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お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

大雲院 (京都)

2007年12月14日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都は東山区の「大雲院」です。

ひでるさんの不確かな記憶では…自転車でえっちらおっちら坂を上った先にあったんですが、なんだか入れませんでした。
その↓写真は「なんだよー」と思って覗いたらお釈迦様が寝てらした(※涅槃像ですね)ので、写真を撮ってみたのです。
調べてみたら、通常は非公開なお寺でした。しかし、特別公開はあるようです。
あるいは、事前に申し込めば見られるのかもしれません。…なんかね、どちらかのサイトにそう書いてありました(笑)
本当かどうか確かめてはいないので、一応↓電話してみてね。
ひでるさんの言葉を鵜呑みにすると、きっと後悔しますよぉー。

そんな訳で実際中は見ていないですが「大雲院」です。
「龍池山大雲院(りゅうちざん・だいうんいん)」が正式名称。

天正十五年(1587)
信長の後継者たる地位を確保した「豊臣秀吉」が九州へ兵を進めている頃のこと。
こちらは「本能寺」で横死した「織田信長・信忠」親子の菩提を弔うため建立されました。
「正親町天皇」の勅命により、「御池御所」(※烏丸二条南)を賜った貞安(ていあん)上人が開山です。
なお、寺名は嫡男「織田信忠」の法名「大雲院仙巌」に因んだもので、山号は封建の地に由来しているのでした。
この「貞安上人」は法華宗と浄土宗との間で争われた安土宗論(あづちしゅうろん)にも加わっていたようなので、その縁からのご指名だったのかもしれませんね。

天正十八年(1590)
それから三年後。
この頃には小田原・北条氏を降伏させており、ほぼ天下統一となっておりました。
(※太閤になるのは次の年)
「豊臣秀吉」は都市計画とより広い寺域確保を目的とし、「大雲院」は寺町四条南に移されてしまうのです。
しかし「後陽成天皇」にも保護された「大雲院」そのは勅願所となり、十四の堂塔を有する名門寺院となったんですが、四条付近が商業地として発展するなかで昭和四十八年に現在の地へ移転されるのでした。

本堂背後の山鉾を模した、ちょっと形が特殊で目立つ塔は「祇園閣」というんだって。
また、元の四条にあった広大な寺域からは小学校が設立(永松小学校)されたんだとか。
本尊の「阿弥陀如来像」は大きなもので、墓地には「織田信長・信忠」父子の碑や「石川五右衛門」の墓があるんだって。
ちょっと行ってみたくありませんか?


[関連記事]
⇒ 人間五十年…の幸若舞「敦盛」
⇒ 迷う明智光秀「おみくじを引く人間心理」
⇒ 明智光秀の誤算「歴史を動かした手紙」
⇒ 謀反の理由は?「本能寺跡地」
⇒ 意外と知らない信長死後 「清洲会議」 [    
⇒ お釈迦様・釈迦如来 (

[住所]
大雲院 京都市東山区祇園町南側594-1 (075-531-5018)


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※なんだか、名前だけだと斬鉄剣(漢字合ってるかな?)持っている方を思い出しちゃいますね。
 あるいは…コナミ?

誓願寺 (京都)

2007年12月09日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都は中京区の新京極通りにある「誓願寺」です。

こちらは京都で最も賑やかな中心街である、新京極の真っ只中にあるお寺なのでした。
とりあえず何が目立つかって…通りからなんとなしに視線感じるんですね。
じっとーとした、絡みつくよな視線ですよ。
なんだろ、ってそれを追っていくと、こちらの「阿弥陀さま」にぶち当たるという。
それだけデカく、妙な視線を送られているのです。

こちらの本尊「阿弥陀如来」は丈六仏でしてお姿からしてどかーんとした迫力がありますが、光背も広がるようにデカいんですね。
なんというか…無限を肌に感じるんですよ(笑)
階段上がると、なんだか口がぽかーんと空くようなのですよ。
なかなかイイです。

