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第3編「終戦前後(目黒にて)」第3回
原子爆弾投下
我々庶民は、新聞、雑誌、ラヂオ以外に世間の様子は皆目わからないが、こうした新聞記事によって、最後の五分の必勝の信念は疑わない、必ず近いうちに痛快な快勝に勇壮な軍艦マーチを聞く事を夢にまで待って居るのであるが、反面亦不安少なしとせぬ。負けるも運命だ、勝つのも運命なら、一つ、一か八かと大勝負をして我々を一刻も早くあきらめさせて貰いたいなと云う焦慮が現れる事もある。

毎日の様にB29から宣伝ビラが散布される。手に持つな、読むな、届け出ろと云われても、好奇心で読まざるを得ぬ。届けは面倒だから手軽に焼いてしもう。デマは聞きたくもないけれど乱れ飛ぶ。八月に入るとデマとばかり想わぬ事もある。処に広島、長崎に投下された爆弾は世にも恐るべき原子爆弾と知って驚愕した。
初めは、公の発表は、新型は新型でも大したものではないとあったけれど、科学に殆ど無知な我々でも、マッチ函一つで戦闘艦を粉々にする威力があると何時かの貴族院の田中舘博士の演説を思い出さぬ訳にはゆかぬ。

  ピカッ! ドカン!
と来たら、逃げようがかくれようが一巻の終りである。どうせ人間一度は死ぬんだ、まさか百年とは生きられない、あとやさきに死ぬより、親子諸共死ぬのである、おまけにそれも隣組のみんなといっしょなら、地獄に行っても淋しくはないとヤセ我慢は云うものの、どうにもならぬ恐怖。それからは夜中の警報にも起きない、ねたまんま、このままドカンと来た方が本望だ位に、あきらめられぬとあきらめてしまった。

ソ連参戦
  そこにソ連の宣戦
畜生やりやがったな、ただむざむざとくたばるのもおもしろくない、こうなったら暴れるだけ暴れて死にたいもんだ。本当に生か死の 
  大号令が出そうなものだ
なと、期待したものは我れ一人ではあるまい。必ず大号令の出るものと予期した八月十四日晩
 「明日重大放送がある」
との予告である。

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