カットグラス?

農家の息子は小遣いがもらえない。畑仕事を手伝っても、親に養われているのだから手伝うことは当然であって小遣いなんてもらうのがおこがましいというのが農家の親の考えだ。
小遣いは自分で稼ぐのが貧乏農家の子供の宿命だった。小学校の低学年の頃は戦争の残し物のくず鉄があちらこちらの土の中に埋まっていて、私たちはカシガー(あさ袋)を担いでくす鉄を探し回った。その金でお菓子を買ったり映画を見たりした。
しかし、小学校の高学年になる頃にはくず鉄はなくなった。

ある日、隣りのてっちゃんが小遣い稼ぎの話を持ってきた。外人住宅街のモーガンマナーに行けばお金が稼げるというのだ。モーガンマナーの庭が荒れている家に行き、「グラスカット」と言えば、庭の草を刈る仕事がもらえるという。そういう噂をてっちゃんは友人から聞いたというのだ。
本当に庭の草を刈ったらお金をくれるのだろうか。私は半信半疑ではあったが、お金がもらえる可能性があるのなら、まずはやってみることである。農家の息子にとって草刈りはお手の物だ。私とてっちゃんは鎌と砥石を持ってモーガンマナーに行った。

モーガンマナーに入ると草が生えている庭を探した。多くの庭は手入れされていて、草が生えている庭はなかなか見つからなかった。庭を覗きながらモーガンマナーの奥に入っていくと、草が茫々生えているわけではないが、少し荒れている庭を見つけた。
私とてっちゃんは玄関のドアを叩いた。すると金髪の女性が現れた。金髪の女性は二人の沖縄少年に微笑みながら、「ワットゥ」と言った。私とてっちゃんは鎌を振りかざしながら、「グラスカット?」と言った。金髪の女性は、「オオ、ヤー」と頷き、微笑みながら、「オーケー」と言った。

小学生のやる草刈りだからたかが知れている。大人のようにきれいにできるはずはない。それでも、金髪の女性は満足そうな顔をして私たちに25セントずつあげた。この時のうれしさといったらありはしない。
私とてっちゃんは時々モーガンマナーに行き、玄関のドアを叩くと、「グラスカット?」と言って草刈りの仕事をもらった。

アメリカ人はたとえ親子であっても、子供が草刈りなど家の仕事をしたら労働の報酬としてお金をあげるという噂が私たちの間では広まっていた。私は家の仕事どころか芋ほり、田植え、稲刈りに脱穀(父は脱穀機をあつかうのが下手で、私がやった)など重労働をしても一セントももらえなかった。アメリカの子供がうらやましかった。



沖縄人の卑屈な精神

最近新聞で米軍基地で働いた人間の体験談の記事が掲載されている。私は記事を読んで沖縄人の卑屈な精神を感じて心が暗くなる。

アメリカの少年と野球をしても沖縄側が勝つことは一度もなかった。なぜなら彼らは負けそうになると試合を放棄したと書いてある記事があった。
古堅中学校でもアメリカの少年チームと試合したことがあった。その頃の中学は軟式のボールを使っていたが、アメリカは硬式ボールを使っているということで硬式ボールで試合をした。キャッチャーがプロテクターを付けているのをはじめて見た私たちには新鮮であった。

彼らは野球チームだけでやってきていて、応援団は連れてこなかった。応援団は全員が古堅中学生であった。試合はかなり白熱し、古堅中学の選手がヒットを打つたびに大歓声が沸いた。
試合は負けたがアメリカの少年たちは正々堂々と試合をやった。彼らの真剣な表情から、彼らが負けそうになると試合を放棄するような人間にはみえなかった。アメリカのチームが負けそうになると試合を放棄するなんてありえないことである。その後も何度か試合をしたがアメリカチームが試合を放棄したことは一度もなかった。
「アメリカの少年と野球をしても沖縄側が勝つことは一度もなかった。なぜなら彼らは負けそうになると試合を放棄した」ということはありえないことである。しかし、沖縄人はそんなことを平気で口にする。アメリカ人を卑屈な人間に仕立てようとする話には沖縄の人間のアメリカコンプレックスを感じるし、卑屈な精神を感じる。

スクールバスの運転手が乗車している少年たちにいたずらをされ、次第にいたずらがエスカレートしていったことに対して沖縄人への差別だと話している記事があった。そんなことにさえ沖縄差別を主張するのに私はあきれてしまった。少年たちは皆いたずら好きだから運転手が沖縄人であろうとアメリカ人であろうといたずらをする。
いたずらがエスカレートしたのはアメリカコンプレックスの運転手が子供を叱ることができなかったことが原因だ。堂々と子供を叱れば子供たちはおとなしくなったはずである。もしアメリカ人の運転手なら子供たちを叱っておとなしくさせたはずである。アメリカ人の運転手でも気が弱くて子供たちを叱ることができなかったら子供たちのいたずらはエスカレートしたはずである。問題の解決になにも努力しないで差別の性にするのは沖縄人のひがみ根性である。
後にアメリカ人の監視人が乗ることになったと述べているように、アメリカ人も子供たちが運転手にいたずらするのは悪いことであり、いたずらをなくす対策をとっている。差別意識はアメリカになかった証拠である。

アメリカは多民族国家である。白人でもイギリス系、ヨーロッパ系など色々な民族が混ざっている。黒人、スペイン系、日系とアメリカは世界中の民族のるつぼなのだ。アメリカは白人と黒人だけがいると思ったら大間違いである。私はアメリカ新聞を4年間配達したがその時に多くの人種にあったし、彼らに沖縄人として差別されたことはない。アメリカ人より人種差別意識が強いのはむしろ沖縄人である。沖縄の方言ではフィリピン人はフィリピナー、台湾人はタイワナー、朝鮮人をチョウシナーと呼び、呼び方に差別はないが、子供の頃に大人たちが彼らを差別する話をしているのを何度も聞いた。

まだ古い因習が底辺にある沖縄には差別意識があり、この差別意識が逆にアメリカに差別されているという意識が生まれるのだ。
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アメリカ少年と果し合いをする

古堅の南側にはモーガンマナーというアメリカ人の住宅街があった。アメリカ人の住宅を私たちは外人住宅と呼んでいたが、現在もそのように呼んでいる。外人住宅はコンクリート造りの平屋であり、結婚していて家族のいるアメリカ兵用の貸し住宅だった。

学校で気の合う友人が古堅に住んでいて、時々学校帰りの途中で友人の家に寄ることがあった。ある日友人の友人がアメリカ少年と喧嘩をするので私に喧嘩の立会人になってくれないかと頼んできた。断る理由がないので私は引き受けた。モーガンマナーの入り口で落ち合う約束をして、私は急いで家に帰り、カバンを置いて、おやつ用のサツマイモを食べながらモーガンマナーに向かった。

私の友人以外に三人の少年が来ていて、私を加えて五人はモーガンマナーの中に入っていった。モーガンマナーはアメリカ人だけが住んでいるから外国に来たような感じだ。ただ出入りは自由であったから、渡久地の海に行く時はモーガンマナーの中を通ったり、草刈りのバイトをしたりしていたから、怖いという印象はなかった。私は中学生になるとモーニングスターというアメリカ新聞をモーガンマナーで配達するようになる。

喧嘩をするのはヒトシという少年だった。彼らの話によると喧嘩相手のジョンに彼らは二連敗しているということだった。三人は歩きながら喧嘩のやり方を話し合っていた。
アメリカ人は腕っぷしが強いので殴り合いでは沖縄人は不利である。アメリカ人は足が長いので倒しやすい。だから、ジョンのふところに飛び込んで足をかけて倒して、寝技で攻撃するというのが彼らの作戦だった。

喧嘩をする場所は外人住宅の裏庭だった。三人のアメリカ少年が私たちを待っていた。私たちが来るとジョンが前に出てきた。ジョンは体が大きく、ヒトシとはかなりの体格差があった。ジョンの後ろに立っているアメリカ少年たちもかなり緊張していた。

ヒトシとジョンは向かい合い喧嘩が始まった。ヒトシは腰を低くしてジョンの懐に飛び込んだ。ジョンを掴むと足をかけて倒そうとするがなかなかジョンは倒れなかった。私たちは二人を囲んでヒトシを応援し、二人のアメリカ人はジョンを応援した。
ヒトシは強引なあしかけでなんとかジョンを倒した。これでヒトシが有利になったと思ったが、腕力の強いジョンは上に乗っているヒトシを倒して逆に上になった。そして、ヒトシの首を掴んで締め付けていった。下になったヒトシには勝ち目がなくなった。ヒトシは「こうさん」と言ったのでジョンは手を離した。果し合いはジョンの勝利に終わった。
私たちはなにも言わずその場を離れていった。三人のアメリカ少年もなにも言わずに私たちを見送った。

ヒトシはもう少しで勝てたのにとくやしがった。歩きながらさっそく三人はリベンジの話を始めていた。もし、私にジョンと喧嘩してくれと頼まれたら私は喧嘩していただろう。しかし、私は彼らにとって「他島」の人間であり、私に頼むということは「他島」の人間に頼るということなので彼らのプライドが許さなかった。モーガンマナーの入り口に来ると私は、「じゃな」と言って彼らと別れた。
私が喧嘩に立ち会ったのはこの一回だけだった。沖縄の少年たちの中にはアメリカ少年と喧嘩するグループも居たという話である。
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ベッキー


ベッキーは体が大きく金髪で白人とのハーフだった。私の家から数百メートルほど離れた家がベッキーの母さんの実家であり、ベッキー母子は実家に引っ越してきた。ベッキーの母さんは若くて体が小さく、体の大きいベッキーの母親であるのが私には不思議だった。
ベッキーは体は大きいのに気が小さく泣き虫だった。怒って文句をいうと「ごめんなさい、ごめんなさい」と言ってすぐに泣きそうになった。そんなベッキーをおもしろがっていじめる子供もいた。泣いてもいじめが終わるとけろっとして、遊びに興じるベッキーであった。
今から考えると、すぐに泣くのはいじめに対するベッキーなりの対策だったかもしれない。

夏休みのある日、家の近くのウカミヤーの広場で遊んでいたが、とても暑いので私たちのグループは川に行くことになった。ベッキーは私たちと遊んでいたが、私たちのグループではないのでひとり取り残されることになる。
ベッキーがさびしそうな顔をしていたので、私は、「ベッキーもいくか」と言った。ベッキーはうなずいた。私は「家は大丈夫か」と聞いた。川は家から遠く離れた山の中にあり、川に行くことを禁じている親もいた。だから、川に行っても親が叱らないかという意味で私はベッキーに「家は大丈夫か」と聞いたのだ。ベッキーが「大丈夫」と答えたので、私たちはベッキーを連れていくことにした。
ところが、私たちの軽率な行動が大変なことになる。

私たちは1号線(現在の国道58線)を横切って嘉手納弾薬庫の黙認耕作地に入った。軍用地ではあるが畑として使ってもいいのが黙認耕作地である。黙認耕作地は家や設備がひとつもなく、畑と林だけの緑が広がる地帯だった。

私たちは畑の道を歩きつづけ、急な坂をおり、私たちより高いすすきにおおわれた一人しか通れない細い道を歩き続けた。
しばらくすると、田んぼに出た。たんぼの側を川が流れている。大きいもくもうの下で私たちは服を脱ぎパンツだけになって川に飛び込んだ。

私たちが川で遊んでいると遠くのほうから、「ベッキー」という女の叫び声が聞こえてきた。「ベッキー」と叫びながら女の声はしだいに大きくなってきた。私たちは不思議に思い、声を聞いていたが、ベッキーはすぐに母さんの声であると気付き、川からあがった。

ベッキーの母さんはベッキーを見つけると、「ベッキー」と泣き叫びながら、ベッキーに駆け寄り、ベッキーを強くだきしめて泣き崩れた。私たちはベッキーの母さんの行動が理解できないできょとんとしていた。ベッキーは間が悪そうに頭を掻いていた。

ベッキーの母さんは、私たちがベッキーを山のほうに連れて行ったと誰かから聞いて、私たちがベッキーをリンチするために山に連れて行ったと思ったのだろう。若い母親はパニックに陥って、必死になってベッキーを探した。

ベッキーは母さんに連れられて私たちの前から去って行った。
ハーフの子供を育てている若い母親の心境を知らない私たちは、川遊びさえさせないベッキーの母親の過保護ぶりに苦笑した。
翌日からは何事もなかったようにベッキーは私たちと遊んだ。

