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保護される権利が自己決定権に読替えられてしまった経緯

2018-11-03 09:02:03 | 読書ノート
森田明『未成年者保護法と現代社会:保護と自律のあいだ』有斐閣, 1999.

  米国における少年犯罪に対する最高裁判決、子どもの権利条約の採択過程での各国のやりとり、および日本における少年法制定の論議の三つを検証し、子どもの保護と子どもの自律のバランスに対する考え方がどう変化していったのかを跡づけるという内容である。著者は法学者で、本書も専門的な法学書である。また、1986年から98年の間に発表された論文を編集した論文集であり、記述される事項の繰り返しが多い。2008年に第6章への補論を加えた第二版が発行されている。

  本書によれば、政府による子どもへのパターナリズム的な制度は、19世紀の米国で誕生したという。当時、親から養育を放棄されたような一部の子どもたちは、何の保護もないまま労働市場で長時間労働をさせられて、犯罪を犯せば成人と同じように取り扱われた。こうした状況を憂う一部の社会改良主義者たちが、少年保護を掲げた少年裁判所制度を創設して「保護される権利」という意味での「子どもの権利」を確立した。

  しかしながら、1960年代になると、このような制度的なパターナリズムは未成年の決定権を奪うものとして批判の対象となった。1968年の連邦最高裁の判決以降は、保護よりも子どもの自己決定権が強調されるようになった。同時代に伝統的な家庭の崩壊と少年犯罪の激増があり、少年刑法犯も成人と同じように処遇されるべきだとする機運も形成された。一方で、教育機関の秩序維持をめぐるさまざまな問題を引き起こし、反発も生み出した。1980年代になると連邦最高裁もパターナリズムを認める方向に軌道修正するようになっている。

  1989年の国連子どもの権利条約は「保護される権利」と「子どもの自己決定権」が混在していて折衷的であり、またドイツのように親権を認める留保をつけての批准もある。米国は、条約採択において議論をリードしたが、議会の反対にあって最終的に批准できなかった。子どもの自己決定権は、当初推進者が考えていたほどの魅力的なアイデアとは今は思われていないということだ。なお日本は米国からの影響を微妙に受けつつも、パターナリズムを放棄するような制度的変化はないとのことである。

  以上。ピンカーが『暴力の人類史』で、1960-70年代は米国における犯罪が激増した時期だと書いていたことを思い出す。1960年代以降の米国の子どもは、自己決定権を与えられると同時に崩壊した秩序も押し付けられたわけだ。当然、得した子どもとそうでない子どもがいただろう。子どもの権利が子どもの困難をすべて解決するわけではないことがわかる。
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