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お寺さんぽ Ver.03

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常寂光寺 (京都・右京区)

2008年01月06日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都は右京区の「常寂光寺(じょうじゃっこうじ)」です。
…読み方合ってるよね?ね?

久々に行ってきました、京都。
いやー、やっぱりいいトコロです。またいつか住みたいですね。
今年の真夏の炎天下なら、がらがらかなーって思いましたが、やっぱりお客さんはおりました。
(↑当たり前か)

今回は三千院方面へ出向きましたんで、また機会あったら順次紹介していきたいと思います。
そんなこんなで、右京区は「常寂光寺」ですね。

開山は「日禎上人(にっしん・しょうにん)」です。
その「日禎上人」は大納言「広橋国光」の子として、永禄四年(1561)に誕生しました。
(※広橋家[ひろはしけ]:文官の家柄である名家、公家。藤原北家日野流。十三名家の一つ)
近い事件としては、「桶狭間合戦」が永禄三年(1560)なんで、新しい戦国の風が吹いた頃のことです。
ちなみに、日野家ニ十八代当主に「日野輝資(ひの・てるすけ)」という方がおりますが、持てる資料で調べた結果別人みたいでした。
兄弟なのかな?

ともかく、「日禎上人」は幼い頃に日蓮宗の大本山「本圀寺」に入れられ、なんとわずか十八歳にして法灯を継いでいるのです。

「法灯を継ぐ」ってーのは、後継者みたいな意味ですから、”宗学と歌道への造詣深く”という一文はあながち誇張とか冗談ではなさそう。
それだけでなく、若き秀才は人気面でも人並み外れており、虎退治で有名な「加藤清正」、関ヶ原で歴史的寝返りをした「小早川秀秋」、秀吉の実姉「日秀」などの戦国武将から京都町衆に至るまで多くの帰依者がいたのです。
しかし、天下人「豊臣秀吉」の出仕に応じなかったことから「本圀寺」を離れ、隠棲することとしたのでした。

この時の「日禎上人」は不受不施(ふじゅ・ふせ)という、「信者以外からの施しは受けず,また他宗の者には施しをしない」というある意味理にかなった、ある意味頑固な教えを守ったためであるようです。
日蓮宗にはこちらを教義とした宗派もあり、江戸幕府から邪宗として弾圧されています。

ともかく、隠棲することとした時代の秀才「日禎上人」の選んだ土地が、もとは百人一首の選者として名高い「藤原定家」の山荘「時雨亭」付近であるらしい、小倉山の中腹であるこちらなのでした。
(注:現在残っている「時雨亭」はこの付近にあったんだよーっ、て建てられたもので当時のものではありません)
京都の豪商「角倉了以(すみのくら・りょうい)」、角倉家宗家「角倉栄可(すみのくら・えいか)」らが土地を寄進し、「小早川秀秋」ら各武将たちが建立に寄与したのです。
隠棲の庵は後に寺へと改められ「常寂光寺」となるのでした。

看板の文句をそのまま借りると、幽雅閑寂(ゆうが・かんじゃく)で、日蓮宗の教義にある「常寂光土(じょうじゃっこうど)」の観があるところから、「常寂光寺」という寺名がつけられたのです。

四字熟語連発でなんだか分かりづらいですね。
えーっと、静かで趣が深く上品な雰囲気で、仏の悟りである真理そのものが具現しているような、最高の世界っぽいんだよーということみたいです。
物凄いベタ褒めですよ。

こちらの仁王門はちゃっかり元居た「本圀寺」から移築された、南北朝時代もの。
(※解体修理はされていますが、基本的には同時代)
安置されている仁王像は運慶作で「長源寺」より移されたもの。
さらに本堂は桃山城・客殿からの一部を移築・修造したもの。
色々なところから拝借してます。
元和六年(1620)だから…江戸時代建立の多宝塔(※写真)はオリジナルで重文。
当時の京都町衆の財力をしのばせるほど秀麗なものなんだって。

また、京都屈指の紅葉の名所として知られ、山の斜面と合った景色が大変に良いそうですが…ひでるさん行ったのはやっぱり真夏で空いている時期なのでした。
ひでるさんが行った時はものすごーく色気ない、地味パンフレットでしたが、こちら変わったでしょうか?
もしそのままなら、少し頑張った方が良いと思われますが。



[住所]
 常寂光寺 京都市右京区嵯峨小倉山小倉町3


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※そんなこんなで写真集も出ている「常寂光寺」です。
 お寺の四季風景というのは、なにゆえこんなにいいもんなんでしょうか?

岐阜大仏・正法寺 (岐阜)

2008年01月04日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は岐阜市の大仏町ってそのまんまのお名前にある「正法寺(しょうほうじ)」です。

こちらは岐阜城のすぐ近くにあるお寺です。
ふとそれを見つけたひでるさん、やっぱり「大仏」なんて聞いたなら、そりゃー行かない訳にはいかないでしょう。
そちらからは歩いて行ける程度の距離なので、観光の方もちょっと立ち寄るのが宜しいかと思います。

「正法寺」は「黄檗宗(おうばくしゅう)」なんてあまり聞かないお名前の宗派でして、有名なところでは「臨済宗」、「曹洞宗」などと同じ、禅宗の一つなのでした。
硬派なイメージですよね。
なんでも、江戸時代頃に中国から招聘した臨済宗の「隠元隆(いんげん・りゅうき)」禅師から始まるもので、当初は「臨済宗黄檗派」と名乗っていたのが目出度く独立した一派である様子。
そんな訳で、ちょっと建物などが中国風になるという特徴があるんだって。

ああ、なるほどぇ。確かにそんな雰囲気でした。(※写真参照↑)
こちら、正式名称は「黄檗宗金凰山正法寺」なのです。

京都は宇治にある「万福寺」からの末寺。
開山は天和三年(1638)ですから、時代は江戸時代の初期頃ですか。

第十一代の「惟中和尚」は大地震・大飢饉による祈願のため、奈良東大寺のような大仏の建立を考えるようになりました。
これが寛政三年頃(1791)、って結構最近のこと。
正法寺の門徒はあまり多くなかったため、決意を固めた「惟中和尚」は各地を托鉢。
なんと、はるか信越地方にまで赴いていたそうです。

結局、その完成を見ずに死した「惟中和尚」の意思を継いだ第十二代の「肯宗和尚」が完成に漕ぎ着けたのでした。
お二人合わせて三十八年という、長い歳月を要したのです。
お疲れ様でした。