一年後、ベッキーはウカミヤーの広場に来なくなった。噂によるとベッキーは父さんのいるアメリカに行ったらしい。ベッキーの母親はアメリカには行かないで、数年後に私の家の隣のタロウさんと結婚をした。
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八重山日報もダメだった

八重山日報http://www.yaeyama-nippo.com/は、八重山教科書問題の報道では沖縄タイムスや琉球新報のように育鵬社版の教科書を採択した八重山地区採択地区協議会の玉津委員長を一方的に避難するのではなく、客観的な立場で報道をした新聞社である。
八重山日報社なら県内の出版社を紹介してもらえるかもしれないと思い、もし出版社を知っていたら紹介してくれるようにという手紙を原稿と一緒に送った。

一昨日八重山日報社から電話があり、残念ながら紹介できる出版社はないし、印刷ならできるが、編集・添削をやる余裕はないということだった。

沖縄タイムスは自費出版を募集しているので昨日タイムスに原稿を送った。タイムスは費用が高いことと、「沖縄に内なる民主主義はあるか」の内容はことごとく新聞社の主張とは反対の内容だから自費出版を依頼するのを敬遠していた。
しかし、まさかのボーダーインクに自費出版を断られた私に余裕はない。私からタイムスを敬遠するなんて贅沢だ。ボーダーインクより出版費用が20万円くらい高いが、その代わりタイムスは新聞で宣伝してくれるので宣伝費用と考えれば高いとは言えない。タイムスが出版してくれるのならありがたいことである。

表現の自由をモットーとしているのが新聞社だから私の本も出版してくれるだろう。そうあるべきだ。私の原稿は法律に違反するような内容ではない。ボーダーインクのように自分とは反対の思想を排除するような出版社が間違っている。
編集者の思想を基準にして自費出版をするしないを決めるのは憲法の表現の自由に反する行為だ。自費出版を募集している出版社なら思想・信条で取捨選択してはいけない。
ボーダーインクのことを考えると怒りが湧いてくる。しかし、私も大人だ。ボーダーインクが出版しないのは事実であり、怒ったところで出版できるわけではない。無駄な怒りはやめよう。

今はタイムスの連絡を待つだけだ。

狼魔人さんhttp://blog.goo.ne.jp/taezaki160925から「月刊やいま」を発刊している南山社が自費出版を募集しているというメールが入った。さっそくWEBで調べてみた。たしかに南山社は自費出版を募集している。
原稿を送ってみよう。


ブログを書いている時に文芸社からメール便が来た。「沖縄に内なる民主主義はあるか」の書評と自費出版した多くの本の紹介やヒットした本を紹介するパンフレットが入っていた。
文芸社の書評です。

沖縄在住の著者による沖縄論である。感情論を避けて冷静な分析が心がけられている。五章からなる本作のキーワード、それは表題にもなっている民主主義だ。冒頭に置かれた論考でまず、沖縄県民からは現在でも否定的に捉えられがちであるという琉球処分を明治政府の近代化政策の流れに即して再検証し、既得権益や身分制度からの脱却を促したと肯定的に評価する。第二章では、反戦平和スローガンとしての「命どぅ宝」なる言葉に着目、「ソテツ地獄」と称される度重なる飢饉のなかで発せられた農民たちの悲痛な叫びに端を発することに気付いた著者は、このスローガンには民主主義的思想が欠落していることを喝破する。このように精緻なる歴史的思考を積み重ねることによって、沖縄はもとより日本という国自体にも、いまだ真の民主主義が根付いていないことを明示している。こうした現況を厳しく見据えた上で、本作後半においては、米軍基地問題や教科書採択問題をめぐって、真の民主主義に裏打ちされた混迷脱却への処方が具体的に供されることとなる。淀みなく質の高い筆致、説得力に漲(みなぎ)る充実した議論によって届けられる提言はどれも有意義かつ建設的なものばかりで、先行き不透明な沖縄の将来に明瞭なビジョンが灯されるのを見る思いがした。

ただ、書籍化を目指すのであれば気になるところもないではなかった。何よりも気にかかったのは、ウィキペディアからの引用が多く見られた点である。ウィキペディアの情報が正しいか否かを実際に資料に当たって確認する気概を求めたい。また、本作の執筆動機や著者の略歴を読者に伝える序文もしくは後記は不可欠である。

以上が文芸社の書評である。

書評を読んで感じたのは、さすが書評のプロだということである。私が主張したいことを的確にとらえている。これには感心した。「淀みなく質の高い筆致」などと褒められてその気になる年齢ではないから(推敲をするたびに自分の文章力のなさに落ち込んでいる)、書評の「よいしょ」には苦笑するだけであるが、できるだけ感情的にならないで淡々と書くことを心がけたことを指摘してくれたのはうれしい。

ウィキペディアの多用は私も気にしているが、私のような素人が政治や歴史資料を利用することができたのはウィキペディアがあったからであり、ウィキペディアがなければ「沖縄に内なる民主主義はあるか」を書くことはできなかった。
ウィキベディアの情報が正しいかどうかを確かめるには膨大な書物を調べなければならないから学者でもない私には不可能だ。若いころに勉強したことと内容が一致している部分を引用しているからウィキペディアの信憑性は高い。
「沖縄に内なる民主主義はあるか」が書けたのはウィキペディアとWEBで公開している県のPDF資料があったからである。WEBの登場によって私のような素人でも学者なみに資料を集めることができ、本を書くことができるようになったのはすばらしいことである。
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アメリカ兵と沖縄女性のカップルが両隣りに住んでいた


50年以上も前のことである。私の家の両隣りにトタン屋根の貸家があり、アメリカ兵と沖縄女性のカップルが住んでいた。西側の家は二つに分けてあり、二組のカップルが住んでいた。私たち子供のグループは時々縁側に座り、カップルと話したりした。
アメリカ人に興味深々な私たちは色々質問したりしたと思うが、話の内容は覚えていない。
村には十軒くらい貸家があり、アメリカ兵と沖縄女性のカップルが住んでいた。アメリカ兵の独身者が住んでいる家はなかった。今から考えるとカップルは村の中で住んでいいが、独身のアメリカ兵が住むのは婦女暴行などのトラブルが起こることを考慮して禁じていたかもしれない。

沖縄人の恋人同士が堂々と通りを歩くことがなかった時代にアメリカ兵と沖縄女性のカップルはアベックで歩いていたからとても目立った。カップルで歩いているだけでイチャイチャしているように見える時代だったから大人たちには迷惑がられていただろう。アメリカ兵の彼女である沖縄女性を私たちはアメリカハーニーと呼んでいた。

沖縄女性がアメリカ兵に魅かれた理由はアメリカ人が持っている自由さだった。沖縄はまだまだ男尊女卑の風習が強く、女性に自由はなかった。沖縄の男尊女卑の世界から解放されたい女性は多かっただろうし、アメリカ人と接することによってアメリカ人の持っている自由やレディーファーストの世界を知り、アメリカ兵に魅かれただろう。いや、「だろう」ではない。「である」である。子供の頃に私は沖縄の女性の口から何度も「沖縄の男には女性の自由がないけど、アメリカ人には自由がある」と聞いた。

アメリカ兵と沖縄女性のカップルが話し合う様子は友達のようであった。女は堂々としていて、へりくだるような態度を見せなかった。男尊女卑が内在している沖縄の生活をしている私には女性がいばっているように見えたものだ。

東隣りの家にはテレビがあったので、グループで時々テレビを見に行った。女性と二人だけで過ごしたいアメリカ兵は私たちが家に入ると不機嫌な顔をした。しかし、主導権を握っているのは沖縄女性のほうであり、私たちはアメリカ兵が持ってきたお菓子を食べながら見たいチャンネルが見れた。若いアメリカ兵は、私たちが日本放送を見ている間は後ろのほうで詰まらなそうに座っていた。

アメリカ兵といっても、彼らには日本軍人のような威圧感は全然なかった。彼らは陽気でフレンドリーな普通の人間だった。
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表現の自由が民間社会で弾圧されているのが沖縄だ


狼魔人さん(http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925)に会って出版について相談したが、狼魔人さんからとんでもない話を聞いた。表現の自由をモットーとして、アメリカ政府や日本政府の沖縄問題の情報隠しを非難し、政府の言論弾圧を非難している沖縄の新聞社が言論弾圧をしているというのだ。

渡嘉敷島や座間味島の集団自決が日本軍の強制であるのは有名な話である。沖教祖、マスコミは渡嘉敷や座間味の集団自決が日本軍の強制であることを教科書に掲載するように文科省に強く要求している。

しかし、上原正念さんが、集団自殺は日本軍の強制はなかったと書こうとした時に琉球新報への掲載を拒否された。星雅彦さんも集団自殺は日本軍の強制がなかったと主張したために琉球新報からほされたというのだ。
上原正念さんはアメリカの公文書を調べてその事実を知り、星さんはずっと昔に現地を調査して分かっていたが、国からの自決した人々の援護金は日本軍の強制がないと出ないという複雑な事情があり黙っていたそうだ。

今まで梅沢隊長についてのインタビューの記事がなかったから、すでに梅沢隊長は死んでいると思っていた。ところがそうではなかった。座間味の集団自決を強制したと言われている梅沢隊長は現在も健在であるのだ。沖縄タイムス、琉球新報は集団自決の張本人と言われている梅沢隊長への取材を今まで一度もやっていないそうだ。驚くべき事実である。
梅沢隊長が自決命令を出さなかったと座間味島で言い続けている宮平秀幸さんという人ががいるが、彼の主張を沖縄のマスコミは封殺している。梅沢氏と宮平氏の証言を見れば、日本軍が集団自決を命じたことが真っ赤なウソであることが分かる。

梅沢元隊長インタビュー

ブログをやる前はちょくちょく新聞投稿をやっていたが、辺野古移設に賛成したり、普天間第二小学校はB52重爆撃機が墜落炎上した翌年の1969年に宜野湾市がつくったのであり、宜野湾市に責任があるという内容の投稿は掲載されたが、渡嘉敷、座間味の集団自殺について、自らの死を最終的に決断するのは自身であり、「手りゅう弾をあげたのは日本軍であるが、手りゅう弾を爆発させたのは教育である」という内容の投稿は掲載されなかった。あの時には表現がきつかったから掲載されなかったのかなと考えていたが、もしかすると、「自らの死を最終的に決断するのは自身であり」の内容が原因で掲載されなかったかもしれない。

米軍基地問題でも基地に賛成する意見はほとんど封殺されているのは知っているが、まさか、慶良間、座間味の集団自決が完全なでっち上げであったとは信じられないことである。

「沖縄に内なる民主主義はあるか」の出版はもっと腰をすえてやっていかなければならないようだ。出版してくれる本土の出版社は見つけたが、沖縄の出版社はまだ見つけていない。もしかしたら見つけることができないかもしれない。

表現の自由が民間社会で弾圧されているのが沖縄だ。
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{6gu0に内なる民主主義があるか」の出版への道


自費出版を出版社から断られるというのは全然予想していなかった。だから、ボーダーインクに自費出版を断られた場合の次の手を全然考えていなかった。
自費出版を断られた瞬間はわけが分からず頭が真っ白になった。頭が混乱しながら、どうにかして出版をしなくてはと思いつくままに手をうっていった。
まずは、依然からWEBで自費出版を募集していることを知っている文芸社に原稿を送った。次に出版社をWEBで探しまくり、風詠社がよさそうなので、風詠社に資料を請求した。それから、狼魔人さんに事情を書いたメールを送った。ブログ(http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925)。沖縄のY社にも原稿を送り、県内に私の本を出版できそうな出版社があれば紹介してほしいと頼んだ。

文芸社からはすぐにメールがあった。

このたびは、貴重な原稿あるいはお問い合わせ・メッセージを
送信してくださり、誠にありがとうございます。

作品原稿やお問い合わせ内容に応じた
出版のご提案や回答など、数日~4週間程度で
担当者からご連絡させていただきますので、
しばらくお待ちください。

今後とも、よろしくお願い申し上げます。

--
株式会社 文芸社
〒160-0022 東京都新宿区新宿1-10-1
TEL.0120-03-1148/FAX.0120-22-6526
Web Site http://www.bungeisha.co.jp