こちらは昭和七年に本堂焼失した際に、阿弥陀様もだいぶ損傷したらしいんですが、どうにか無事残っておられます。
よかったよかった。

こちらは浄土宗の西山深草派(せいざん・ふかくさは)の総本山です。
総本山シリーズですよ。
ついでに言えば、西山三派の一つ。
(※残りは禅林寺派「永観堂」、光明寺派「光明寺」)
こちらは「西山上人」こと「証空」さまの弟子、「円空」さんが深草に開山したのが始まりとされています。
時期としては鎌倉時代のことですね。

もともとは説教から発達したという落語発祥の寺とも言われており、堂内右には大きめな、
落語の元祖 安楽庵策伝上人
の絵があります。
一応袈裟を着たりしてますが、持ってる扇といい、表情といい、芸人そのものな感じですよ。
そんな理由からか、芸人成就を祈願する寺として知られているそうです。
能の曲目にある同名の「誓願寺」もこのお寺のことなんだって。


[住所] 誓願寺 京都市中京区新京極桜ノ町453


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※こんなんあるんですね、落語ファン倶楽部だって。
 愛読者の方はぜひ訪ねてみてはいかが?

三十三間堂 (京都)

2007年12月09日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都で仏像が見たい方にオススメな、超有名スポット「三十三間堂」です。

たぶん…修学旅行とかで行ったりもしますよね。
こんなブログごときで紹介せぬとも知ってる人多いでしょうが、とりあえずやります。
やらせていただきます。

良く知られる「三十三間堂」は通称でして、本当は「蓮華王院(れんげおういん)」と言うそうです。
この名前だと流行らなそうですね。

長寛二年(1164)
勃発した「平治の乱」にて平家方が勝利し、平氏政権が着々と固められつつあった頃です。

鳥辺山麓(現在・阿弥陀ヶ峯)にありました院政庁「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」
そこには「後白河法皇」がいたんですが、院政庁の一画に、あの「平清盛」が造進したのが「蓮華王院」こと「三十三間堂」なのでした。

もともとは各堂塔があるちゃんとしたお寺だったようですが、約八十年後の火災でほぼ焼失。
のち文永三年(1266)に再建されましたが、対象となったのは本堂のみであったようなのです。
それから室町時代、桃山時代、江戸時代、そして昭和…と、合計四回の大修理はありましたが、基本的に現在残る本堂は鎌倉時代のもの。

そんな訳で当然ながら国宝でして、入母屋(いりもや)・ 本瓦葺きの「総檜造り」で和風建築。
約百二十メートルほどあるぞろりと長い建物でして、本堂の柱間が三十三であるため「三十三間堂」と通称されるのでした。
めでたしめでたし。
ちなみに、柱間ってのは長さでなくて、そのまま間のことを言うんだって。

また、築地塀と南大門は通称「太閤塀(たいこうべい)」と呼ばれ、「豊臣秀吉」ゆかりのもので重文。
注目の千体観音については…また後で。

こちらのスゴイ所はなんと言ってもパンフレット。
写真メインでごく簡単な説明にとどめたそれは鑑賞に美しく素敵。
また、写真が巧く配置されているので、三つ折りを立てると左右千体仏、中央「十一面千手観音」という、広がりを感じる綺麗なものとなっています
こりゃ、ちょっとスゴイですよ。
他のお寺も見習ってほしい、良い出来栄えでした。


[住所] 蓮華王院(三十三間堂) 京都市東山区三十三間堂廻町


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三十三間堂の矢殺人事件 三十三間堂の矢殺人事件
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※さすが「山村美紗」
 三十三間堂まで殺人事件現場ですよ。

野仏庵 (京都)

2007年12月08日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は左京区は「野仏庵」です。

厳密に言うとお寺ではないんですが、本当にのんびりしたいのであればオススメです。
こちらブログで紹介しました「石川丈山」の隠居庵「詩仙堂」のすぐ目前にある、マニアック系施設なのでした。

湯豆腐屋の老舗「順正」の創立者で、古美術愛好家で知られた「上田堪庵」が創立。
正門は公爵「西園寺公望」が新撰組に追われて身を隠した、丹波須知村寓居の門を移したもの。
主屋は淀の庄屋旧宅を移したもの。
茶席はやっぱり丹波須知村より持ってきた「陶庵席」、ほか「雨月席」などあちこちに茶室のある
、いかにもなつくり。
また、上下左右に小道が広がる庭園には”百体以上”と言われる石仏が存在しており、入口付近には大きめな「降魔不動明王坐像」がありました。
石仏だけでなく、建物もどんどん持ってきた、っていうことなんですね。
さっすが古美術愛好家ですよ。
今風に言えば、ガンダムとかなんとかで敷地を飾るようなもんでしょう。
「上田堪庵」さん、単なるマニアです

