東京大空襲の記録資料(3)
大空襲記録資料は、前回に続き「海野十三敗戦日記」について紹介します。
中公文庫BIBLIO海野 十三 (著), 橋本 哲男 (編集) 文庫 (2005/07/26) 中央公論新社の「海野十三敗戦日記」の章立ては、「空襲都日記(第一部)」、「降伏日記(空襲都日記第二部)」に続き編集者の橋本 哲男の「愛と悲しみの祖国に」が掲載され、その後に「編者あとがき」と長山 靖生の「解説」で構成されております。
空襲都日記(第一部)
「空襲都日記(第一部)」は、昭和十九年(1944年)十二月七日の「はしがき」で始まり、同年十二月十日の空襲から日記を書き始めているが、その前に十一月一日の初空襲、十一月二十四日の本格的空襲と海野 十三が戦前の昭和十六年(1941年)に作った防空壕のことを含めて、「これまでのことを簡単に」に記述してあります。
空襲都日記は、若山武義氏手記と異なり、都民殺戮の焼夷弾爆撃による四方八方火の海の中を逃げ回るような描写とは異なり、空襲の経過を記録的に記述してあります。
三月十日の10万人が亡くなった下町空襲を記述した、三月十三日の日記から抜粋してみる。
三月十日の10万人が亡くなった下町空襲を記述した、三月十日および十三日の空襲都日記から抜粋してみる。
三月十日
○昨夜十時半警戒警報が出て、東南洋上より敵機三目標近づくとあり。この敵、房総に入らんとして入らず、旋廻などをして一時間半ぐらいぐずぐずしているので、眠くなって寝床にはいったら、間もなく三機帝都へ侵入の報あり、空襲警報となり、後続数目標ありと、情報者は語調ががらりと変わる。起きて出てみれば東の空すでに炎々と燃えている。ついに、大空襲となる。
◯発表によれば百三十機の夜間爆撃。これが最初だ。
◯折悪しく風は強く、風速十数メートルとなる。
三月十三日
◯十日未明の大空襲で、東京は焼死、水死等がたいへん多く、震災のときと同じことをくりかえしたらしい。つまり火にとりまかれて折重なって窒息死するとか、橋の上で荷物を守っていると両端から焼けて来て川の中へとび込んだとか、橋が焼けおち川へはまったとか、火に追われて海へ入り、水死又は凍死したとか、川へ入ったが岸に火が近づいたので対岸へ泳いで行くと、そこも火となり水死したとかいう話が下町の方にたくさんあり、黒焦死体が道傍に転り、防空壕内で死んで埋っているのも少くないとの事である。
(次回に続く)
若山武義氏の手記(1946年記述) 第2編「戦災日誌(中野にて)」第6回
九死に一生の脱出
如何にせんかと思案に迷う時、中年の婦人が「この先きに一昨夜の戦災で相当広い焼跡がある筈です、そこより外に安全な処はないけれど、そこへ行くには、あそこの下火となった一丁位(110m)もある処を渡れば行かれます。「行きませんか」と誘われたので、「それでは行きましょう」と「さあ来いよ、今一ぺん火渡りだ」、はじめてでないだけおそろしいとは思わない。行く途中井戸があったのでこれ幸いと水をもらい、防空頭巾から着物みんなぬらし、水をかけられるだけかけて、さあ来いで飛び出した。
来て見ればなるほど約一丁位、火は燃えくずれて余燼もうもうと云う処、かけれるだけかけろよと先頭になってかけ出して、改正道路まで最後の突破、みんな無事出来た。
兵隊さんが大勢で消火してる、向う側に早く行けとの指示でヤット目指す一昨夜の焼跡、なる程、ここなら天下一品の安全地帯だ。
ヤレヤレ御蔭様で助かった、ありがたかったと思う嬉し涙。道傍に積んである石材に、いっしょになった婦人も妻も腰かけたまま、つかれはてたのと安心でねてしまった。娘たちも道路に毛布をしいてゴロねとのびてしまった。
夜もすでに明けたけれど、吹きまくる風に余燼もうもうとして目も口もあけられぬけれど、妻や娘たちを起こし、焼跡を見に迂回に迂回して来て見たら、何もの一つも残らずきれいさっぱりと焼きつくした。電柱は今尚火を吹いてる。それから西荻窪の坂部氏宅に一時落付くこととし、お互い無事を喜んだ。
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(5月分掲載Indexへ)
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大空襲記録資料は、前回に続き「海野十三敗戦日記」について紹介します。