そんなこんなで重文・岐阜大仏。
こちらは指を丸めて「世の中ゼニやー」と訴えておりますが、阿弥陀様ではなく「釈迦如来」でして、別名を「籠大仏(かごだいぶつ)」という日本一の乾漆仏
(※なお、胎内仏は「薬師如来」で重文)
像高十三.七メートル、細長い目の柔和な顔だけでも、三.六三メートルという巨大さを誇る像なのです。
周囲一.八メートルの大イチョウを柱として、木材をもって骨格を組む。
外部は竹林を編み、そこに粘土をぬり、うるし(漆)・金箔をほどこしたものなんだって。
なお、乾漆造(かんしつぞう)はうるしや麻布を主要材料として用いる、古くからある像法なの。

やっぱり、自称「日本三大大仏」とか言っていました(笑)
以前TV(※タモリ倶楽部)でもやっていましたが、なかなか三番目が定まりませんね。
こうなったら、国民投票でもして決めてはどうでしょうか?


[住所]
岐阜大仏・正法寺 岐阜市大仏町八番地 [058-264-2760]

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※「物部氏」対「藤原氏」の呪術戦争ですか。
 ううーん、いかにもありがち。

高山寺 (京都)

2008年01月03日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都市右京区の「高山寺(こうざんじ)」です。

こちらは…梅ヶ畑栂尾町(うめがはた・とがのおちょう)なんていう、京都の山奥にある古刹なのでした。
ごめんね、いきなり関係ない事なんですが…。
何度か書いていますが、ひでるさん京都にいた時はぐるぐると自転車で回っており、よく後先考えずにお寺の名前とかだいたいの方角だけでぶらりと向かっていたんですね。
そんな適当なんでも、たいていなんかしらのお寺とか歴史スポットに引っかかるので。
(※ほとんど見ないけれど、一応地図は持っていたりする)

で、こちらの「高山寺」
…ずっと「たかやまでら」だと勘違いしていた、というのはとりあえず置いといて、こちらへも自転車でフツーに向かっていたんですよ。
時期は真夏で、すっかーと晴れた炎天下に。
そりゃーもう、現世の地獄みたいでした。

さして体力ないというのに、単なるママチャリで向かったのでへろへろです。
しかも、途中で道を間違っており、聞いたおっちゃんに「こうざんじ」って訂正されたりして(笑)
これもまたいい思い出ですね。

そんな訳で、こちらが世に言う、”ひでる京都四大受難”のひとつ、「考えなしに高山寺」なのでした。
(※ちなみに、このあたりの話は「ひやしあめ」でも紹介しております)
だいたい、こちらは京都駅からバスで約五十分という距離ですからね。
そりゃ半端なもんじゃーありませんよ。

そんなこんなで「高山寺」
歴史は古く、宝亀五年(774)のこと。

「光仁天皇」の勅願によって開創(初めてその寺を開くこと)され、当時は「神願寺都賀尾坊」と言いました。
それから弘仁五年(814)には「栂尾十無尽院(とがのお・じゅうむじんいん)」に改称。
後の天台座主「尊意僧正(そんい・そうじょう)」もこちらの地で修行するなど、一時期は勢力があったようですが、後に衰退。

そして鎌倉時代。
時代の寵児「源頼朝」との戦いに敗れ、戦死した「平重国」を父とする、中興の祖「明恵上人(みょうえ・しょうにん)」
母も既に他界していたため孤児となった「明恵」は、叔父を頼ってご近所の「高尾山神護寺」に入り、仏道修行に努めました。

もともと素質があったのか、やたら頑張ったのか、東大寺や建仁寺でも学んで華厳・真言・律・禅…など、各宗の奥義を習得するのです。
「明恵」はそれら宗派・教義にとらわれることなく「釈迦如来」の教えままに生き、「清純無私な無我の行者」として生涯を貫いたのでした。

そんな「明恵上人」は「後鳥羽上皇」や貴族らの帰依によって、衰退していた「栂尾十無尽院」の堂坊を修復・復興。
さらに、「後鳥羽上皇」より「日出先照高山之寺」の勅願を賜り、寺号を「栂尾山高山寺」に改称したのでした。

仏道実践の霊域として知られることとなった「高山寺」は特に藤原氏一門には氏神である春日明神と並んで保護されました。
室町時代には戦乱によって堂坊の多くを焼失してしまいますが、江戸時代には永弁・秀融上人らによって再興。
平成六年には「世界文化遺産」に登録されるのです。

石水院は鎌倉時代から残る唯一のもので国宝。
もともとは「明恵上人」が「後鳥羽上皇」から学問所として賜った建物で、こちら以外は江戸時代以降のもの。
文化財の宝庫としても知られ、蛙と兎でお馴染み、有名な「鳥獣人物戯画」四巻を所持することでも知られています。
(ちなみに、寺にあるのは模本で、東京国立博物館にあるのが本物)

最後にちょっと楽しい、「明恵上人」の御歌をひとつ。
月がたいそうお好きらしく、それに関係する詩を多く詠み「月の歌人」と称されたんだって。

あかあかやあかあかあかやあかあかや
 あかあかあかやあかあかや月



[住所]
 高山寺 京都市右京区梅ケ畑栂尾町8

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※こんなんありました。
 なにげに塗り絵ってーのは楽しいものですね。
 …その暇があれば。

長寿院・弁才天堂 (滋賀)

2008年01月02日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は滋賀は彦根の日本三大弁財天の一つ、「長寿院・弁才天堂」です。

こないだ「石田三成」さまの「佐和山城」について書きましたが、その間違う切っ掛けとなったのがここ。
大洞弁財天ご参拝の方はこちら
…とか看板に書いてあったので、「まぁせっかくだから見ていこう」ってな具合に行ったのが運のつきでした。
(※その際の受難話はコチラ⇒ 現地レポート編
いい加減、思いつきでふらふら行動するのは控えた方がいいかもしれませんね。
いい大人なんだから。
なお、佐和山城へはこのお寺の裏から行くこともできるんですが、明らかに遠回りとなるので一度引き返したほうがいいです。
いや、本当に。

そんなこんなで、大きな弁天像(※六尺だから約2メートルほど…って、合ってる??)を有する、滋賀の隠れオススメスポット「長寿院・弁財天堂」です。
こちらは彦根藩四代目の「井伊直興」が近江代々の領主の霊を弔い、また領内の安泰を祈願するために創立したお寺なのです。
そんな訳で江戸時代の建物なんですね。