数日前に文芸社から電話があり、10日くらい後に私の原稿への評価を郵送するそうだ。


風詠社からは資料が送られてきて、数日後にはメールと見積もりが送られてきた。

出版企画・見積書(注文対応型/暫定版)
株式会社風詠社
〒553-0001 大阪市福島区海老江5-2-7
ニュー野田阪神ビル402
Tel.06-6136-8657 Fax.06-6136-8659
書名:「未定」
仕様 : 四六判ソフトカバー(188mm×128 mm) カバー4色フルカラー印刷、
表紙1色、帯あり、見返しあり、本文200ページとして
用紙: カバー/コート紙(四六判110 ㌔) 表 紙/アート紙(四六判200 ㌔)
本文/書籍用紙72.5 ㌔扉/本文共紙見返し/タント
* 装丁はご希望に応じて当社デザイナーがラフを作成し、お選びいただきます。
* 用紙はご希望に応じますが、種類によってコストアップする場合があります。
発行部数:500部(うち200部は著者分=献本や直接販売など自由にお使いいただける分)
*納品部数はご相談に応じます。
定価:1300円(税別)*予定
売上還付金:初版:実売部数×定価(本体)×50%
増刷印税:増刷部数×定価×10%
〔売れ行き好調で当社判断・当社負担で増刷した場合。
著者希望で著者負担による増刷の場合、初版に準じます〕
作業分担: 著者/ 原稿作成(原稿文字データ提供)・著者校正
風詠社/ 編集・校正・デザイン・印刷製本・販促
星雲社/ 発売元(取次窓口へのサンプルだし、国立国会図書館への献本)
販 売:トーハン、日販など取次会社に登録し、注文に応じて全国の書店に委託配本します。
インターネット書店amazon、bk-1、楽天ブックスなどでも販売されます。
販売促進:①毎日新聞第一面三段1/8広告欄に新刊広告を掲載します。(3―4点同時掲載)
(1 点単独掲載ご希望の場合、17 万円のご負担となります)
②図書館や書店向けの情報誌である図書館流通センター「週刊新刊全点案内」
「トーハン週報」「日販速報」に新刊として掲載します
(以下有料オプション)①書店への配本を増やすためのチラシ製作・配布も行います。
②著者のご希望に応じた新聞・雑誌への有料広告も可能です。


500 冊なら費用は695,000円であるという。ボーダーインクが同じ条件で85万円だから、風詠社のほうが安い。でも県内の出版社なら県内の書店の事情を詳しく知っているはずだから、できるなら県内の出版社に依頼したい。

文芸社の評価も知りたいから、しばらく様子をみようと思う。
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アメリカ兵がとなりにいた頃の話

私が最初にアメリカ人を見たのは二、三歳の時だった。それも黒人だった。私は読谷村の大木に生まれ、四歳の時に比謝に引っ越した。だから、大木の記憶は三歳以下ということになる。

最初に黒人を見たのは大木に居た時であった。姉は私をおぶって一歳年下のシズエさんの家に遊びに行った。二人は話しているうちに戦前の話になり、黙認耕作地になっている戦前の屋敷を見たいという話になった。
姉は私をおんぶし、シズエさんは私より一歳年下のチョウトクをおんぶして数キロほどはなれている黙認耕作地に行った。黙認耕作地は、耕作している場所は少なく、広大な草原になっていた。私の姉が住んでいた屋敷を過ぎ、シズエさんの住んでいた屋敷に向かって歩いていると、遠くに嘉手納弾薬庫から出てきた数人の黒人兵が見えた。
姉とシスエさんは黒人兵を見た途端に、恐怖になり一目散に逃げた。道路はなく畑跡の草原を走ったので、姉は草に覆われた溝に足を取られて転んでしまった。
私の記憶は姉が転んだところで終わっている。

人気のない草原の中で黒人兵を見た姉とシズエさんは非常に怖かっただろう。

大木に住んでいた時に二回アメリカ人を見たが、二回目は逃げたのではなく姉がアメリカ人を見に行った。
これもシズエさんの家にいた時のことである。大木の南はずれでアメリカ人たちがお祝いかなにかをやっているという噂があり、姉とシズエさんは見に行くことにした。
大木のはずれには石灰かなにかを敷いた小さな広場があり、十数名のアメリカ人と一台のヘリコプターがあった。見物人も大勢いた。

アメリカ兵たちの前には若い沖縄の女性がいて、アメリカ兵たちから祝福されていた。女性と一人のアメリカ兵はヘリコプターに乗った。二人は笑いながら盛んにアメリカ兵たちに手を振っていた。アメリカ兵たちは手を叩いたりしながら祝福の言葉をかけていた。ヘリコプーは舞い上がり、次第に小さくなっていった。ヘリコプターの沖縄女性とアメリカ兵はいつまでも手を振っていた。

私たちが見たのは沖縄女性とアメリカ兵の結婚式だったのだ。沖縄女性は私の周りにいる女性よりあか抜けていて華やかで堂々としていたのを覚えている。
1951年のことである。

戦争が終わって6年後にはこのようにアメリカ人と沖縄女性と恋がめばえ、結婚することもあった。沖縄女性は沖縄戦でアメリカ軍に攻撃されたはずである。アメリカ兵は敵であり怖い存在であるはずである。しかし、アメリカ兵と恋をし結婚した。

新聞ではアメリカ兵の犯罪が掲載され、沖縄人が差別されている内容の記事がほとんどであり、沖縄女性がアメリカ兵と結婚するのはありえないように思えるが、現実はそうではない。多くの沖縄女性がアメリカ兵と恋をし結婚した。

アメリカ兵が隣にいる生活では、犯罪はほとんどなく、フレンドリーなアメリカ人の普通の姿があるだけであった。私の村にはアメリカ兵と沖縄女性が同棲するための貸家がつくられていった。

アメリカ兵がとなりにいた頃の思い出を書いていこうと思う。
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八重山教科書問題はなにが問題だったか


「沖縄に内なる民主主義はあるか」


五、八重山教科書問題はなにが問題だったか


教科用図書八重山採択地区協議会規約

第1章総則
(名称及び構成)
第1条 本会は、教科用図書八重山採択地区協議会(以下「協議会」という。)と称し、石垣市教育委員会、竹富町教育委員会及び与那国町教育委員会(以下「採択地区教育委員会」という。)をもって構成する。

(事務局)
第2条 協議会の関係事務を処理するため、事務局を置く。2事務局は、会長が所属する教育委員会事務局に置くものとする。

(目的)
第3条 協議会は、採択地区教育委員会の諮問に応じ、採択地区内の小中学校が使用する教科用図書について調査研究し、教科種目ごと一点にまとめ、採択地区教育委員会に対して答申する。

第2章組織
(委員)
第4条 協議会の委員(以下「委員」という。)は、採択地区内の次に掲げる者をもって充て、協議会が委嘱又は任命する。

1 採択地区教育委員会教育長
2 採択地区教育委員会教育委員1人
3 PTA連合会代表1人
4 学識経験者1人2教科用図書の採択に直接の利害関係を有する者は、委員となることができない。3委員の任期は、1年とし、再任を妨げない。

(役員会)
第5条 
1 協議会に、次の役員会を置く。
2 会長1人、副会長2人
3 監査員会2人
4 役員は、委員の互選により選任する。
5 役員の任期は1年とし、再任を妨げない。
6 会長は、協議会を代表し、会務を総理する。
7 副会長は、会長を補佐し、会長に事故があるとき又は会長が欠けたときは、その職務を代理する。
8 監査員は、協議会の会計を監査する。

(定期総会)
第6条 協議会は、原則として毎年6月に定期総会を開くものとする。
(会議)
第7条 
1 定期総会及び協議会の会議(以下「会議」という。)は、会長が招集し、その議長となる。
2 会議は、委員の過半数の出席がなければ開くことができない。
3 会議の議事は、出席委員の多数決で決するものとする。可否同数の場合は再投票し、なおかつ可否同数の場合は、役員会で決する。4会議に出席できない委員は、委任状を提出するものとする。

第3章教科用図書調査員
(調査員)
第8条 
1 協議会に教科用図書の調査研究を行うため、教科用図書調査員
(以下「調査員」という。)を置く。
2 調査員は、教科の専門知識を有する者の中から教科別に3人で構成する。
3 調査員は役員会が選任し、会長がこれを委嘱又は任命する。
4 調査員は、沖縄県教育委員会による指導・助言・援助の一環として作成された教科用図書選定資料をもとに、教科書の調査研究を行い、教育法規、学習指導要領、採択地区教育委員会の教育方針、沖縄県及び採択地域に関連する教材などの観点から、県の選定資料に付記する形で追加文書等を作成し、調査研究の結果を報告する。

第4章答申作成と教科用図書採択決定の手続き
(答申作成と教科用図書採択決定の手続き)
1 第9条協議会は採択地区教育委員会への答申を作成する会議を開く。
2 協議会は、必要に応じて調査員に教科用図書の特徴等についての説明を求めることができる。
3 協議会は、教科種目ごとに採択地区として採択すべき教科用図書の答申をまとめ、県の選定資料及び追加文書等を添えて、採択地区教育委員会に報告する。
4 採択地区教育委員会は、協議会の答申に基づき、採択すべき教科用図書を決定する。
5 採択地区教育委員会の決定が協議会の答申内容と異なる場合は、沖縄県教育委員会の指導・助言を受け、役員会で再協議することができる。

第5章雑則
(経費)
第10条 協議会の運営に係る必要経費は、採択地区教育委員会が負担する。
(会計年度)
第11条 協議会の会計年度は、毎年4月1日に始まり翌年の3月31日に終わる。
(その他)
第12条 この規約に定めるもののほか、協議会の運営に関し必要な事項は、会長が会議に諮って定める。

附則この規約は、議決のあった日から施行する。
附則この規約は、平成23年8月10日から施行する。

 「教科用図書八重山採択地区協議会規約」の全文を掲載した。2011年8月23日の教科用図書八重山採択地区協議会は左記の「教科用図書八重山採択地区協議会規約」に従って協議し、八重山地区の中学校に無償給付する教科書を採択した。
八重山地区採択協議会は中学三年生の公民は育鵬社の教科書を採択したが、それもちゃんと「教科用図書八重山採択地区協議会規約」に従って採択したのだ。民主主義はなにかを決める時には決めるための法律をつくり、その法律を遵守した上で決める。それが法治主義であり民主主義である。民主主義は法治主義でなければならない。
教科書に関する法律は二つある。「地方教育行政の組織及び運営に関する法律(地方教育行政法)」と「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律(無償措置法)」である。教科書が市町村の学校で使用するまでにはこの二つの法律を遵守しなければならない。

地方教育行政の組織及び運営に関する法律は市町村の教育行政全般についての法律である。

地方教育行政の組織及び運営に関する法律

第一章 総則
(この法律の趣旨)
第一条 この法律は、教育委員会の設置、学校その他の教育機関の職員の身分取扱その他地方公共団体における教育行政の組織及び運営の基本を定めることを目的とする。

(基本理念)
第一条の二地方公共団体における教育行政は、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)の趣旨にのつとり、教育の機会均等、教育水準の維持向上及び地域の実情に応じた教育の振興が図られるよう、国との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。

(教育委員会の職務権限)
第二十三条
教育委員会は、当該地方公共団体が処理する教育に関する事務で、次に掲げるものを管理し、及び執行する。

一  教育委員会の所管に属する第三十条に規定する学校その他の教育機関(以下「学校その他の教育機関」という。)の設置、 
管理及び廃止に関すること。
二  学校その他の教育機関の用に供する財産(以下「教育財産」という。)の管理に関すること。
三  教育委員会及び学校その他の教育機関の職員の任免その他の
人事に関すること。
四  学齢生徒及び学齢児童の就学並びに生徒、児童及び幼児の入
学、転学及び退学に関すること。
五  学校の組織編制、教育課程、学習指導、生徒指導及び職業指導に関すること。
六  教科書その他の教材の取扱いに関すること。
七  校舎その他の施設及び教具その他の設備の整備に関すること。
八  校長、教員その他の教育関係職員の研修に関すること。
九  校長、教員その他の教育関係職員並びに生徒、児童及び幼児の保健、安全、厚生及び福利に関すること。
十  学校その他の教育機関の環境衛生に関すること。
十一 学校給食に関すること。
十二 青少年教育、女性教育及び公民館の事業その他社会教育に関すること。
十三 スポーツに関すること。
十四 文化財の保護に関すること。十五ユネスコ活動に関すること。
十六 教育に関する法人に関すること。
十七 教育に係る調査及び基幹統計その他の統計に関すること。
十八 所掌事務に係る広報及び所掌事務に係る教育行政に関する相談に関すること。
十九 前各号に掲げるもののほか、当該地方公共団体の区域内における教育に関する事務に関すること。