こちらは拝観五百円でお抹茶・菓子付き。
ひでるさんが行った時はそれらを出され、説明のカセットテープをどんと置いていかれました。
人に説明されるのも場合によってはうっとおしい時がありますが、こんな風情あるところでテープの説明ってのは…微妙。
まぁ、いいんですが。

万が一、ひでるさんにお金があったなら、風情ある感じになるかどうかは別にして、おそらく似たように石仏とかなんとかで飾り立てることでしょう。
のんびり落ち着けるところですね。


[関連記事]
⇒ 詩仙堂・丈山寺 (京都)

[住所]
 野仏庵 京都府京都市左京区一乗寺葉山15-3

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(2006/08/31)
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※万が一庭を飾るのであれば…ガンダムでなくてウルトラマンでしょうか。
 このウルトラマンAのお顔は、ウルトラ兄弟の中で最も仏像ちっくなんですよね。
 ひでるさんがこの年齢で仏像にきゃーきゃー言うようになったのは、こんなんが原因かもしれません。

浄智寺 (神奈川県・鎌倉)

2007年12月08日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は鎌倉市山ノ内にある、鎌倉五山の第四位、金宝山「浄智寺」です。
(※写真はその山門。絵を描いてる方が多くいらっしゃいましたので、ちょっとぼかしてます)

京都にも五山ありましたが、鎌倉にもあります。
伊達に幕府があっただけのことはありますね。
ちなみに、
第一位:建長寺
第二位:円覚寺
第三位:寿福寺
第四位:浄智寺
第五位:浄妙寺
…なんだって。
どこでも格付けってのは重要なもんですよ。

さて、時は鎌倉時代。
弘安四年(1281)以後のあたり。
こちら「浄智寺」は第五代執権「北条時頼」の三男である「北条宗政」の菩提を弔うため、その子「北条師時」によって創建されました。
開山は高僧「兀庵普寧(ごったんふねい)」、他二名。

時の権力者、北条氏の庇護を受けてその勢力を大いに拡大し、中期の名僧「夢窓疎石」など有名人も滞在して盛り上がっていたそうです。
幕府滅亡後も衰えることなかった大寺院「浄智寺」ですが、時代のゆるやかな推移と並んで徐々に衰退。
江戸時代頃にはまだ塔頭八院がありましたが、関東大震災によってその大部分が倒壊してしまうのでした。
残る伽藍が復興されたのは昭和になってからだそうです。

こちらには「鎌倉七福神」の一つ「布袋尊」の石仏がおります。
ちょっと新しめな風情。
おなかをなでてあげて下さい
の立て看板があるため、 お腹は黒くつやつやでした。
 
本尊は室町時代中期頃の作品、過去~現在~未来を象徴した「釈迦如来」、「阿弥陀如来」、「弥勒如来」の三世仏です。
三尊揃いぶみですよ!スゲェ!!
これがもし京都だったら焼き払われていたかもしれませんね。

なお、境内入り口にある湧き水は鎌倉十井のひとつ「甘露の井」なんだって。
…あれ、どこにあったんだろ??
ひでる、すっかり見過ごしてしまいましたよ。
こりゃ、また行かないといけませんね。


[住所] 浄智寺 鎌倉市山ノ内1402

[関連記事] 
⇒ 中世の名僧 「夢窓国師」 (前編 ・ 後編
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真正極楽寺 真如堂 (京都)

2007年12月05日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都左京区は「真正極楽寺 真如堂」です。

このブログを書くにあたってパンフを見ているんですが…。
初めて知りました。
「しんせいごくらくじ」と読んでいましたが、「しんしょうごくらくじ」なんですね。
些細なことなんですが。

こちら「真如堂」は通称。
正式には「鈴聲山真正極楽寺(れいしょうざん・しんしょうごくらくじ)」という天台宗寺院です。
本山は比叡山延暦寺ですよ。
信長に焼かれたとこね。