なんと、領民から一文づつの奉加金(ほうがきん:社寺に奉加する金銭のことです)を集め、不足分を自ら、…って藩金なんですが、とにかく補って建立したのでした。
その参加人数は二五九千人(259,000?)という大人数で、近江だけでなく、武蔵・上野といった地域からも寄進されたようなのです。
どういう宣伝活動をしたのだか不明ですが、さっすが大老など要職を排出する家柄が音頭をとっただけのことはありますね。

メインである弁才天堂は元禄八年(1695)から九年もかけられたもので、本堂・石間・礼堂という寺院建築には珍しい権現造(ごんげんづくり)の形式となっているのでした。
権現造ってーのは、平安時代の「北野神社」が最も古く、主に神社での形式だそうです。
有名なところでは「東照宮」でして、どうやらそちらを真似たもののようです。
(※藩主「井伊直興」は日光の普請奉行だったの)
「彦根日光」との別名もその裏づけでしょう。

内外に彫刻をし、漆塗りや極彩色を施すなど、豊かな元禄時代の様式・手法が表れております。
六尺の弁天像を中央に、脇侍十五童子を配した様は「荘厳雄大さは例がなく」という感じだったそうです。
…ちょっと大げさかなー。
でも、巨大な弁財天像は格子扉の向こうでしたが圧巻でしたよ。ええ。

また、諸国霊社二百八十一箇所の土砂を収集して埋めていることから、”一度こちらへ参拝すれば、西国秩父阪東の巡礼をしたと同じ”という由来があるとされていたそうなのです。
うふふふ(笑)


[関連記事]
⇒ 佐和山城址(滋賀) 基本知識編 現地レポート編
⇒ お寺と神社
⇒ 三猿について (日光東照宮) (庚申信仰)

[住所]
 長寿院・弁才天堂 滋賀県彦根市古沢町1139

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※そんな訳で弁天つながりのこちら。
 正統派チャンバラ劇はいかがでしょう?


金戒光明寺 (京都)

2007年12月28日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都市左京区の「金戒光明寺」です。
最近はどのお寺が紹介していて、どこがしていないのか、よくわかんなくなってきました(笑)
こちら「金戒光明寺」はまだやっていなかった…と思いますが。やってないよね?

なんだか格好いい名前ですね、「金戒光明寺(きんかいこうみょうじ)」って。
(※おもろいので残しましたが↑その読みは間違い。本当は「こんかい・こうみょうじ」が正解なの。てへ☆ ⇒ご指摘頂きました京都暗記帖さま、毎度助かります!さすが!!)
漢字六文字がしっくりくるのでしょうか。
こちらはあの「知恩院」と並ぶ格式で、浄土宗の大本山なのでした。
大本山シリーズです(そんなんない)

大本山って聞くと大層凄いイメージがあるかもしれませんが、実は総本山のが寺格は上で、大本山のが下
所属している末寺を統轄するお寺なんだそうな。
ちなみに、浄土宗の総本山は「知恩院」です。

こちらは浄土真宗七高僧の一人、「円光大師」こと「法然上人」がはじめて草庵を営んだ地に建てられたというお寺です。

十五歳で比叡山へ登った「法然上人」
承安五年(1175)
四十三歳で修行を終え、教えを広めるために下山した「法然上人」はこの地にて念仏をしました。
…すると、紫雲全山にみなぎり、光明があたりを照らした…ことから、このお寺が生まれたんだとかなんとか。
あはははははは、まぁ冗談は置いといて。
実際には「法然上人」の草庵程度だったところが次第にお寺っぽくなっていった、ということだと思います。

本尊はパンフレット表紙を飾るふくよかな阿弥陀様。
こちらは浄土真宗七高僧の一人、恵心僧都(源信)の最終の作であります。
そうすると平安時代末期頃の作なのかな。
お腹に彫刻の器具が納めてあることから、「ノミおさめの如来」とも呼ばれているのです。
そんな阿弥陀様がおられる阿弥陀堂は慶長十年(1605)「豊臣秀頼」によって再建されたもので、こちらが現存する建物で最も古いものとなっております。

開祖「法然上人」がおられる御影堂には七十五歳での坐像が安置されています。
ここは火災に遭い、現在のものは昭和の再建なんだって。
なお、こちらは明治維新の際には京都守護職の会津藩と新撰組の屯所が置かれていました。
そんな訳で「新撰組発祥の地」とか名乗っていました。
読みづらいと評判の「松平容保(まつだいら・かたもり)」さまはここで近藤・芹沢らに拝謁したのかもしれませんね。

注目すべきはパンフレット。
見開きがイメージ映像みたいで、大変格好いいものに仕上がっております
これからパンフ作成を考えているお寺の方は参考にしてみるのが良いでしょう。

池の水 人の心に 似たりけり
濁り澄むこと 定めなければ
智者のふるまいをせずして
ただ一向に念佛すべし
                    (※パンフレットより)
                    
そんな文字と共に夕暮れに浮かぶ「金戒光明寺」と阿弥陀様の写真があり、中には春夏秋冬な写真と各所の説明。
裏の地図やアクセスも詳細で、イイ雰囲気でした。


[関連記事]
⇒ 知恩院 (京都)
⇒ 阿弥陀如来 鎌倉大仏 (胎内参拝) 
  五劫思惟阿弥陀如来 みかえり阿弥陀如来 うなずき阿弥陀

[住所]
 金戒光明寺 京都市左京区黒谷町121


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※いまだファンの多い「松平容保」さまと「新撰組」です。
 光栄のシミュレーション「維新の嵐」ではどちらもプレイヤーキャラでしたねぇ…。

瑞鳳寺 (宮城県仙台市)

2007年12月24日 | お寺
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本日はぞろりと北へ北へ…宮城県仙台市は「瑞鳳寺」です。

観光関連では、やっぱり「伊達政宗」一色な仙台。
仙台駅周辺の観光施設は”政宗騎馬像”が有名な青葉城址以外、正直さしたるものがないんですね。
あとは政宗くんが墓所と定めた瑞鳳殿(ずいほうでん)、そこへ向かう坂の途中にある一刻館…ではなく「瑞鳳寺」くらいかなー、ってな訳でこちら。
正確には「正宗山瑞鳳寺」です。