 地方教育行政法で、教科書の採択に関する規定は教育委員会の職務権限を定めた第二十三条の六、「教科書その他の教材の取扱いに関すること」である。市町村の小中学校で使用する教科書は市町村の教育委員会が決めるということを規定している。
 
義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律
第1章 総 則
(この法律の目的)
第1条  この法律は、教科用図書の無償給付その他義務教育諸学校の教科用図書を無償とする措置について必要な事項を定めるとともに、当該措置の円滑な実施に資するため、義務教育諸学校の教科用図書の採択及び発行の制度を整備し、もつて義務教育の充実を図ることを目的とする。

第2章 無償給付及び給与(教科用図書の無償給付)

第3条 国は、毎年度、義務教育諸学校の児童及び生徒が各学年の課程において使用する教科用図書で第13条、第14条及び第16条の規定により採択されたものを購入し、義務教育諸学校の設置者に無償で給付するものとする。

(採択地区)
第12条 
1 都道府県の教育委員会は、当該都道府県の区域について、市若しくは郡の区域又はこれらの区域をあわせた地域に、教科用図書採択地区(以下この章において「採択地区」という。)を設定しなければならない。


(教科用図書の採択)
第13条 
1 都道府県内の義務教育諸学校(都道府県立の義務教育諸学校を除く。)において使用する教科用図書の採択は、第10条の規定によつて当該都道府県の教育委員会が行なう指導、助言又は援助により、種目(教科用図書の教科ごとに分類された単位をいう。以下同じ。)ごとに一種の教科用図書について行なうものとする。
4 第1項の場合において、採択地区が2以上の市町村の区域をあわせた地域であるときは、当該採択地区内の市町村立の小学校及び中学校において使用する教科用図書については、当該採択地区内の市町村の教育委員会は、協議して種目ごとに同一の教科用図書を採択しなければならない。

 「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」は第一条に明記しているように義務教育の諸学校の教科書を国が無償給付するための法律である。第13条4には採択地区内の教科書は種目ごとに同一の教科書を採択しなければならないと規定している。このことから八重山地区の学校に無償給付する教科書は一種類だけである。無償給付する教科書を二種類にすると無償措置法に違反することになる。

 「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」と「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」は国会でつくった法律であり、教科書を採択するときは二つの法律に違反してはならない。

八重山採択地区協議会は地方教育行政法によって設置したのか、それとも無償措置法によって設置したのか

地方教育行政法は「教育委員会の設置、学校その他の教育機関の職員の身分取扱や地方公共団体における教育行政の組織及び運営の基本を定めることを目的」としている。地方教育行政法は、それぞれの市町村内の教育行政を規定した法律であり、教科書を採択するにあたっては、各市町村の教育委員会は自ら所属する自治体の小中学校で使用する教科書だけを採択するものであり、他市町村と一緒になって共通の教科書を採択する規定は地方教育行政法にはない。
一方、無償措置法の第12条には複数の市町村が一緒になって採択地区を設定するように指示している。
1 都道府県の教育委員会は、当該都道府県の区域について、市若しくは郡の区域又はこれらの区域をあわせた地域に、教科用図書採択地区(以下この章において「採択地区」という。)を設定しなければならない。

このことから八重山採択地区協議会は無償措置法によって設置した機関であるといえる。注意しなければならないのは、八重山採択地区協議会は地方教育行政法と無償措置法二つの法律が適用されているのではなく、無償措置法だけが適用されていることである。地方教育行政法は八重山採択地区協議会には関係のない法律である。
なぜ、このように八重山採択地区協議会が無償措置法によって設置してあることを説明したかというと、八重山採択地区協議会の規約が無償措置法には合わない文言表現になっている箇所があるからである。
八重山採択地区協議会の規約の(目的)第3条に「採択地区内の小中学校が使用する」と述べている箇所がある。無償措置法は国が小中学校に「無償給付する教科書」を決める法律であって、小中学校が「使用する教科書」を決める法律ではない。それなのに八重山採択地区協議会の規約は「使用する」という文言になっている。無償措置法によって設置した協議会にはふさわしくない文言である。  
無償措置法によってつくられた協議会の規定なら「採択地区内の小中学校に無償給付する」がふさわしい文言である。八重山採択地区協議会の規約の「採択地区内の小中学校が使用する」という文言は、無償措置法の表現としては誤った表現である。
八重山採択地区協議会の規約第3条は「採択地区内の小中学校が使用する教科用図書」ではなく、「採択地区内の小中学校に無償給付する教科用図書」とするべきである。

 教科用図書八重山採択地区協議会は、八重山地区の小中学校に国が無償給付する教科書を決める機関である。8月23日に八重山採択地区協議会が公民を育鵬社版に決めたということは、国が八重山地区の中学三年生に育鵬社の教科書を無償給付することになったということである。
 国が育鵬社の教科書を無償給付することになったことに対して、石垣市と与那国町の教育委員会は育鵬社版に決めた。しかし、竹富町の教育委員会は東京書籍版に決めた。
 文部科学省が無償給付する教科書は育鵬社版と決まっているから、東京書籍版を採択した竹富町には育鵬社版を無償給付することができないということになる。竹富町が育鵬社の教科書を採択しなかったということは、国の無償給付を竹富町が断ったことになる。竹富町は東京書籍の教科書を選んだ。それは有償で東京書籍の教科書を購入することを自ら選んだということである。

地方教育行政法 市町村の小中学校で使用する教科書を決める。
無償措置法   国が無償給付する教科書を決める。

国が無償給付する教科書を採択するのを規定しているのが無償措置法であり、無償措置法の実行機関は採択地区協議会である。各市町村が使用する教科書を採択するのを規定しているのが地方教育行政法であり、実行機関は各市町村の教育委員会である。採択地区協議会は地区の小中学校に無償給付する教科書を決め、市町村の教育委員会は市町村の小中学校が使用する教科書を決める。ふたつの組織は違う仕事をやるのである。「無償給付する」教科書を決める仕事と「使用する」教科書を決める仕事である。

八重山採択地区協議会が育鵬社の教科書を採択したのに、竹富町が東京書籍版を採択したとしても違法行為にはならない。八重山採択地区協議会は竹富町に無償給付する教科書を決めたのであり、竹富町が使用する教科書を決めたわけではないからだ。
竹富町の教育委員会は竹富町の中学生三年生が使用する公民の教科書を東京書籍版に決めた。竹富町の中学生が使用する教科書を決めるのは竹富町の教育委員会の権限であり、他の市町村の教育委員会も、県教育庁も文科省も竹富町の教科書を決めることはできない。竹富町の教科書は竹富町の教育委員の自由意志で決めることができる。ただ、理解しなければならないのは、竹富町の教育委員会は竹富町の中学生が使用する教科書を決めることはできるが、無償給付する教科書を決めることはできないということである。だから、八重山地区採択協議会が無償給付する教科書を育鵬社版に決めたことを竹富町の教育委員会が否定したり変更したりすることはできない。

○ 八重山採択地区協議会は、石垣市、竹富町、竹富町の学校に無償給付する教科書を決めることはできるが、三市町の小中学校が使用する教科書を決めることはできない。
○ 石垣市、竹富町、与那国町の教育委員会は、それぞれの市町の小中学校が使用する教科書を決めることはできるが、国が無償給付する教科書を決めることはできない。

八重山採択地区協議会 無償措置法により、八重山地区の小中学校に無償給付する教科書を決める。
石垣市教育委員会   地方教育行政法により、石垣市の小中学校で使用する教科書を決める。
竹富町教育委員会   地方教育行政法により、竹富町の小中学校で使用する教科書を決める。
与那国町教育委員会  地方教育行政法により、与那国町の小中学校で使用する教科書を決める。

8月23日、無償措置法の実行

八重山採択地区協議会 八重山地区の中学校に無償給付する公民の教科書を育鵬社版に決めた。

8月26日、地方教育行政法の実行

石垣市教育委員会   石垣市で使用する公民の教科書を3対2で育鵬社版に決めた。
与那国町教育委員会  与那国町で使用する公民の教科書を全会一致で育鵬社版に決めた。

8月27日、地方教育行政法の実行

竹富町教育委員会   竹富町で使用する公民の教科書を全会一致で東京書籍版に決めた。

8月31日
3市町の教育長による協議会を開き、三市町で使用する公民教
科書の一本化について再協議したが協議は決裂。八重山採択地区協議会は閉会する。

石垣市と与那国町は育鵬社の教科書を使用することに決めたので、文部科学省は石垣市と与那国町には育鵬社の教科書を無償給付することになった。しかし、竹富町は文部科学省が無償給付することになっている育鵬社の教科書ではなく東京書籍の教科書を使用することに決めたので竹富町には無償給付することができなくなった。
八重山採択地区協議会で、国が無償給付する教科書を育鵬社版に決めたのに、竹富町は使用する教科書を育鵬社版に決めなかった。それは、文部科学省が育鵬社版の教科書を無償給付するのを竹富町が断ったことになる。無償措置法により、八重山地区に無償給付する教科書は育鵬社版一種だけと決まっているので、文部科学省は竹富町に教科書を無償給付することができなくなった。
文部科学省が無償給付しないことを決めたのではなく、竹富町が文部科学省の無償給付を断ったのだ。竹富町が矛盾しているのは、自分のほうで無償給付すると決まっている育鵬社の教科書に決めないで、無償給付をしないと決まっている東京書籍の教科書を使用すると決めたのに、文部科学省に東京書籍の教科書を無償給付するように要求したことである。

無償措置法では、無償給付する教科書は一種類に決めるように規定している。もし、文部科学省が石垣市と与那国町には育鵬社の教科書を無償給付して、竹富町には東京書籍の教科書を無償給付したら、行政機関である文部科学省が無償措置法を破ることになる。行政の最高機関である文部科学省が法律を破ることはできない。文武科学省は竹富町に東京書籍版の教科書を無償給付しないのではなくできないのだ。

竹富町が無償給付を受けるためには育鵬社の教科書を使用することに改める以外にはなかった。

使用する教科書を三市町が同一にするという法律はない

9月8日の全員協議で東京書籍の教科書が採択されたが、全委員協議が有効か無効かの問題は別にしても、無償措置法は文部科学省が八重山地区の三市町に無償給付する教科書を決めるだけであり、三市町に、三市町が使用する教科書を強制することはできない。だから、無償措置法で三市町の使用する教科書を同一にすることはできない。
地方教育行政法は、三市町それぞれの中学で使用する教科書を決める法律だから、地方教育行政法では八重山地区の教科書を同一にすることはできない。
三市町の使用する教科書を同一にする法律は無償措置法にも地方共育行政法にもないのだから、教科書を同一にする義務は採択地区協議会にも教育委員会にも全委員協議にもない。

県教育庁義務教育課が無償措置法第13条に「構成市町村の教育委員会は協議して…同一の教科書を採択しなければならない」を根拠にして、三市町が使用する教科書は同一にしなければならないと主張したのは無償措置法に対する勘違いの解釈をしたからである。
無償措置法第13条は、三市町が使用する教科書を同一にしなければならないのではなく、国が無償給付する教科書を同一にしなければならないと規定しているのだ。

憲法の精神を放棄した竹富町

竹富町は12月1日までに、来年度の教科書の購入費用を計上しない方針を固めた。文科省は竹富町に無償給付をしないと断言している。竹富町が購入しなければ教科書有償になる。そのことを知った上で竹富町は教科書購入の予算を計上しないことに決めた。憲法の精神を守らなければならないのは政府だけではない。地方の自治体も憲法の精神を守らなければならない。憲法26条の義務教育の無償を文科省に守らせようとしながら、教科書購入の予算を計上しないことに決めたということは竹富町は憲法26条の精神を放棄したことになる。
川満栄長竹富町長は、「竹富の教育委員は子どもたちのことを考えて東京書籍を選んだ。教育委員会の考えを尊重したい」と述べている。そうであるならば、文科省が無償給付しなかった場合は竹富町が購入するのが当然である。ところが、「教育委員会の考えを尊重したい」と言いながら竹富町の予算では教科書を購入しないということを決めたのである。
川満栄長竹富町長は憲法の「義務教育は無償」の精神を尊重し、教育委員会の考えを尊重したのに教科書は有償にするというのである。理解できないやり方である。憲法の「義務教育は無償」の精神を尊重し、教育委員会の考えを尊重するのなら教科書代金は竹富町が負担するのが当然である。ところが竹富町は負担しなかった。
市民が教科書代を負担することになり、教科書は無償給付されることになったが、だからといって竹富町の憲法の精神に反した行為の責任は消えない。