永観二年(984)
まだ平安時代ですね。
比叡山の僧「戒算上人」が比叡山・常行堂の本尊「阿弥陀如来立像」を神楽坂の東にあった「東三條女院」の離宮へ移したのが始まりとされているようです。

…ちょっといじりましたが、↑上の文は分かり辛いでしょう?
「東三條女院」ってのは「藤原道長」の姉で、人間です(笑)
院、なんてついているから、建物かとカン違いしてややこしいんですよ。
「藤原詮子(ふじわらせんし)」が本当の名前で、あちらは院号なのでした。

要するに、戒算くんが詮子ちゃんのとこへ仏像持って行った、と。
こうして「真如堂」は不断念仏(※その期間は昼夜を問わず断えず念仏をすること)の道場として庶民、特に女性の信仰を集め、深い帰依を受けてきました。
しかし、応仁の乱(1467)など度重なる戦火によって堂塔はことごとく焼失。
やっぱりです。
あの市街戦がどれだけの被害であったか、お寺を調べるとつくづく思い知らされますよ。

それでも、ご本尊はどうにか難を逃れて元の比叡山や大津へ移動。
こちらは現在も残っております。めでたしめでたし。

「真如堂」は足利将軍や「豊臣秀吉」によってその度に再興され、京都各地数箇所を転々とした後、元禄六年(1693)にようやく旧地である現在の地へ再建されるのでした。
現在の本堂は享保二年(1717)なんだって。
ほか建物もだいたいその江戸時代頃のものであるようです。

カラーのパンフには春夏秋冬と景色も鮮やかで、実にいいものです。
JR東海のCMになりそうですよ。


[住所]
 真正極楽寺 真如堂 京都府京都市左京区浄土寺真如町82

[関連記事]
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     
⇒ 阿弥陀如来 (真正極楽寺)

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※でました、ぶらりですよ。
 どちらからか、あのとぼけた声が聞こえてきそうです。
 「おやおやひでるさん…」

西教寺 (滋賀)

2007年12月03日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は滋賀は大津市坂本、天台宗真盛宗総本山の「西教寺」です。

またまた出ました、総本山シリーズ(そんなのない)
いきなり関係ないですが、「西教寺」って音「さいきょうじ」だけ聞くと、最強なお寺みたいに聞こえますよね。
ほら、「埼京線」と同じで。
…………。
……。
くだんないですね、ごめんなさい。

こちら「西教寺」は研修道場や収蔵庫、果ては老人ホームまである、大寺院なのでした。
所在の「坂本」という地名でピンときた歴史好きな貴方は大当たり。
ここ、「明智光秀」とも大変に縁深いお寺なのです。

「西教寺」正確には「 天台真盛宗総本山戒光山兼法勝西教寺 (てんだい・しんせいしゅう・そうほんざん・かいこうさんけんほっしょう・さいきょうじ)」と言います。なんのこっちゃわかりませんが、なんだか凄そうなお名前です。

時は飛鳥時代。
あるいは架空の人物かもしれない「聖徳太子」が恩師である高麗の僧「慧慈」・「慧聡」のため、創建されました。
不確かなようですが、これが本当ならば”歴史もやったら古いお寺”ということになりますね。
その後は荒廃しますが、平安時代に再興。
十八代天台座主、元三大師(がんさんだいし)の名前でも知られる「慈恵大師良源上人(じえだいし・りょうげんしょうにん)」が復興して、念仏の道場とするのでした。
(※ちなみに…良源上人はおみくじの創始者と言われているんだって)
七高僧(しちこうそう)の一人でもあります高僧「源信(恵心僧都)」も入寺してこちらで修業すると、次第に栄えるようになるのです。

時代は進んで鎌倉時代末期。
正中二年(1325)
「後醍醐天皇」が倒幕計画が露見し、処罰された「正中の変」が起こり、にわかに日本が騒がしくなってきた頃。
「恵鎮上人(円観)」、さらにその百年後文明十八年(1486)には中興の祖と言われる「真盛上人(しんせいしょうにん)」入寺。
堂塔・教法を再興、不断念仏の道場としました。
戦国時代には「織田信長」の比叡山焼き討ちに際して、こちらも戦火に遭います。
その復興に手助けした人こそが坂本城主としてこの地に入った「明智光秀」その人なのでした。
光秀は「西教寺」の檀徒となり、ここを自らの菩提寺としました。
以来、全国に末寺を有する総本山、戒律と念仏の道場となるのです。