こちらは寛永十四年(1637)、仙台藩初代当主であります「伊達政宗」の菩提寺として、二代「伊達忠宗」によって創建されました。

この方「伊達忠宗」は実際には次男なんですが、正妻「愛姫(陽徳院)」の子でありまして、家督を相続することとなったのです。
(※そんな訳で嫡男、猫御前の子「秀宗」は粛清されたりはしませんでしたが、色々大変だった様子)
そんなこんなで、代々伊達家の菩提寺となった御一門格のお寺なのでした。
こちらは臨済宗は妙心寺派の寺院です。

本尊である「釈迦如来」、「文殊菩薩」、「普賢菩薩」の三体は平泉「毛越寺(もうつうじ)」より移したもの。
ちなみに、「毛越寺」ってーのは、「慈覚大師(じかくだいし)」こと「円仁」さまが嘉祥三年(850)に開山したとされる、大変に由緒あるお寺でした。
なんと、国の特別史跡・特別名勝というそれぞれからの指定を受けているんだって。

さて、こちら「瑞鳳寺」は…「伊達忠宗」の寄進である梵鐘が県指定の文化財。
山門は東京伊達屋敷の門を模したもの。
その境内には多数の草木があちこちやたらめったらに植えられており、にわかジャングル状態なの(本当)


※ほらほら、こんなんですよ。

本堂前の冠木門は三代「綱宗」側室椙原お品邸にあったもので、俗に高尾門と呼ばれるもの。
愛人宅の門を菩提寺へ持ち込んだってことなようです。
いやねぇ。
なんか気に入ったんでしょうか?

ほか、政宗が好んだ生け花やお茶にちなんで、本源流の奥義を示す組み方である花塚、茶室・瑞新軒なんてものがあります。

もうひとつ、このお寺での注目は、三代「綱宗」の品川屋敷にて池の飾り物であった「浦島太郎と乙姫様」像。
こんなんなかなかないでしょう?

さらには、歌舞伎仙台萩の一場面を模した「亀千代毒殺計画」像などがありまして、仏像ではないんですが立体像好きなひでるも満足な内容でした。
ついでに立ち寄ってみてはいかがでしょうか。


住所]
瑞鳳寺 宮城県仙台市青葉区霊屋下23-5

[関連記事] 
⇒ 奥州の覇者…その礎「伊達輝宗」 <前編> <後編>
⇒ 水琴窟 (京都・妙心寺退蔵院、正法寺)
⇒ 大雄院 (京都・妙心寺派)
⇒ 妙心寺・退蔵院 (京都)

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※坂の途中に…ってのはこちらのネタでした。
 原作漫画のが好きなんですが。


仁和寺 (京都)

2007年12月24日 | お寺
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本日は京都は右京区の「仁和寺」です。
真言宗御室派の総本山であるので、総本山シリーズ(そんなんない)ですよ。

こちらは世界遺産なんですが、そんなお寺をほっといて以前「そうめん」とかどーでもイイもの紹介してましたね。
はちゃめちゃです。

ひでるさん、京都へ行って最初に訪ねたのは「広隆寺」なんですが、その流れで自転車走らせ、最終的にたどり着いたのがココ「仁和寺」なのでした。
懐かしいなー。
また行きたいなー。
住みたいなー。
…と、そんな訳で再び京都への転勤を密かに願っているひでるさんです。

さて今回は「仁和寺」のお話です。
平安時代のこと。
こちらは「西山御願寺」として、五十八代「光孝天皇」の勅願によって着工されます。
がしかし、完成を見ぬまま天皇は死去してしまい、その意思を継いだ「宇多天皇」によってついに完成したのでした。
当時の年号そのまま、「仁和寺」と名付けられたようです。
(※なお、完成は仁和四年(888)のフィーバー年。きゃー!!)

正式名称は「大内山仁和寺」です。
「宇多天皇」は完成したこちらがたいそう気に入ったらしく、退位後に出家するとお住まいを「仁和寺」としたのでした。
西南に「御室(おむろ)」という僧坊を建て、そちらに三十年もの間生活していた様子。
生活、ってたって真言密教の修行してたんですけどね。いちおう。

それ以後も天皇皇族の庇護を受け、なんと明治維新にいたる長きにわたり、皇子・皇孫が歴代の門跡となっていくのでした。
別名「御室御所」ってのは、そんな理由なんですね。

広大な境内と多くの伽藍を有してブイブイ言わせていたこちら「仁和寺」ですが、やっぱり応仁の乱で焼失。
一時期は双ヶ岡西麓に仮御所を設けていたという時期もあったそうです。
なお、現在の建物は江戸時代、寛永年間に「徳川家光」の協力を得て再興されたものなのでした。

金堂は京都御所の紫宸殿を移転したもの。
これは国宝、そりゃそうでしょう。
本尊は「阿弥陀如来」です。
ほか、仁王門や五重塔なども、江戸時代で重文。
春・夏に公開されている霊宝館には数多くの国宝・重文がずらりと並び、もともとの本尊らしい「阿弥陀三尊像」は平安時代初期頃のもので非常にやさしーいお顔ですよん。

あとね、こちらのパンフレットはいい具合にはっちゃけており、まるでどこぞの雑誌記事みたいでした。
カラーも鮮やかで、なかなかいい感じ。

中門西側には「御室の桜」と呼ばれる里桜がありまして、名所として知られています。
好きな方はその頃にどうぞ。
ちなみに、ひでるさんが行ったのは八月の真夏(笑)


[関連記事]
⇒ 広隆寺 (京都)
⇒ 国宝・弥勒菩薩半跏思惟像 (京都・広隆寺)
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     
⇒ 阿弥陀如来 鎌倉大仏 (胎内参拝) 
  五劫思惟阿弥陀如来 みかえり阿弥陀如来 うなずき阿弥陀

[住所]
 仁和寺 京都市右京区御室大内33

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※さすがに世界遺産なお寺です!
 パズルなんてのがありましたよ。


勝持寺 (京都)

2007年12月23日 | お寺
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本日は京都西京区は「勝持寺(しょうじじ)」です。

こちらは…通称の”花の寺”ってーのが有名ですよね。
ひでるさんはとっくに紹介したと思っていたんですが、まだやってなかったみたい。
みたい、って、自分のブログなんですが(笑)

こちら「勝持寺」は西行桜をはじめとした数種類・約百種類の桜、また同数のもみじが植えられた四季に美しいお寺なのです。
(※ちなみに、ネット調べてたら五百本の桜と書いてあるサイトもありました。が、パンフは百本だって。どっちが本当??)
こちらで出家した「西行法師」が桜を植えたのが発端であるようです。