合法でも無償給付をしないケースがある

慶田盛竹富町教育長は、「文科省は竹富町だけ有償だというが、その理由を説明していない。法的な間違いがあれば対応するが、その機会さえ与えられていない状況だ」と述べているが、教育行政法と無償措置法の組み合わせはたとえ合法な行為をやったとしても無償給付されない場合がある。それが竹富町のケースである。

12月6日、大城県教育長は、八重山採択地区協議会の答申と異なる採択をした竹富町に対して、地方教育行政法を根拠に「採択権限は各市町村教育委員会にあり、竹富町のケースは合法」と述べた。ところが、文科省が同町に教科書の有償購入を促す方針を示していることには「竹富町が有償となる法的根拠を示されていない」と疑問を示している。
無償給付を決めるのは地方教育行政法ではなく、無償措置法である。無償措置法の実行機関である八重山採択地区協議会は育鵬社の教科書を採択した。それなのに竹富町は東京書籍版を採択した。文科省は育鵬社版なら無償給付できるが、東京書籍版なら無償給付はできない。文科省が竹富町に教科書の有償購入を促すのは当然である。

竹富町は12月14日に、「1、育鵬社版を選定した八重山採択地区協議会の答申に従わず、東京書す籍版を採択した場合は有償とする根拠。2、なぜ採択協議会の答申に従わなければならないのか」の説明を文科省に求めた。

1の問題は、八重山採択地区協議会は国が無償給付する教科書を決める機関であり、8月23日の八重山採択地区協議会が育鵬社の教科書を採択したということは、国が八重山地区に無償給付する教科書は育鵬社版だけであり、育鵬社版以外の教科書は無償給付をしないことになったということである。
2の問題は採択協議会の答申には従わなくてもいい。その証拠に竹富町は八重山採択地区協議会に従わないで東京書籍の教科書を採択したが、国から変更するように命令されていない。だから、竹富町は教育委員が採択した教科書を使用することができる。それは採択協議会の答申には従わなくてもいい証拠である。
八重山採択地区協議会と竹富町の教育委員会の関係は「従う従わない」の関係ではない。八重山採択地区協議会は国が無償給付する教科書を決める機関であり、竹富町の教育委員会は竹富町で使用する教科書を決める機関である。
八重山採択地区協議会と竹富町の教育委員会の関係は、八重山採択地区協議会が採択した教科書と同じ教科書を竹富町の教育委員会が採択すれば国は竹富町に教科書を無償給付するし、八重山採択地区協議会が採択した教科書とは違う教科書を採択すれば国は竹富町に教科書の無償給付はしないという関係である。

竹富町は無償措置法の呪縛を解いた

竹富町は地区採択協議会の呪縛を解いたことでは画期的である。1963年の教科書無償措置法の制定後50年間も地区採択協議会が採択した教科書を市町村の教育委員会は採択してきた。そこには地区採択協議会が採択した教科書を市町村の教育委員会は採択しなければならないという呪縛があったからだ。
しかし、地区採択協議会が採択した教科書を市町村の教育委員会は採択しなければならないという法律はない。市町村の教育委員会は、地区採択協議会が採択した教科書に呪縛されないで自由に使用する教科書を選ぶことができる。地区採択協議会が採択した教科書以外の教科書を採択すれば無償給付を受けることができないだけであって、法的なペナルティはない。教科書代金を自治体や有志の寄付などで負担すれば自由に教科書を採択することができる。

市町村で使用する教科書は無償であるということよりも教育委員の意思が反映されるべきである。ところが、1963年に教科書無償措置法が制定されてからは採択地区協議会が採択した教科書を市町村の教育委員会はずっと採択してきた。これでは市町村の教育委員会は採択地区協議会に従属していると思われても仕方がない。
法的には市町村の教育委員会は自立していて、採択地区協議会に従属はしていない。だから、竹富町のように八重山採択地区協議会とは違う教科書を採択することができるのである。国の無償給付を受けなければいいだけのことであり、竹富町は市町村の教育委員会が採択地区協議会に従属していないことを行動で示したのである。
採択地区協議会に束縛されないで教科書を採択したのは、1963年に教科書無償措置法が制定されてから初めてであり、竹富町は採択地区協議会の呪縛を断ち、市町村の選択の自由の道を切り開いた。

9月8日の全委員協議は成立しない

〇石垣市、竹富町、与那国町の三市町はそれぞれが自治体であり、お互いに独立した関係にある。全委員協議のように無償措置法による新しい「教科書採択機関」をつくるには三市町の同意がなければならない。しかし、石垣市と与那国町は、全委員協議を教科書を採択する機関にするのに反対した。反対する市町がある限り全委員協議は教科書採択機関としては成立しない。
〇全委員協議を正式な機関にするには、八重山採択地区協議会のように時間をかけ、協議を重ねて三市町が同意する規定をつくらなければならない。しかし、9月8日の全委員協議は規定をつくっていない。規定のない全委員協議を正式な機関として認めることはできない。
〇8月23日の八重山採択地区協議会に法的な落ち度はなかった。法的な落ち度がない八重山採択地区協議会の採択を、全委員協議が「否決」できる法律は無償措置法にも地方教育行政法にもない。八重山採択地区協議会が決定したことを全委員協議が「否決」する法律はないのだから、「否決」する法律をつくらない限り八重山採択地区協議会の採択を全委員協議が「否決」することはできない。それなのに八重山採択地区協議会の採択を全委員協議は「否決」した。三権分立の日本では、行政は法律に基づいて行動しなければならない。民主主義は法治主義を徹底してこそ成り立つ。9月8日の全委員協議が八重山採択地区協議会の採択を否決したことは法律を逸脱した行為であった。
〇教育委員は石垣市5人、竹富町5人、与那国町3人である。全員協議で多数決をやると3人しかいない与那国町は不利である。だから、与那国町は全委員協議を無償給付する機関にするか否かを多数決で決めることに反対した。与那国町が賛成しない限り、全委員協議を無償給付する機関にするか否かを多数決で決めることはできない。しかし、全委員協議は与那国町の反対を無視して多数決を強行した。全委員協議を無償給付する機関とするのは法律上は認められない。
〇石垣市の人口は4万7766人、竹富町の人口は3,968人、与那国町の人口は807人である。与那国町を3とした場合の人口比率は石垣市が177、竹富町が15である。
9月8日の全委員協議の教育委員数は石垣市5人、竹富町は5人、与那国町は3人である。9月8日の全委員協議は人口に合わせた教育委員の構成になっていないから、民主的な決定機関であるとはいえない。全委員協議を民主的な決定機関にするには、人口比にあわせた教育委員の構成にするべきである。すると全委員協議の教育委員は石垣市177人、竹富町15人、与那国町3人になる。
石垣市が3対2に意見が分かれた場合の比率は、106人対71人になる。竹富町と与那国町の全員が石垣市の少数派に加わった場合は、106人対89人になる。竹富町と与那国町の全員が少数派に加わっても石垣市の決定をひっくり返すことができない。人口比で全委員協議を構成すると、石垣市の決定が全委員協議の決定になってしまう。もし、9月8日の全委員協議が三市町の人口比で教育委員を構成していたら、育鵬社の教科書に決まっていた。
  9月8日の全員協議は三市町の人口を考えれば民主的な協議会とは言えない。しかし、人口比だけで協議会の委員を構成すれば石垣市にすべてを決定されてしまう。それでは少数の竹富町や与那国町の意見は封殺されてしまう。
このような現実のさまざまな問題に配慮し、諸問題をクリアしながらつくったのが八重山採択地区協議会である。全委員協議は安直な多数決主義であり、民主主義ではない。八重山採択地区協議会のほうが民主主義に沿っている。 
〇県教育庁から派遣された課長は全委員協議には拘束力があると発言した。しかし、無償措置法には拘束力はない。拘束力がないのに、全委員協議会の採択には拘束力があるとしたのは、無償措置法に新たな法律をつけ加えたことになる。
 11月29日に、県教育委員会は東京書籍の教科書を採択した9月8日の全員協議に基づき、三市町の教育委員会に東京書籍の教科書の必要冊数を報告するよう求める文書を送付した。この県教育委員会の行為は、9月8日の全委員協議で全員協議には拘束力がある発言したことに基づいた行為である。無償措置法には拘束力はないのに、東京書籍の教科書の必要冊数を報告するよう求めたということは無償措置法に県の行政が「拘束力」という新しい法律を加えたことになる。無償措置法は立法機関である国会がつくった。無償措置法に新しい法律を加えるのは国会であり県の行政がやってはいけない。それなのに行政機関である県の教育庁は無償措置法に拘束力があるという法律を新たにつくった。それは違法行為であり、拘束力があるとした全委員協議は無償措置法の機関としては成立しない。

県教育庁が報告を受けるのは、三市町の教育委員会が採択した教科書の冊数である。それはそれぞれの三市町が使用すると決めた教科書の冊数であり、国が無償給付する教科書の冊数ではない。
県教育庁は八重山地区の教科書を同一にするように指導する義務はあるが、同一にする義務はない。指導しても同一にすることができなければあきらめるしかない。

  以上のことから、9月8日の全委員協議は教科書を採択する正規の機関として成立しないのは明らかである。

 8月31日の三教育長の協議が決裂した時に、

〇八重山地区に無償給付する公民の教科書は育鵬社の教科書である。
〇石垣市、与那国町が使用する教科書は育鵬社版。竹富町が使用する教科書は東京書籍版である。
〇石垣市、与那国町には国が教科書を無償給付する。竹富町には無償給付しない。

ということが決まった。法律的には8月31日に八重山教科書問題は終わっていた。全地域に無償給付をやりたい文科省は、竹富町が育鵬社の教科書に変更するのを待ったが竹富町は変更しなかった。

〇9月8日の全委員協議は法的に成立しない。
〇無償給付できる教科書は無償措置法により一種と限定されているので、文部科学省は東京書籍の教科書を竹富町に無償給付はできない。

八重山教科書問題は無償措置法と地方教育行政法というふたつの法律の問題であり、大衆運動の圧力で変更することができるような問題ではなかった。
県教育庁をはじめ、多くの教育関係の市民団体や知識人は9月8日の全員協議が有効であると、県民集会や多くの集会を開いて主張し続けた。しかし、彼らの要求を受け入れるということは法律を破ることになるから、行政のトップ機関である文部科学省は彼らの要求を受け入れなかった。文部科学省の法治主義の壁は厚く、東京書籍の教科書を竹富町に無償給付させることはできなかった。

 新学期になり、8月31日に決定していたことが粛々と実行されていった。

無償措置法にも不適切な文言が使われている。

無償措置法は、国が市町村の小中学校に無償給付する教科書を採択するための法律である。市町村の小中学校で使用する教科書を採択するための法律ではない。それなのに無償措置法は「使用する」という文言を使っている。

(都道府県の教育委員会の任務)
第10条 
都道府県の教育委員会は、当該都道府県内の義務教育諸学校において使用する教科用図書の採択の適正な実施を図るため、義務教育諸学校において使用する教科用図書の研究に関し、計画し、及び実施するとともに、市(特別区を含む。以下同じ。)町村の教育委員会及び義務教育諸学校(公立の義務教育諸学校を除く。)の校長の行う採択に関する事務について、適切な指導、助言又は援助を行わなければならない。

第13条 
1 都道府県内の義務教育諸学校(都道府県立の義務教育諸学校を除く。)において使用する教科用図書の採択は、第10条の規定によつて当該都道府県の教育委員会が行なう指導、助言又は援助により、種目(教科用図書の教科ごとに分類された単位をいう。以下同じ。)ごとに一種の教科用図書について行なうものとする。
2 都道府県立の義務教育諸学校において使用する教科用図書の採択は、あらかじめ芸定審議会の意見をきいて、種目ごとに一種の教科用図書について行なうものとする。
3 公立の中学校で学校教育法第71条の規定により高等学校における教育と一貫した教育を施すもの及び公立の中等教育学校の前期課程において使用する教科用図書については、市町村の教育委員会又は都道府県の教育委員会は、前2項の規定にかかわらず、学校ごとに、種目ごとに1種の教科用図書の採択を行うものとする。