中公文庫BIBLIO海野 十三 (著), 橋本 哲男 (編集) 文庫 (2005/07/26) 中央公論新社の「海野十三敗戦日記」の章立ては、「空襲都日記(第一部)」、「降伏日記(空襲都日記第二部)」に続き編集者の橋本 哲男の「愛と悲しみの祖国に」が掲載され、その後に「編者あとがき」と長山 靖生の「解説」で構成されております。
空襲都日記(第一部)
「空襲都日記(第一部)」は、昭和十九年(1944年)十二月七日の「はしがき」で始まり、同年十二月十日の空襲から日記を書き始めているが、その前に十一月一日の初空襲、十一月二十四日の本格的空襲と海野 十三が戦前の昭和十六年(1941年)に作った防空壕のことを含めて、「これまでのことを簡単に」に記述してあります。
空襲都日記は、若山武義氏手記と異なり、都民殺戮の焼夷弾爆撃による四方八方火の海の中を逃げ回るような描写とは異なり、空襲の経過を記録的に記述してあります。
三月十日の10万人が亡くなった下町空襲を記述した、三月十三日の日記から抜粋してみる。
三月十日の10万人が亡くなった下町空襲を記述した、三月十日および十三日の空襲都日記から抜粋してみる。
三月十日
○昨夜十時半警戒警報が出て、東南洋上より敵機三目標近づくとあり。この敵、房総に入らんとして入らず、旋廻などをして一時間半ぐらいぐずぐずしているので、眠くなって寝床にはいったら、間もなく三機帝都へ侵入の報あり、空襲警報となり、後続数目標ありと、情報者は語調ががらりと変わる。起きて出てみれば東の空すでに炎々と燃えている。ついに、大空襲となる。
◯発表によれば百三十機の夜間爆撃。これが最初だ。
◯折悪しく風は強く、風速十数メートルとなる。
三月十三日
◯十日未明の大空襲で、東京は焼死、水死等がたいへん多く、震災のときと同じことをくりかえしたらしい。つまり火にとりまかれて折重なって窒息死するとか、橋の上で荷物を守っていると両端から焼けて来て川の中へとび込んだとか、橋が焼けおち川へはまったとか、火に追われて海へ入り、水死又は凍死したとか、川へ入ったが岸に火が近づいたので対岸へ泳いで行くと、そこも火となり水死したとかいう話が下町の方にたくさんあり、黒焦死体が道傍に転り、防空壕内で死んで埋っているのも少くないとの事である。
(次回に続く)
若山武義氏の手記(1946年記述) 第2編「戦災日誌(中野にて)」第6回
九死に一生の脱出
如何にせんかと思案に迷う時、中年の婦人が「この先きに一昨夜の戦災で相当広い焼跡がある筈です、そこより外に安全な処はないけれど、そこへ行くには、あそこの下火となった一丁位(110m)もある処を渡れば行かれます。「行きませんか」と誘われたので、「それでは行きましょう」と「さあ来いよ、今一ぺん火渡りだ」、はじめてでないだけおそろしいとは思わない。行く途中井戸があったのでこれ幸いと水をもらい、防空頭巾から着物みんなぬらし、水をかけられるだけかけて、さあ来いで飛び出した。
来て見ればなるほど約一丁位、火は燃えくずれて余燼もうもうと云う処、かけれるだけかけろよと先頭になってかけ出して、改正道路まで最後の突破、みんな無事出来た。
兵隊さんが大勢で消火してる、向う側に早く行けとの指示でヤット目指す一昨夜の焼跡、なる程、ここなら天下一品の安全地帯だ。
ヤレヤレ御蔭様で助かった、ありがたかったと思う嬉し涙。道傍に積んである石材に、いっしょになった婦人も妻も腰かけたまま、つかれはてたのと安心でねてしまった。娘たちも道路に毛布をしいてゴロねとのびてしまった。
夜もすでに明けたけれど、吹きまくる風に余燼もうもうとして目も口もあけられぬけれど、妻や娘たちを起こし、焼跡を見に迂回に迂回して来て見たら、何もの一つも残らずきれいさっぱりと焼きつくした。電柱は今尚火を吹いてる。それから西荻窪の坂部氏宅に一時落付くこととし、お互い無事を喜んだ。
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(5月分掲載Indexへ)
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