ひでるさんに花の寺っていう印象が薄いのはもともと植物に疎いのもあるんですけれど、こちらへ訪れたのがなんと十一月だったんですね。
さむいさむい。
そりゃー花の印象なくて当然ですわ。

確か宝物館とかもゆっくり拝観できたんですが、そのためですかね。
そんなこんなで、ゆっくり眺めたい方はシーズンオフにどうぞ。

小塩山大原院勝持寺、ってのが正式名称。
なんと、白鳳時代から続く名古刹なのです。

白鳳八年(680)
「天武天皇」の命令によって「役小角」が創建したのがはじまりです。
その後、延暦十年(791)には伝教大師こと「最澄」さまが「桓武天皇」の命を受けて、衰退していたこちらの堂塔伽藍を再建したのでした。
本尊である重文「薬師如来」も「最澄」さまがその際に刻んだもののようです。
時期からすると、胎内仏である小さいのがソレなんですかね。
現在の薬壺をつまむような大変珍しいお姿の「薬師如来」は鎌倉時代の作であるようなので。

なお、当初は「大原寺(だいげんじ)」と呼ばれていたようですが、仁寿年間に「文徳天皇」の帰依を得た「仏陀上人」が伽藍を建立し、寺号を「勝持寺」と改めたんだって。
読みづらいですね。…ごめんね、固有名詞ばかりで。

さて、塔頭四十九院まで建立され大寺院となっていた「勝持寺」ですが、やっぱり・しっかり「応仁の乱」によってことごとく焼失。
どうにか残った仁王門以外は乱が収まった後に再建されたと言いますから、他は室町時代後期から江戸時代頃のものなのかな。

でね、ここのパンフ。
説明に「神変大菩薩役の行者」、って書いてあるんですが、誰のことかなーって思いましたがそのまま「役小角」でいいんですね。
「最澄」さまのこともまったく説明ないまま伝教大師としか書いてないですし。
どーでもいいですが、パンフレット分かりづらいです。
専門書じゃーないんだから。


[関連記事]
⇒ 願徳寺 (京都)
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     
⇒ 薬師如来 蛸薬師
⇒ 修験道の開祖 「役小角」 () 

[住所]
 勝持寺 京都市西京区大原野南春日町1194


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※そんな訳で「花の寺」です。
 女性の方にはこんなんで調べるのがいいかもしれませんね。

早雲寺 (神奈川・箱根)

2007年12月22日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は箱根へ行ったら是非御参りしてほしい歴史スポット。
北条家の菩提寺「早雲寺」です。

まぁ、箱根行って、このお寺へわざわざ行くのは北条ファンクラブなひでるさんくらいなもんでしょうねぇ…。
いつだかも書きましたが、大河ドラマにもならない北条家の知名度って驚くくらいに低いですよね。
誰だかに「関東は上杉謙信の領土だったっけ?」とか言われて、失神しそうになりました。
世間一般では、あるいは「豊臣秀吉」の大軍に囲まれて滅亡した、って程度のイメージしかないのでしょう。
ああ、悲しいなぁ。

こちらは大永元年(1521)
ちょうど「武田晴信」が生まれた年であります。
戦国時代初期ですね。
関東へふらりと現れ、素浪人から伊豆、そして相模をも従えた梟雄「北条早雲」の遺命により、その嫡男「北条氏綱」によって建立されました。

開山は大徳寺八十三世の「以天宗清」
正式名称は「金湯山早雲寺(きんとうさん・そううんじ)」と言うんだって。
ちなみに、早雲が死去したのが永正十六年(1519)でしたから、三年後に完成したようなのです。

以後より、小田原北条家の菩提寺となってその庇護を受けたこちらは北条家の勢力拡大と共に成長。
最盛期にはなんと湯本全体が境内であったらしく、関東随一の大寺院として栄えたのでした。

しかし、「織田信長」の後を継いだ「豊臣秀吉」が急速に天下統一へ向けて力をつけた時流を読みきれず、その最後を飾るパフォーマンスの相手に選ばれてしまうのでした。
その「小田原合戦」にてこの「早雲寺」は焼失してしまうんですが、約四十年後の寛永四年(1627)に再興され、現在に到るのです。
現在の本堂はその頃に建立されたものなんだって。

こちらには北条五代の墓や、「北条幻庵」の作と伝えられる枯山水石庭。
さらには早雲や氏康の画像など、北条家が所持していた多数の文化財を所持しているのです。
…が、残念ながら一般公開はされておらず、石庭はちらりと見えるんですが他はまったくの非公開。
そんな訳で本堂におられるらしい、室町時代作の「釈迦三尊像」など仏像もちらりとも見れませんでした。
けちー。



ちなみに、箱根湯本駅からこちらへ行く山道の途中から、犬が先導してくれました。
さささーっと追い抜いて、立ち止まっては振り返るのよ。
(※上はその写真。頑張っているところを撮らせて頂きました。飼い犬っぽいんですが…)
どこまでかなー、と思っていたら、結局「早雲寺」までずっとそんな状態だったんですね。
これ、嘘でも冗談でもなく本当のことなんですが。
…なにか縁があるんでしょうかね?


[住所]
 早雲寺 神奈川県足柄下郡箱根町湯本405

[関連記事]
⇒ 北条早雲 <前編> <後編>
⇒ 隠れた名将「北条氏照」 [  
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「河越城夜戦」 [  ]
⇒ 箱根石仏群① (石仏・応用編2)
⇒ 箱根石仏群② (石仏・応用編3)
⇒ 箱根石仏群・記念館 (箱根)
⇒ 大天狗像 大雄山最乗寺 (神奈川)

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※そんなこんなで、観光地としては成功している箱根湯本。
 できれば…早雲寺も訪ねてあげて下さいね。

僧侶と官位・階級 (ひでる仏教講座)

2007年12月21日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は誰もが気になる(かもしれない)僧侶の階級について、ちょろっと見知ったので軽くさらりとごく簡単に。
長くならぬよう気をつけております。

なお、毎度のことながら、ひでるの怪しげな理解から文を起こしていますから、微妙なところもあるかもしれません。
ちょっと注意。
そんな訳で、今回は「ひでる仏教講座・僧侶と官位」についてお送り致します。
まぁ、こういったものが分かると、より仏教世界が見えてくると思われますんで、お付き合い下さいませー。
(※写真は清涼寺・法然上人です)