4 第1項の場合において、採択地区が2以上の市町村の区域をあわせた地域であるときは、当該採択地区内の市町村立の小学校及び中学校において使用する教科用図書については、当該採択地区内の市町村の教育委員会は、協議して種目ごとに同一の教科用図書を採択しなければならない。

(同一教科用図書を採択する期間)
第14条 義務教育諸学校において使用する教科用図書については、政令で定めるところにより、政令で定める期間、毎年度、種目ごとに同一の教科用図書を採択するものとする。

無償措置法は、国が無償給付をする教科書を決める法律であるのに第10条、第13条第14条は「無償給付する」教科書ではなく「使用する」教科書を決める文言になっている。
無償措置法の第一条、第二条、第三条では、無償措置法は無償給付する目的の法律であると明言しているのにも拘わらず使用する教科書を採択するという文言を使っている。

太文字の「使用する」の文言通りであるならば、採択地区協議会が市町村の小中学校で使用する教科書を決めることになる。もし、採択地区協議会が市町村の小中学校で使用する教科書を決めるのであれば、採択地区協議会が教科書を採択した後に開かれる各市町村の教科書を採択するための教育委員会は開く必要がない。いや、開いてはならない。教育委員会を開いてしまうと今回の八重山教科書問題のように採択地区協議会が採択した教科書とは違う教科書を市町村の教育委員会が選ぶトラブルが発生する可能性があるからだ。
もし、「使用する」の文言通りに無償措置法を実施するのなら、無償措置法の第一条を訂正し、地方教育行政法から第二十三条6の条文を削除して、教科書を採択する市町村の教育委員会を開かないようにしなければならない。しかし、そうすると無償措置法が地方自治の権限を奪ってしまうことになり、賛否の論議が浮上するだろう。そうならないためには無償措置法は教科書を国が無償給付するという文言に徹することである。誤解を与えるような「使用する」の文言を「無償給付」の文言にすべて変更するべきである。

県が9月8日の全委員協議を開催する根拠にしたのが、無償措置法の第13条4項である。県は「使用する」の文言を根拠にして全委員協議の採択には拘束力があると主張した。第13条4項だけを読めば県の主張も間違っていない。
八重山教科書問題は、不適切な文言を使っている無償措置法をつくった国会にも責任がある。



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普天間飛行場移設は辺野古しかない1

「沖縄に内なる民主主義はあるか」

四 普天間飛行場の移設は辺野古しかない

沖縄県人口の推移

大正 9年(1920年) 57万1,572人
大正14年(1925年) 55万7,622人
昭和 5年(1930年) 57万7,509人
昭和10年(1935年) 59万2,494人
昭和15年(1940年) 57万4,579人 
昭和25年(1950年) 69万8,827人
昭和30年(1955年) 80万1,065人 
昭和35年(1960年) 88万3,122人
昭和40年(1965年) 93万4,176人
昭和45年(1970年) 94万5,111人
昭和50年(1975年) 104万2,572人
昭和55年(1980年) 110万6,559人
昭和60年(1985年) 117万9,097人
平成 2年(1990年) 122万2,398人
平成 7年(1995年) 127万3,440人
平成12年(2000年) 131万8,220人
平成17年(2005年) 136万1,594人
平成22年(2010年) 139万2,503人  

 1920年から1940年の戦前の人口は50万人台である。農業が中心であった戦前の沖縄の人口は60万人が限度だったといわれている。

戦前の沖縄の人口は60万人が限度だった理由

と言っても納得できない人が多いと思う。農業中心の戦前の沖縄の人口が60万人が限度であったことを理解してもらうために、現在の農業の実態を参考にして説明しよう。
現在の農業生産は930億円前後である。一戸の農家が年収500万円と仮定した場合に農業人口は何人であるかを出してみる。生産するには肥料や飼料、設備、農機具などの経費が必要であり、必要経費を200万円と仮定する。すると農家の年収は700万円となる。

930億円÷700万円=1万3285戸
一戸5人家族とすると、
1万3285戸×5=6万6425人

五人家族で年収500万円の農家なら、沖縄県の農業人口はわずか6万6425人である。

 五人家族で年収180万円の農業人口を出してみる。必要経費が70万円と仮定すると、

930億円÷250万円=3万7200戸
3万7200戸×5=18万6000人

 年収180万円と仮定すると農業人口は18万6000人である。沖縄が現在の農地が二倍になり、戦前のような農業中心の社会になったと仮定しよう。そのためには米軍基地がすべて解放されるだけでなく、都市部の住宅地の多くも農地にならなければならない。農地が二倍になり農業の生産額が二倍の1860億円になった場合は、農業人口も二倍の37万2000人になる。現在なら、五人家族で年収180万円なら生活ができない。しかし、戦前は電気や水道やガスがないし、テレビや冷蔵庫もなかった。高校や大学に進学する子供も非常に少なかったから年収が180万円でも生活ができただろう。
 沖縄県の平成20年の平均年収は324.5万円である。農家の収入を324.5万円とすると、必要経費を100万円を加えると年収は424.5万円である。沖縄が農業中心社会だとすると、

1860億円÷424.5万円=4万3816戸
一戸五人家族とすると、
4万3816戸×5=21万9080人

農地が現在の二倍になり、沖縄県が農業中心の社会となった場合、現在の県民所得と同じ収入を仮定すると農業人口は21万9080人である。沖縄のほとんどは農地であるから、この場合の沖縄県の人口は30万人くらいであろう。どんなに多く想定しても農業人口の二倍の43万人以下であろう。
 県内で仕事がなく、生活できない人は県内に居れば餓死するから、県外や国外に仕事を求めて出ていかなくてはならない。だから、戦前の沖縄の人口は60万人弱で推移した。
 この試算は素人の私が出したものだから正確ではない。必要経費の割合はもっと高いと思う。私の試算より実際はもっときついと思う。

宜野湾市の戦後の経済発展の原因

1945年の沖縄戦で10万人近くの県民が戦争の犠牲になったにもかかわらず、1950年の人口は1940年より10万人以上も増えて、69万8,827人になっている。敗戦により南方や大陸に移民していた人たちが沖縄に戻されたのとベビーブームの影響だろう。
 注目するべきところは、戦前は農業中心であり人口は60万人が限度であるといわれていたのに、1950年には沖縄の人口が70万人近くになったことである。沖縄が農業中心の産業から基地経済へと移ったから70万人を突破したと考えられる。戦後の沖縄の人口は増え続け、平成23年には140万人を突破した。戦前の農業中心の人口に比べて2倍以上の人口である。

宜野湾市の人口推移

大正 9年(1920年) 1万2,704人
大正14年(1925年) 1万2,569人
昭和 5年(1930年) 1万2,857人 
昭和10年(1935年) 1万3,346人 
昭和15年(1940年) 1万2,825人 
昭和25年(1950年) 1万5,930人 
昭和30年(1955年) 2万4,328人 
昭和35年(1960年) 2万9,501人 
昭和40年(1965年) 3万4,573人 
昭和45年(1970年) 3万9,390人 
昭和50年(1975年) 5万3,835人 
昭和55年(1980年) 6万2,549人 
昭和60年(1985年) 6万9,206人 
平成 2年(1990年) 7万5,905人 
平成 7年 (1995年) 8万2,862人 
平成12年(2000年) 8万6,744人 
平成17年(2005年) 8万9,769人
平成24年(2012年) 9万3、189人

1920年から1940年までの人口はほとんど変化していない。戦前の沖縄は農業中心であり、宜野湾も農業中心の村であった。農業を営むには広い農地が必要である。人口に変化が見られないのは農業を営むのに1万3,000人前後が限界であったからだろう。これ以上人口が増えると生活できない者が増える。だから農地を持たない次男、三男は宜野湾から出て行かなければならなかった。宜野湾が農業中心であったなら、戦後も人口は増えなかったはずである。
終戦直後の宜野湾市の人口は1万5,930人となり戦前よりわずかに増え、その後はどんどん増えていった。人口が増えた原因は農業から基地経済に転換していったからである。軍雇用員、軍用地料、米兵と家族相手の商売によって宜野湾市の経済は発展していった。
普天間飛行場が占める土地のうち、およそ92%は私有地である。このため、賃借料が地主に支払われており、2000年代は軍用地料が60億円台で推移している。宜野湾市には普天間飛行場だけでなくキャンプズケランもある。基地経済が宜野湾市の経済をうるおしているのは間違いない。

米軍基地のある宜野湾市の人口増加6万3688人
昭和35年(1960年) 2万9,501人
平成24年(2012年) 9万3、189人

米軍基地のない糸満市の人口増加は2万5630人
昭和35年 (1960年) 3万3,580人
平成24年 (2012年)   5万9、210人
米軍基地のない石垣市人口増加は1万0314人
昭和35年(1960年)   3万8,481人
平成24年 (2012年) 4万8795人

宜野湾市の人口増加は6万3688人、糸満市の人口増加は2万5630人、石垣市の人口増加は1万0314人である。糸満市も石垣市も経済発展の環境は好条件であり目覚ましく経済は発展しているほうである。しかし、米軍事基地のある宜野湾市に比べると経済発展に大差がある。

沖縄の米軍基地強化と密接な関係がある旧ソ連の拡大

 沖縄の軍事基地化はソ連、中国等の社会主義圏の拡大と密接な関係がある。戦後の社会主義は粛清や軍事力によってすごい勢いで勢力を拡大していった。アメリカは社会主義をもっとも嫌い、もっとも恐れた。アメリカは社会主義の拡大を食い止めるために韓国、南ベトナム、台湾、フィリピンなどの軍事独裁政権をバックアップし、日本本土や沖縄を軍事要塞化した。日本本土は自衛隊の軍事力が強化されるに応じて米軍基地を減らしていった。

レーニンの死後、独裁的権力を握ったスターリンは、ポーランドやルーマニアなどの東ヨーロッパ諸国を社会主義化し、自国の衛星国とした。ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄するとともに侵攻し、ポーランドの東半分を占領した。またバルト3国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国に進駐した。さらに親ソ政権を組織し、反ソ連派を粛清、或いは収容所送りにして、ついにこれを併合した。同時にソ連はルーマニアにベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアと北ブコビナに進駐し、領土を割譲させた。さらに隣国のフィンランドを冬戦争により侵略してカレリア地方を併合した。  さらに占領地域であった東欧諸国への影響を強め、衛星国化していった。その一方、ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土を獲得し、西方へ大きく領土を拡大した。 また、開戦前に併合したエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国への支配、ルーマニアから獲得したベッサラビア(現在のモルドバ)の領有を承認させた。更にこれらの新領土から多くの住民を追放あるいはシベリアなどに強制移住させ、代わりにロシア人を移住させた。また、極東では日本の領土であった南樺太及び千島列島を占領し、領有を宣言した。さらに、1945年8月14日に連合国の一国である中華民国との間に中ソ友好同盟条約を締結し、日本が旧満州に持っていた各種権益のうち、関東州の旅順・大連の両港の租借権や旧東清鉄道(南満州鉄道の一部)の管理権の継承を中華民国に認めさせた。
第二次世界大戦によって大きな損害を蒙っていた西欧諸国において、共産主義勢力の伸張が危惧されるようになった。とくにフランスやイタリアでは共産党が支持を獲得しつつあった。戦勝国であったイギリスもかつての大英帝国の面影はなく、独力でソ連に対抗できるだけの力は残っていなかった。そのため、西欧においてアメリカの存在や役割が否応なく重要になっていった。1947年に入ると、3月12日にトルーマンは一般教書演説でイギリスに代わってギリシアおよびトルコの防衛を引き受けることを宣言した。いわゆる「トルーマン・ドクトリン」である。さらに6月5日にはハーヴァード大学の卒業式でジョージ・マーシャル国務長官がヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)を発表し、西欧諸国への大規模援助を行った。こうして戦後アメリカは、継続的にヨーロッパ大陸に関与することになり、孤立主義から脱却することになった。
東欧諸国のうち、ドイツと同盟関係にあったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、スロバキアにはソ連軍が進駐し、共産主義勢力を中心とする政府が樹立された。当初は、「反ファシズム」をスローガンとする社会民主主義勢力との連立政権であったが、法務、内務といった主要ポストは共産党が握った。ヤルタ会談で独立回復が約束されたポーランドでも、ロンドンの亡命政府と共産党による連立政権が成立したが、選挙妨害や脅迫などによって、亡命政府系の政党や閣僚が排除されていった。こうした東欧における共産化を決定付けるとともに、西側諸国に冷戦の冷徹な現実を突きつけたのが、1948年2月のチェコスロバキア政変であった。またその前年の10月にはコミンフォルムが結成され、社会主義にいたる多様な道が否定され、ソ連型の社会主義が画一的に採用されるようになった。
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沖縄の米軍基地強化と密接な関係がある中国の拡大