そんな訳で「明智光秀」、その妻「煕子」、さらには明智一族の墓が存在する、歴史ファンも満足なお寺になっています。
かぁんという、一定間隔で鳴る鉦(かね:打楽器のタイプ)の音が楽しいですよ。


[住所] 西教寺 滋賀県大津市坂本5-13-1

[関連記事]
⇒ 迷う明智光秀「おみくじを引く人間心理」
⇒ 明智光秀の誤算「歴史を動かした手紙」
⇒ 謀反の理由は?「本能寺跡地」


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※そんな訳で「明智光秀」です。
 坂本城跡も見てきましたよー。

「銀閣」に銀なし 成分分析で改めて判明(お寺さんぽニュース)

2007年12月02日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
こちらの記事は新聞とかネットとかで多くの人が目にしたでしょう。
本当はすぐにやりたかったんですが、「蒲生氏郷」さまネタ最中に挟むのを避けました。
そっちのが好きなので(笑)

そんなこんなで、こんにちは「お寺さんぽニュース」の時間です。
さっそくこちら↓の記事をどうぞ。

■「銀閣」に銀なし 成分分析で改めて判明  [Sankei WEB] 2007年01月06日

 銀閣寺(慈照寺・京都市左京区)境内の国宝・銀閣(観音殿)の外壁には15世紀の創建時から銀箔(ぎんぱく)が張られていなかったことが6日、同寺の調査で分かった
 銀閣は漆塗りの建物だったというのは通説だが、今回の調査はそれを裏付けた。
 同寺は「 銀箔がなくても寺の価値はかわらない 」としている。

 銀閣は、痛みが激しいことから、今年から約2年計画で修理を予定している。
 今回の調査は修理の事前調査として、同寺が銀箔の有無を調べた。
 調査は2階外壁のうち、風雨にさらされにくい屋根の軒下部分から木片を採取し、「ICP/MS」(誘導結合プラズマ質量分析法)と呼ばれる極微量の元素を検出できる方法などで調べたが、銀の成分は検出されなかったという。

 銀閣は室町幕府8代将軍の足利義政が長享3(1489)年に造営。
 銀閣という名は、江戸時代以降から使われ始めたとされる。
 金閣に対する呼称という説や、漆塗りの外壁に池の反射光が映る姿からそう呼ばれたという説が有力。
 しかし、漆は銀や金箔を張る際の下地にも使われるため“銀箔説”もささやかれていた。

 調査結果を受けて、同寺の坂根孝慈執事長は「銀閣は『ワビ』と『サビ』の寺。
 銀箔がなかったところで、特別驚くことではありません」と話している。

------------------------------------------------------------ 。。。


「べつに悔しくなんかないよーだ」
…とか言っているようにも聞こえたりして(笑)
比較対象となる「金閣寺」があんなんなので、どうも地味で分が悪くて不幸な「銀閣寺」
その逆転打の一つとして、”いやいや、過去は銀ピカだったのさ”というのがあったんですが、今回の調査でソレが打ち砕かれたと。

まぁ、いいじゃないですか。
ほら、秀吉の「黄金の茶室」とかそうですが、あの類は下品でない?違う?
やたら派手で目立つ反面、全然日本人っぽくないですもんね。
ひでるさんは金閣寺何度か見てますが、どうも「百式」を思い出すんですよー。

その点、やっぱり風情で考えるなら銀閣寺なのでしょう。
先ほどの例に例えるなら、こちらは「旧ザク」かな。
執事長さんが言われているように、日本古来の良さ、わび・さびみたいなのは銀箔で表現できるものでありません。
そうですね、秀吉と利休の対立みたいなもんです。(←細かく言うと全然違うけれど)
ヨウカンとゼリーみたいな。
和菓子とケーキみたいな。