律令体制な頃では、僧侶の官位も国家から授けられておりました。
その代表的なものが「僧綱」「有職」と言い、全国の僧侶を統括・指導する立場であったのです。
それら以外の僧は「凡僧(ぼんそう)」と言うんだって。
…なんかこの名前いやーねぇ。
もっといい名称はなかったんでしょうか(笑)

□僧綱(そうごう)
「綱」はそのまま束ねる、という意味。
僧侶を管理・教育する役が与えられており、最も高い権威でありました。
こちらの「僧綱」のトップが「僧正(そうじょう)」、次が「僧都(そうず)」、その下が「律師(りつし)」で、これら合わせて「三官」というのでした。
ドラクエでもお馴染み、最もよく聞くであろう「僧正」は僧を束ねる長官という多大な権力を有し、さらに「大僧正」、「僧正」、「権僧正」に分かれていたのです。

□有職(うしき)
僧綱に継ぐ職。
「已講(いこう)」、「内供(ないぐ)」、「阿闍梨(あじゃり)」という三官のことを言います。
「阿闍梨」って言葉は漫画「孔雀王」を読んだ方にはお馴染みでしょう。
…なんか響きがいいんですよね。
密教秘法伝授の師という意味で用いられており、元来は梵語。
だいたい教授とか規範師という訳であるようでした。
また、これには種別がいくつかあり、七つの特別に選ばれた山寺にいる「七高山阿闍梨(しちこうざん・あじゃり)」、天台・真言の大法を伝授する「伝法阿闍梨(でんぽう・あじゃり)」などがあります。

さて、それら「僧綱」「有職」などは「官名」でして、別に僧の位を示す「僧位」というのが定められています。
最も高いのが「法印(ほういん)」こと「法印大和尚位(ほういん・だいおしょうい)」、次が「法眼(ほうがん)」こと「法眼和尚位(ほうがん・だいおしょうい)」、「法橋(ほうきょう)」こと「法橋上人位(ほうきょう・しょうにんい)」、「伝燈大法師位(でんとうだいほっしい)」、「伝燈満位(でんとうまんい)」と続くのです。

…読むの面倒でしょう?
同じくらい書くのも面倒でしたが(笑)
なお、先に述べた「僧綱」は「法印」、「法眼」、「法橋」の誰かが就任するのですよ。

◇座主(ざす)
よく耳にするのではないでしょうか。
本当は学識の高い僧のことでしたが、いつしか僧官となっておりました。
天台宗では延暦寺のトップを「天台座主」、「山の座主」、あるいは「貫主(かんず)」と言います。

◇長者(ちょうじゃ)
わらしべ、みたいな裕福イメージありますね。
こちらは東寺のトップのことです。
「一の長者」から「四の長者」まであるんだって。

◇別当(べっとう)
検非違使の長官もそんな名前でしたが、仏教では「東大寺」、「興福寺」、「仁和寺」という古刹寺院のトップを指します。

◇(ちょうり)
お料理つくりましょう!ではなくて。
こちらは「三井寺」、「勧修寺」のトップのことです。

◇大師(だいし)
「空海」は「弘法大師」、「最澄」は「伝教大師」、「円仁」は「慈覚大師」、「鑑真」は「過海大師」、「法然」は「円光大師」、「特撮」では「マグマ大使」、「リーフ」は「九品仏大志」…。
例によって最後の方は嘘(笑)
これらは死後に天皇から贈られる諡号(しごう)のことです。
他には「菩薩」ってのもあり、「行基」は「行基菩薩」、「役小角」は「神変大菩薩」という諡号が贈られているのです。

◇優婆塞(うばそく)
国家公認の僧ではなく、俗人のまま山林・仏門などで熱心に修行する者の総称。
ちなみに、「優婆夷(うばい)」だと女性を指すのです。


[関連記事] 【神社・日本の神さま・など特集】
⇒ お寺と神社
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※なんなんでしょう?
 とりあえず戦国時代では、①しっかり勉強できる場所、②出世の糸口、③次男とかの処分先、ですか。


二尊院 (京都)

2007年12月18日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都は嵯峨野の「二尊院」です。

TV見仏記1での「みうらじゅん」さんの言葉、
こっそりもう一尊置いておくと”三尊院”
…がひでるさんの頭から離れない「二尊院」です。
あの付近はひでるの住まいから自転車でさほど遠くないことと、見物できるお寺が集中していたこともあって、何度か足を運んでおりました。
こちら「二尊院」へも三回くらい行ったと思います。

こちらは名前そのまま、釈迦・阿弥陀の二尊を祀ることから「二尊院」と呼ばれております。
前述したように、もしもう一尊あったなら名前「三尊院」だったかもしれませんね(笑)
正式には「小倉山二尊教院華台寺(おぐらやま・にそんきょういん・けだいじ)」という天台宗なお寺です。

承和年間(834~847) 平安時代。
…結構アバウトですが、だいたいその頃らしいの。
開山は同僚に「空海」や「最澄」のいる”入唐八家”の一角、「慈覚大師」こと「円仁」でした。
「嵯峨天皇」の勅願によって建立されるのです。

唐は「善導大師」が広め、日本まで伝わってきた思想。
人が誕生し人生の旅路に出発するときに送り出してくださる「釈迦如来」
こちらは、「発遣(ほっけん)の釈迦」と言います。
そして、その人が寿命をまっとうしたときに極楽浄土から迎えてくれる「阿弥陀如来」
こちらは「来迎の阿弥陀」と言うのです。
それら、人の一生に立ち会ってくれる二尊を祀っているんですね。
二人というのにもちゃんと意味があるのです。
単に弥勒くんが無視されたとか、製作の金がなかったとか、そんなんではないのですよ。(当たり前か)
こちらの二尊は共に鎌倉時代のもので、重文です。

明治維新まで天皇の名代として勅使参詣があり、また公家との交流も盛んだったこちら。
(※二条家、三条家、三条西家、四条家、鷹司家…などの菩提寺です。境内には墓地があったりします)
天皇家から公家まで親しまれたお寺ですが、やっぱり「応仁の乱」によって諸堂が全焼。
現在の本堂、門はそれから三十年後になってようやく再興されたものなのでした。