1930年代から中華民国・南京国民政府と内戦(国共内戦)を繰り広げてきた中国共産党は、第二次世界大戦終結後に再燃した内戦で相次いで国民政府軍に勝利をおさめ、1949年4月には共産党軍が南京国民政府の首都・南京を制圧した。この過程で南京国民政府は崩壊状態に陥り、中国国民党と袂を分かって共産党と行動を共にしたり、国外へと避難したりする国民政府関係者が多数出た。その為、共産党は南京国民政府が崩壊・消滅したと判断し、同年10月に毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言した。なお、崩壊状態に陥った南京国民政府は蒋介石の指導の下で台湾に撤退し(台湾国民政府)、引き続き現在にいたるまで中華民国と名乗っている。冷戦を経て現在中華民国を国家承認している国は30ヶ国未満であるが、二つの「中国」政府が並立する事態は台湾問題として東アジアの国際的政治問題となっている。

建国当初の政治を担ったのは、中国人民政治協商会議であった。この段階では共産党独裁体制は確立されておらず、「新民主主義論」のもと共産党、中国民主同盟、中国農工民主党、中国国民党革命委員会などの諸勢力が同会議の中心となった。1950年、土地改革法が成立して全国で土地の再配分が行われた。法の内容自体は穏健的なものであったが、地主に対して積年の恨みを抱いていた貧農などによって運動は急進化し、短期間で土地改革は完了した。

中華人民共和国の発足直後は、旧国民党、富裕層などによる反共・反政府運動が続発した。このため、「反革命活動の鎮圧に関する指示」が出され、大衆を巻き込んだ形で反政府勢力の殲滅を図った。1953年までに71万人を処刑、129万人を逮捕、123万人を拘束し、240万人の武装勢力を消滅させたことが、中国の解放軍出版社より出版された国情手冊に記されている。

1950年に中ソ友好同盟相互援助条約を結び、朝鮮戦争で北朝鮮を支援して参戦するなど、社会主義陣営に属する姿勢を鮮明にした。ただし、1954年のネルー・周恩来会談で平和五原則を示したこと、アジア・アフリカ会議(バンドン会議)にも積極的に関わったことに見られるように、常にソビエト連邦一辺倒なのではなく、第三勢力としての外交も行った。また、1956年のソ連共産党第20回大会においてフルシチョフが行った「スターリン批判」に対して、中国共産党は異なった見解(功績7割、誤り3割)を示した。これ以降ソビエト連邦との関係は徐々に悪化、のちの中ソ論争や中ソ国境紛争へとつながっていく。

国内では、1953年頃より社会主義化を本格的に進め始め、人民政治協商会議に代わって人民代表大会を成立、農業生産合作社を組織した。1956年に行った「百花斉放百家争鳴」運動にて知識人から批判をうけたため、これを弾圧するために1957年6月に批判的な知識人に対する反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ、投獄した。1958年、毛沢東は大躍進政策を開始し、人民公社化を推進した。しかし、無計画に進められた大躍進政策は2000万人~4000万人以上とも言われる大量の餓死者を出して失敗に終わった。同じ頃、チベットの中国との同化を図り、「解放」の名目で軍事制圧し、ここでも数十万人の大虐殺を行なったとされる(根拠なし)。チベットの最高指導者、ダライ・ラマはインドに亡命し、未だ帰還していない。

毛沢東時代の中華人民共和国は、社会の共産主義化を推進した。建国直後の1949年にウイグル侵攻を行いウイグルを占領した。1950年にはチベット侵攻を行いチベットを併合した。1952年には朝鮮戦争に介入し、韓国軍と、アメリカ軍を主体とする国連軍による朝鮮統一を阻止した。毛沢東の指導のもとで大躍進政策と核開発を行ない、多くの餓死者と被爆者を出しながらも核保有国としての地位を確保する。1959年のチベット蜂起を鎮圧すると、1962年にはチベットからインドに侵攻した(中印戦争)。1974年には南シナ海に侵攻し、ベトナム支配下の西沙諸島を占領した(西沙諸島の戦い)。
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沖縄の米軍基地強化と密接な関係があるアジアの冷戦

中国大陸では、戦後すぐにアメリカの支援する中国国民党と中国共産党が内戦を繰り広げたが、中国共産党が勝利し1949年に共産主義の中華人民共和国を建国。1950年2月に中ソ友好同盟相互援助条約を結んでソ連と連合した。
一方、中国国民党は台湾島に逃れ、アメリカの支援のもと大陸への反攻をねらった。また、中華人民共和国は朝鮮戦争に出兵することで、アメリカと直接対立した。すでにモンゴルではソ連の支援の下で共産主義のモンゴル人民共和国が1924年に成立していたが、戦後になって米英仏等が承認した。
日本が統治していた朝鮮半島は、ヤルタ会談によって北緯38度線を境に北をソ連、南をアメリカが占領し、朝鮮半島は分断国家となった。このため、1950年6月にソ連の支援を受けた北朝鮮が大韓民国へ突如侵略を開始し、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮戦争には「義勇軍」の名目で中華人民共和国の中国人民解放軍も参戦し戦闘状態は1953年まで続いた。
フランス領インドシナでは、ベトナムの共産勢力が独立を目指し、第一次インドシナ戦争が起こった。1954年にフランスが敗北したため、ベトナムが独立を得たが、西側は共産主義勢力の拡大を恐れ、ジュネーブ協定によって北緯17度で南部を分割し、南側に傀儡政権を置いた。これは後のベトナム戦争の引き金となる。また、フランスとアメリカが強い影響力を残したラオス(1949年独立)、カンボジア(1953年独立)でも共産勢力による政権獲得運動が起こった。

これら共産勢力のアジア台頭に脅威を感じたアメリカは、1951年8月に旧植民地フィリピンと米比相互防衛条約、9月に占領していた旧敵日本と日米安全保障条約、同月にイギリス連邦のオーストラリア・ニュージーランドと太平洋安全保障条約(ANZUS)、朝鮮戦争後の1953年8月に韓国と米韓相互防衛条約、1954年に中華民国と米華相互防衛条約を立て続けに結び、1954年9月にはアジア版NATOといえる東南アジア条約機構(SEATO)を設立して西側に引き入れた他、中華民国への支援を強化した。また中東でも、アメリカをオブザーバーとした中東条約機構(バグダッド条約機構、METO)を設立し、共産主義の封じ込みを図った。
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沖縄の米軍基地強化と密接な関係がある朝鮮戦争
 
1950年6月25日早朝、朝鮮人民軍は38度線を突破して南部への進撃を開始した。李承晩政権の朝鮮武力統一を未然に防止し、「南半部」を解放する、というのがその理由だった。
朝鮮人民軍は進撃をつづけ、1950年6月28日には韓国の首都ソウルを陥落させた。
一方、在日米軍は7月1日、釜山に上陸して北上を開始し、沖縄駐留のB‐29が北朝鮮爆撃を開始した。また、6月27日には第七艦隊が台湾海峡に展開した。7月7日、国連は国連軍総司令部の設置を決定、東京の連合国軍最高司令官マッカーサーを国連軍総司令官に任命し、米軍を中心に16カ国からなる国連軍が編成された。

朝鮮人民軍の勢いは、国連軍参戦後もやまず、1950年8月下旬には、国連・韓国軍は、半島南東部の釜山・大邱などがある一角においこまれた。朝鮮半島の95%を北朝鮮が占領した。

9月15日、マッカーサーの指揮のもとに国連軍はソウル近郊の港町仁川への上陸を決行、韓国内の朝鮮人民軍を南北から挟撃した。
これを機に戦局は逆転し、1950年9月26日に国連軍はソウルを奪回、10月1日には韓国軍が38度線を突破し、つづいて7日に国連軍も同線を突破した。そしてこの日、国連総会は武力による朝鮮統一を承認した。国連・韓国軍はなおも北上して19日に平壌を占領。一部の部隊は26日に鴨緑江まで到達した。
しかしその前日、中国人民義勇軍が参戦して朝鮮人民軍とともに反撃に転じ、1950年12月4日に平壌を奪回、翌51年1月4日にはソウルを再占領した。これに対し、2月1日、国連総会は中国非難決議を採択、3月14日には国連・韓国軍はソウルを再奪回した。
戦線は38度線を境に膠着(こうちゃく)状態におちいり、打開策として中国本土やソ連領シベリア諸都市への原爆攻撃を主張したマッカーサーは、トルーマンにより、1951年4月11日に国連軍総司令官を解任された。以後も戦線膠着状態を打開するために、細菌弾、毒ガス弾も使用されたが、決定的な戦局の転換はおきなかった。
戦線が膠着状態になったのをみて、1951年6月23日、ソ連の国連代表マリクはラジオで休戦を提案、関係各国はこれをうけいれ、7月10日に開城を会場(10月に板門店に移動)として朝鮮休戦交渉がはじまった。しかし、交渉は遅々としてすすまず、断続的に2年間におよび、ようやく53年7月27日板門店において、国連軍総司令官マーク・クラーク、朝鮮人民軍最高司令官金日成、中国人民義勇軍司令員彭徳懐の間で休戦協定が調印された(韓国は拒否)。
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国連・韓国軍側戦死者 50万人
負傷者        100万人
朝鮮人民軍・中国人民義勇軍戦死者 100万人
戦傷者              100万人
民間人の死亡者、行方不明者南北あわせて 200万人以上

普天間飛行場

ソ連、中国、北朝鮮、北ベトナム、ラオス、カンボジアなどの共産勢力のアジア台頭に脅威を感じたアメリカは、日本、オーストラリア・ニュージーランド、韓国、中華民国への支援を強化し、共産主義の封じ込みを図った。沖縄の軍事基地強化は共産主義の封じ込み戦略のひとつであり、普天間飛行場も共産主義の封じ込みを目的に拡大強化していった。

普天間飛行場は宜野湾市大山二丁目に所在しており、その面積は約480㏊である(宜野湾市野嵩・新城・上原・中原・赤道・大山・真志喜・字宜野湾・大謝名にまたがる)。これは宜野湾市の面積の約25%にあたる。那覇都市圏を構成する沖縄県の中でもっとも人口が過密な地帯の一部であり、普天間飛行場、キャンプ瑞慶覧(面積160㏊)、陸軍貯油施設(面積2㏊)を除くと使用可能な市域の面積が1294㏊となり、1995年の時点で人口密度(約6252人/㎢)になった。これは、横田飛行場周辺自治体の人口密度に概ね相当する。

普天間飛行場は航空基地として総合的に整備されており、滑走路のほか、駐留各航空部隊が円滑に任務遂行できるための諸施設として、格納庫、通信施設、整備・修理施設、部品倉庫、部隊事務所、消防署、PX、クラブ、バー、診療所などが存在する。

普天間飛行場の歴史

普天間飛行場は終戦の年の1945年にはすでにあった。1950年宜野湾の人口は1万5,930人と少なく、普天間飛行場の周囲の多くは黙認耕作地であり人家はなかった。普天間飛行場の周囲に人家や公共施設が増えていったのは黙認耕作地が返還されるようになった1960年以降である。米軍に普天間飛行場の外側を管轄する権利はないので、人家や公共施設が増えていった原因は普天間飛行場の周囲を管轄していた宜野湾市の政策にあったといえよう。