なお、こちらの総門は伏見城の「薬医門(やくいもん)」を移築したもので、戦国時代に活躍した豪商「角倉了以(すみのくらりょうい)」によるもの。
その参道は「紅葉の馬場」と言われる紅葉の名所らしく…秋に行ったらえらい人だかりでした。
当初の真夏に行った際にはがらーんとしてゆっくり見れたんですけどねぇ。
そんな訳で、行くならあえて真夏をチョイスするのがオススメ(笑)


[関連記事] 【如来のいろいろ】 
⇒ 如来 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 仏の三十二相(お父さんのための仏像講座) 前編1-16 後編17-32
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※やっぱり赤ってーのはいいですね。
 三倍速度が出そうですし、リーダーっぽいですし(笑)


豊臣秀勝公菩提寺・妙法寺 (滋賀)

2007年12月16日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はお寺というより歴史っぽい話なのでした。
滋賀は「妙法寺」をご紹介致します。

こないだ滋賀へ行った時のこと。
長浜城へと急ぐひでるさんはある看板に目を奪われました。
豊臣秀勝公菩提寺
どうですか?
ちょっと見逃せない文字ですよね。
こりゃー大変だ、ということで早速そちらの方向へ行ってみることとしたのでした。

ひでるさんはこのブログで、「豊臣秀吉」の一族について何回かふれております。
秀吉が異常な出世をしたことによって、身内でも分不相応な出世をするものが続出。
それによって不幸になった者は多く、またやったら短命な方も多いので興味を引かれるんですね。
…そんなんが短期政権で終わった最大の要因だと思うのですよ。
(※関連記事 ⇒ 「特別おまけ 豊臣一族」参照のこと)

さて、歴史上では三名の羽柴(豊臣)家に関連した「秀勝」くんがおります。
最も長命だった養子「秀勝」は自害させられた「豊臣秀次」の弟で、朝鮮出兵中に病死。
もう一人、おそらく最も有名な養子「秀勝」は「織田信長」の四男でしたが、これも若いうち病死。
なにゆえ、こうして同じ名前が二人もいるのか?
それは…秀吉の夭折した実子につけた名前こそが「秀勝」だったからなのでした!!

…びっくりした?しない?
あぁ、そうですか。

秀吉の嫡男は晩年に誕生した淀さまとの子「鶴松」とされております。
しかし、長浜城主時代には側室に生ませた実子がいたようなのです。
(※これがねねさんの子であれば、しっかり歴史に刻まれていたかもしれませんが…残念ながら違うみたいなの)

さて、その「秀勝」さまの菩提寺とされるのがここ「妙法寺」
こちらは後の太閤、当時は「羽柴秀吉」の命により、浅井氏の本拠・小谷城城下よりわざわざ移転させた寺院なのです。

天正四年(1576)
有名な事件では、武田騎馬軍が敗れた「長篠合戦」がその前年のことです。
秀吉の長男「羽柴秀勝」が亡くなった際、こちらの「妙法寺」へ葬られたのでした。
いくつか、それを裏付ける資料が残っているのです。

まず、この寺には「羽柴秀勝」と言われる童子像が伝来しておりました。(※昭和二十七年に残念ながら焼失)
また、平成十四年に境内の本堂前へ移転された、鞘堂(さやどう)には墓石が安置されていました。この墓石は彩色をほどこされた「題目式笠塔婆(だいもくしき・かさとうば)」というものでした。
(※上が笠になった墓石。色々ほどこされたのは偉い人の証拠)
また、移転後に墓地の学術調査をしたところ、後方ニ・五メートル南にて塚墓が発見されておりました。
これは形状などから、”戦国時代の大名一族の墓である”と判明したのです。

こうした結果から、「羽柴秀吉」の長浜時代には子供が実在したであろうことが確認されたのです。
…いたんですよ、おそらく。


[関連記事] 【豊臣政権セット】
⇒ 意外と知らない信長死後 「清洲会議」 [    
⇒ ねねさん 高台寺(京都)
⇒ 奮戦・前田利家「末森城合戦」 前編 後編
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⇒ 秀次切腹と石田三成 [
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⇒ 二大英雄の子「結城秀康」 [   
⇒ 豊臣秀頼公首塚 清涼寺(京都)
⇒ 真田昌幸 (長野・上田城)
⇒ 名人と呼ばれた武将「堀秀政」


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※そういえば中津賢也センセが「信長は単なる大うつけで、秀吉は本当の猿だった」と書かれてました。
 もちろん冗談なんですが、けっこう楽しい説でしたよ。

薬師寺 (奈良)

2007年12月16日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
あまり知られていない、どちらかというとマニアック寺院を紹介することが多いこのブログ。
ただ、本日は違いますよ!!
日本だけでなく、世界にその名を轟かせる(ような気がする)超有名寺院、ひでるさんも住みたい奈良は「薬師寺」です!!
ユネスコですよ、世界遺産ですよ!
わー、かっこいいー!

さて、とりあえずは落ち着いて。
発端はまだ年号のないむかーしむかしの680年。
歴史で習ったであろう「天武天皇」がその后にして「天智天皇」の娘「持統天皇(女帝)」の病気治癒を祈願して創建。
飛鳥の地に、立派な堂宇が完成するのでした。
さっすが天皇さま、奥さまの病気治癒のためだけにいきなりお寺建てちゃうんですから、スケールが段違い平行棒です。

その後、和銅三年(710)の平城遷都に伴って、平城京の六条大路に面した現在の地へと移ったのです。
移動・造営にはだいたい十年以上の年月をかけており、やたらな事業規模の大きさが伺えます。

当時は南都七大寺(なんと・ななだいじ)の一つとして、”巨大な伽藍を誇る国内第一の壮美さ”でありました。
特に金堂や東西の両塔は白壁に唐風な建築様式の「竜宮造り」を採用しており、ちょっと異なる風情で人々の目を奪ったとかなんとか。
「 燈火がなくとも金色に光り輝いていた 」
…とまで伝えられております。
実物とか、写真を見た方であれば想像つくと思いますが、確かに素敵なんですよ、これが。ええ。

ちなみに、飛鳥にあった元々の「薬師寺」も完全に無くすことはせず、しばらくはそのままであったようです。
現在は礎石が残る程度なようですが、奈良県橿原市城殿町には特別史跡として残っております。
こちらに興味ある方は「本薬師寺跡」で探してみて下さいね。

年を重ねる間に多くの災害を受けた「薬師寺」
特に戦国時代へ突入しようかという享禄元年(1528)、兵火を受けた「薬師寺」はここでほとんどの建物が灰塵に帰し、奈良時代から残るのはわずか東塔のみとなってしまうのでした。
おそらく、守護・畠山氏の内乱と、それに乗じた興福寺兵力の中心・筒井氏の抗争、あるいは大和一揆によるものであるようです。
戦争って嫌ですね。

そんな訳で、一時期は栄華を誇った「薬師寺」ですが、昭和四十二年に「高田好胤管主(たかだこういん・かんず)」による復興があるまでは江戸時代に再建された金堂など、こぢんまりとした風情であったようなのでした。

関連記事]
⇒ 興福寺 (奈良)
⇒ 唐招提寺 (奈良)
⇒ 秋篠寺 (奈良)
⇒ 華頂山 元慶寺 (京都・山科)

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※相変わらず垣野内センセの絵は素敵ですね…って、これは薬師寺違いじゃーん!
 ひでるさんは美夕のが好きなんですが、こんなネタはブログ違いですね。

中禅寺 (栃木県・日光市)

2007年12月15日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は日光の中禅寺湖畔、歌ヶ浜にある「中禅寺」です。

日光への旅行を計画されている皆さま。
ややこしく、だだっ広い東照宮・周辺寺院もいいですが、どうせなら巨大な「立木観音」がおられる、こちらへ立ち寄ってはいかがでしょうか?

こちら、本当は「日光山中禅寺(にっこうさん・ちゅうぜんじ)」と言います。
世界遺産に登録された「日光山輪王寺」の別院でして、坂東三十三観音霊場の第十八番です。

むかーし、むかし、その昔。
奈良時代頃のこと。
下野国(栃木県)に生まれた「勝道上人(しょうどう・しょうにん)」は若い頃より当時流行の山岳修行などをやっておりました。
延暦元年(782)
未開の地であった「男体山(なんたいさん)」への道を志した「勝道上人」は”困難な山頂へ到達することこそが悟り”と考え、入山。
何度かのチャレンジで見事男体山頂を極めると、ここに、「四本龍寺(※現在の輪王寺)」を建立するのでした。
…苦行じゃ悟れないって釈迦は言っているのに、ご苦労様なことです。

続く三年には「二荒山神社」の神宮寺として、男体山近くに別院「日光山中禅寺」が建立されました。
これらが日光繁栄の基礎となるのです。
ちなみに、この神宮寺ってーのは、神社を運営していた寺院のことでして、まさに神仏習合思想が影響したものであるようです。



そんな訳で昔から修験の地として知られ、大造営なども行われて信仰された「中禅寺」ですが、明治の津波によって崩壊。
現在の中禅寺湖畔、歌ヶ浜に移されるのでした。

よく名が知られる本尊「立木観音」が有名なんですが、こちらはもったいぶって、次回の説明とさせて頂きます。

他にも五大明王が安置された「五大明王堂」や「波之利大黒天」などの仏像があり、なかなか盛りだくさんな内容。
さらには松竹映画「愛染かつら」のロケ地となった「愛染明王」がおられる愛染堂があり、縁結びにご利益があるんだそうです。
こちらへ行ったひでるさんに縁あれば本当かもしれませんね。
とりあえず…「みずはちゃわん」(※雨の女神「弥都波能売神(みづはのめ・のかみ))としか縁結ばれていませんが?


[関連記事] 【明王のいろいろ】
⇒ 五大明王 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 不動明王 (由来 容貌 信仰
⇒  不動明王坐像 (東京・金剛寺)
⇒ 降三世明王
⇒ 大威徳明王
⇒ 金剛夜叉明王
⇒ 軍荼利明王
⇒ 太元帥明王 (前編 後編
⇒ 孔雀明王
⇒ 愛染明王
⇒ 四天王編 (お父さんのための仏像講座)

[住所]
 日光山中禅寺 栃木県日光市中禅寺歌ヶ浜

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※そんな訳でキーワードにひっかかったコチラを。
 ところで「愛染かつら」って…どんな話?


東林寺 (伊東)

2007年12月15日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は伊東七福神の一角、布袋様を有する「東林寺」です。
正式名称は「稲荷山東林寺」なのでした。

開山は「伊東祐親(※)」です。
もともとは八百年前、十二世紀中ごろに開創された「真言宗・久遠寺」だったとか。
ともかく、祐親が子「河津三郎祐泰」の菩提を弔うため、自ら仏門に入り建立したのが起こり。
(※日本三大仇討ちの一つ「曾我兄弟の仇討ち」の曾我兄弟・父です)
寺名は祐親の法名「東林院殿寂心入道」にちなんで「東林寺」と名づけられるのでした。
ちなみに、切っ掛けとなった「河津三郎」は強力無双ということで奥野の相撲で活躍し、相撲四十八手の一つ「かわづがけ」の語源となった人です。


さて、頼朝が蜂起して時代が源氏方へ動こうとする中、「富士川合戦」にて捕縛されてしまったた祐親は「源頼朝」より助命を受けますが、それを恥として自害を選ぶのです。
以後より、「東林寺」は代々伊東家の菩提寺となるのでした。
本堂内部の一角は伊東家のための区画であり、伊東一族の位牌が安置されています。
ほか、「伊東祐親」・「千鶴丸」の木像があり、「河津三郎」の墓や三十三観音の石仏があったりします。
ちなみに「伊東祐親」の墓も指定文化財となって、付近の丘にあるのでした。

※伊東祐親(いとう・すけちか)
平安時代の武将。
藤原家の流れである伊豆の豪族伊東家の嫡男でした。
「平清盛」からの信頼厚かった祐親は伊豆に配流となり、「源頼朝」の監視を任されます。
しかし、なんと娘の「八重姫」が頼朝と通じて「千鶴丸」ができてしまうんですね。
さっすが源家の御曹司、手が早いです。
時はまだ平家な世でしたから、父「伊東祐親」はたいそう仰天し、子「千鶴丸」を殺害した後に「源頼朝」の暗殺狙ったりしています。
…これは、事前察知した頼朝がうまいこと逃げて失敗してしまうのです。運と勘のいい人ですね。
頼朝旗揚げの「石橋山合戦」に参加して頼朝を圧倒しますが、後の「富士川合戦」で捕縛され、自害。


[関連記事]
⇒ 石橋山古戦場・与一塚 (神奈川)

[住所]
 東林寺 伊東市馬場町2-2

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※最近は八百長とかなんとか言われて、気の毒な国技・相撲です。
 最近はすっっかり結果気にならなくなってしまいましたが…昔はちょこちょこ見てたんですよ。