1945年 沖縄戦の最中に、宜野湾一帯がアメリカ軍の支配下に置かれると、アメリカ陸軍工兵隊の発注により中頭郡宜野湾村(現・宜野湾市)の一部土地を接収し、2,400m級の滑走路を持つ飛行場が建設された。目的は日本本土決戦(連合軍側から見た場合ダウンフォール作戦)に備えるためであり、兵員及び物資の輸送に供することであった。
1945年 台風の直撃により建設途中の沖縄の各軍事施設が打撃を受ける。
1948年 リビー、デラ、グロリアの3台風が相次いで沖縄を直撃した。特に1949年6月のグロリアによる沖縄米軍基地全体の損害は8000万ドルに達し、その原因は基地施設がカマボコ兵舎に代表される簡易的な物が多く、天災に耐えるだけの恒久性を持っていないことにあった。これは戦後の軍事予算削減の影響を受けたものだったが、被害の大きさからより恒久的で台風や地震に耐えられる基地施設建設の機運が高まった。
1950年 朝鮮戦争勃発に伴い沖縄の戦略的価値が見直され、基地の恒久化を目的とした建設が進められることとなった。普天間もこれによる影響を受けていく。
1950年 GHQ下の極東軍司令部は1950年7月1日に遡及し、米軍が占領した民有地の借料の支払いを開始するように琉球民政府に指示した。
1953年 滑走路が2,800メートルに延長され、ナイキミサイ  
ルが配備された。
1955年 米軍は伊佐浜の土地を10万坪(立ち退き家屋32戸)接収すると通告し、住民は「土地取上げは 死刑の宣告」などのノボリを立てて反対した。しかし、7月19日の夜明け前、武装兵に守られたブルドーザーやクレーンにより家屋が取り壊され、32個136名の住民が住む家を失った。
1957年 陸軍から空軍へ管理を移管。
1960年 施設管理権がアメリカ空軍からアメリカ海兵隊へ移管された。民有地については、琉球政府が住民から土地を一括で借り上げたうえで米海兵隊に又貸しをし、軍用地料(基地・飛行場の土地賃借料)についてはアメリカ側から琉球政府に支払われたものを住民に分配する方法が採られた。
1969年 第1海兵航空団第36海兵航空群が司令部を本飛行場に移設。同航空群のホームベースとなる。
1972年 沖縄返還に合わせて事務が琉球政府から日本政府(防衛施設庁那覇防衛施設局)に引き継がれ、日米地位協定第二条第一項に基づく米軍施設および区域と定義される。また、普天間海兵隊飛行場、普天間陸軍補助施設、普天間海兵隊飛行場通信所の3施設が統合され、普天間飛行場として提供施設、区域となる。
1974年 嘉手納飛行場にP‐3Cが移駐されたことに伴い、その補助飛行場として使用するための滑走路を全面的に再整備。
1974年 第15回日米安全保障協議委員会にて一部の無条件返還および移設条件付返還を合意。
1976年 ベトナム戦争終結後の海兵隊再編に伴い、上級司令部たる第1海兵航空団司令部が岩国よりキャンプ・バトラー(中城村)に移駐し、機能強化が図られた。
1976年 返還予定の中原区から航空機誘導用レーダーを移設。
1977年 10.9㏊を返還(12月15日代替施設として飛行場内に宿舎等を追加提供)。
1977年 0.3㏊を返還。
1977年 2.4㏊を返還。
1978年 ハンビー飛行場の返還に伴って格納庫、駐機場、隊舎等を移設。
1980年 米兵、一部一般市民の犯罪に対抗して周辺住民が組織していた自警団制度を廃止する。
1980年 格納庫等建物2600平方メートルを追加提供。
1981年 「防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律」に基づき第1種区域(住宅防音工事対象区域)を指定(4740世帯)。
1983年 宿舎等建物11500平方メートルを追加提供。
1985年 宜野湾市消防庁舎用地として0.7㏊を返還。
1986年 隊舎として建物5,700平方メートル等を追加提供。
1987年 格納庫として建物5400平方メートル等を追加提供。
1992年 道路用地等として1.5㏊を返還。
1996年 普天間第二小学校校庭用地として0.9㏊を返還。
2000年 基地周辺の小学校において海兵隊員による英会話の実習を開始。
          「フリー百科事典・ウィキペディア」を参考」

「1955年7月11日、米軍は伊佐浜の土地を10万坪(立ち退き屋敷32戸)接収すると通告し、住民は『土地取上げは 死刑の宣告』などのノボリを立てて反対した。しかし、7月19日の夜明け前、武装兵に守られたブルドーザーやクレーンにより家屋が取り壊され、32個136名の住民が住む家を失った。伊佐浜の水田は収穫量も多く、戦前から『チャタンターブックヮ』(北谷のたんぼ)」と呼ばれる美田が広がっていました。戦時中も米軍の土地接収からもまぬがれ、戦後もかつてのように稲が植えられていました」
米軍が基地の拡大強化のためにフルドーザーと銃剣で強引に土地接収した無慈悲な行為として有名な話であり、伊佐浜の話は何度も新聞に掲載されてきた。悪徳非道のようにみえる米軍の行動であるが、ブルドーザーと銃剣で強引に土地接収したのは共産勢力のアジア拡大に対する封じ込めという理由があった。
死者350万人以上という戦後最大の凄惨な戦争が朝鮮半島で起こった。ソ連、中国、北朝鮮、ベトナムなどの社会主義国家と韓国、台湾、南ベトナム、フィリピン、アメリカとの対立はいつ戦争が起こってもおかしくない状態にあり、アメリカ軍は早急にアジアの駐留軍を強化する必要に迫られていた。アジア全体の軍備強化のひとつとして伊佐浜の強制土地接収があった。
もし、アメリカ軍が沖縄・日本に駐留していなかったら、沖縄は中国に占領されていたはずである。米軍基地がなければ平和で豊かな沖縄になれたと考えるのは非現実な妄想だ。

 土地を接収された伊佐浜の農民や全島の人たちが土地闘争をするのは当然であるが、米軍が強引に土地接収した理由には第二次世界大戦後の世界を二分にしたソ連・中国の社会主義圏とアメリカ・ヨーロッパの資本・民主主義圏との熾烈な対立があった。伊佐浜の土地接収を問題にするのなら背景にある中国、北朝鮮との対立、朝鮮戦争、ベトナム戦争、チベット侵略など社会主義圏と資本・民主主義圏の対立を問題にするべきである。

 米軍の土地接収でうっかり見逃していたことがある。私の周り起き、直接見てきたである読谷の土地接収についてである。
海の近くにあった渡久地の住民全員が通信基地トリイステイション設立のために立ち退きとなり私が住んでいた比謝の隣に引っ越してきた。米軍は木や草が生えている広大な丘をブルドーザーであっというまに整地した。子供の私はブルドーザーの威力に驚嘆したのを覚えている。休みの日にブルドーザーを警備しているガードマンが友達の父親だったので、私たちはブルドーザーに乗ったりして遊んだ。整地された広大な広場は子供たちの絶交の遊び場であった。雪合戦ならぬ泥を丸めて投げ合う泥合戦もやった。
 楚辺も全住民が強制的に立ち退きされて、米軍が整地した今の場所に移った。読谷の場合は伊佐浜のような抵抗運動はなかったようである。強制立ち退きは渡久地、楚辺だけではなかった。嘉手納弾薬庫内にあった大湾、比謝橋、比謝、牧原、伊良皆、長田などが強制立ち退きをされた。嘉手納弾薬庫は伊佐浜とは比べ物にならないほどの広大な土地である。しかし、伊佐浜のような抵抗運動はなかった。
 唯一、強制立ち退きに抵抗して頑張った家が一軒だけあった。その家は幼稚園の時からの友達であるUの家だった。彼の父親は人民党員だった。だから最後まで立ち退きに抵抗したのだろう。彼の家のまわりには家がなくて畑や雑草が茂っている広場が多かったので絶好な遊び場所だった。私は彼の家の近くでよく遊んだものだ。彼の家のある場所に米軍の設備を立てるわけではなく、黙認耕作地であったから米軍の銃とブルドーザーによる強制撤去はなかった。数年後に私の家の近くに引っ越してきた。
 新聞では何回も米軍による銃とブルドーザーによる強制立ち退きの記事が載るのだが、ほとんどは伊佐浜か伊江島である。伊佐浜と伊江島以外の場所が載ったことはない。もしかしたら強制立ち退きに抵抗したのは伊佐浜と伊江島だけかもしれない。
 新聞には銃とブルドーザーによる強制撤去は何度も掲載されるが、辺野古が米軍基地を受け入れたことは掲載しないし、辺野古が繁栄したので土地闘争が崩れていった話も掲載しない。
 都合の悪いのは話題にしないのが沖縄のマスコミ、学者、知識人である。残念である。
 
普天間第二小学校
         
 宜野湾市立普天間第二小学校は、宜野湾市の北、国道58号線と国道330号線を結ぶ県道81号線の中ほどにあり、学校の北側には普天間三叉路があり、その周辺に普天間神宮や商店街などが立ち並んでいる。南側は米軍普天間飛行場とフェンス越しに向かい合っている。そのため、輸送機やヘリコプターの離着陸の騒音にさらされている。宜野湾村が市になった1962(昭和37)年ごろから人口が増え、中心地の普天間小学校の児童数も限界に近づいていたことから普天間第二小学校の建設は計画され、1969(昭和44)年に分離開校した。現在の校舎は1996(平成8)年に普天間飛行場を0.9㏊返還させて拡張した新校舎で、オープン教室となっている。

 普天間飛行場の危険性を問題にするときに必ず取り上げるのが普天間第二小学校である。子供たちが遊んでいる校庭の向こう側から数台の軍用ヘリコプターが一斉に飛び立つ映像はまるでベトナム戦争を見ているようで背筋が凍る。
 非常にインパクトがある映像に多くの人は普天間飛行場の危険性を痛切に感じる。普天間飛行場からの騒音は教室内でも100ベシレル以上もあり、騒音で授業は中断される。普天第二小学校の騒音被害を報じるたびにマスコミは一日も早い普天間飛行場の撤去を訴える。
 政治家、知識人、学者、教師、市民など多くの人たちが普天間飛行場の移設を訴える。ただ、彼らのほとんどは日米政府が計画している普天間飛行場の辺野古移設には反対していて、普天間飛行場の辺野古移設は膠着状態であり、普天間飛行場の移設は不明である。普天間飛行場の撤去を訴えている人の多くは「県外移設」を主張している。不思議なことに普天間第二小学校の移転を主張する人はほとんどいない。
 今年の宜野湾市長選の時、保守系の立候補者は普天間飛行場の県外移設を主張し、革新系の立候補者は閉鎖か国外移設を主張した。両立候補者とも辺野古移設は反対した。辺野古移設をやらないで、県外移設か国外説を実現するには最低でも7、8年は普天間飛行場は固定してしまう。最低でも7、8年というのは希望的観測であり、今までの歴史を考えれば10年以上固定するだろう。そうであるならば子どもたちの危険と騒音被害を軽減するために普天間第二小学校を普天間飛行場から離れた場所に移設したほうがいいと思うのだが、両立候補者とも普天間第二小学校の移転については一言も発言しなかった。
 普天間第二小学校の騒音問題を取り上げるマスコミも普天間飛行場の「県外移設」を訴えることはあっても普天間第二小学校の移転を訴えることはない。政治家、知識人、学者、市民運動家も普天間第二小学校の騒音被害や危険性を問題にしても移転を主張することはない。不思議な現象である。普天間第二小学校の移転を発言するのはタブーになっているのだろうか。

普天間第二小学校は1969年に創立している。1969年といえば、ベトナム戦争が激しくなっていた頃である。前年の1968年には嘉手納飛行場からベトナムに向けて飛び立とうとしたB52重爆撃機が墜落炎上し、大爆発を起こして県民を恐怖のどん底に落とした。1968年には「命を守る県民共闘会議」が結成され、県民の反基地運動が一番盛り上がった時であった。その時に宜野湾市は普天間第二小学校を普天飛行場の金網沿いにつくったのである。普天飛行場の金網沿いにつくれば騒音被害、飛行機墜落の危険があるのは当然である。それを承知の上で宜野湾市は普天間飛行場の金網沿いに普天間第二小学校を創立したのだ。
子どもの人権を踏みにじる行為をしたのは宜野湾市政である。非難されるべきは宜野湾市政であり米軍ではない。
前の年に、嘉手納飛行場でB52重爆撃機が墜落炎上し、大爆発を起こした。普天間飛行場でヘリコプターや輸送機の墜落炎上の恐れを一番感じている時に宜野湾市は普天間飛行場の金網沿いに普天間第二小学校をつくったのである。子どもたちを基地被害の人身御供にして、基地の危険性をアピールするために普天間第二小学校をつくったのではないかと疑ってしまう。

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