[お寺さんぽニュース・過去記事]
⇒ 奈良にコンビニ寺院出現
⇒ 奈良で人気「大仏プリン」
⇒ 寺の裏山から古銭11万5000枚
⇒ 愛国心 通知表評価項目に
⇒ 短パンは反イスラム 過激勢力が警告
⇒ 浄土宗:7億円が使途不明
⇒ 播州皿屋敷がせんべいに
⇒ オウム・松本被告、死刑が確定
⇒ 腹びれなど盗まれる 墨俣一夜城
⇒ 「仏陀の生まれ変わり少年」が9カ月ぶりに姿現す
⇒ 金閣寺 (京都)
⇒ 銀閣寺 (京都)


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CHOGOKIN 可動戦士 百式 CHOGOKIN 可動戦士 百式
(2006/07/28)
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※こちらが百式。…ってことは、これも下品なのかな。
 戦場ではよく目立っていい的になりそうです。

天得院 (京都)

2007年12月01日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都・東山区は東福寺山内の「天得院」です。

あんまり記憶がないのは…毎度のようにお庭メインだからでしょうか。
場所そのまま、臨済宗東福寺派だそうです。
当たり前か。
そのままなら単に庭が見所なお寺なんですが、ここはとある事件と大きく関わっていたのでした。

南北朝時代。
正平年間(1346~1370)
…って書いてありましたんで、「足利尊氏」・「足利直義」兄弟の争いから南北朝の統一(正平一統)されたあたりのこと。
混乱が収まろうとしている頃ですかね。
その当時、東福寺住職だった「無夢一清(むむいっさい)」禅師が開きました。
万松山と号しています。
しかし、その後は年月と共に荒廃し、「大機慧雄(だいきえゆう)」禅師による再興まで待たなければいけません。

時代は進んで慶長十九年(1614)
「関ヶ原合戦」に勝利した「徳川家康」が権力を握っていた頃ですよ。
この頃には「文英清韓(ぶんえいせいかん)」長老が住職となっていました。
こちら文英長老、出家した後に勃発した「文禄の役」では「加藤清正」に従い朝鮮半島に渡っており、その後は東福寺・南禅寺の長老となった方です。
さらに「豊臣秀吉」、その子「豊臣秀頼」に重用され、学僧として仕えておりました。

年代とかで勘のいい方は何か思いつくかもしれませんが…。
そう、この人が「豊臣秀頼」の要請に応じて「方広寺」の鐘名を撰文した人なのでした。
鐘に刻まれた「国家安康」・「君臣豊楽」の文にイチャモンがつけられ、大坂方が滅亡する切っ掛けとなるんですね。
なお、鐘は重文指定されており「東大寺」・「知恩院」と合わせて”日本三大名鐘”なんだって。
日本人はくくるのがお好きですね(笑)

現在の堂宇は天明九年(1789)に再建されたもの。
明治元年(1868)には山内の「本成寺」を合併したそうです。
庭園は桃山時代の苔に覆われた枯山水庭園、桔梗の花がステキらしいんですが…特別拝観なので行かれる際にはお気をつけて。


[住所] 天得院(東福寺保育園) 京都市東山区本町15東福寺山内

[関連記事]
東福寺 (京都)
⇒ 豊臣秀頼公首塚 清涼寺(京都)
⇒ 真田昌幸 (長野・上田城)
⇒ 石田三成墓所 三玄院 (京都) < >
⇒ 秀次切腹と石田三成 [
⇒ 宇喜多秀家 < >


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大阪冬の陣 大阪冬の陣
吉本 健二 (2005/10/28)
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※ひでるさんも大阪城へ入城しますよ!!
 …追い出されるかもしれませんが。

等持院 (京都)

2007年11月26日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都北区の注目寺院、「等持院(とうじいん)」です。

京都の京福北野線、名前そのまま「等持院駅」から徒歩十分のこちら。
等持院でボクと握手!
と、言うことで、あの有名な歴史人物「足利尊氏」と会えるのが「等持院」なのです。
まぁ、実際は握手なんてできませんけれど。
(※触ったら怒られると思うので、やらんように)
はっきり言って、お寺というよりは歴史施設でして、室町時代ファン(…いるのかな)には欠かせない場所なのでした。

暦応四年(1341)
時は南北朝時代な頃。南朝の「後村上天皇」が即位されたあたりです。
「足利尊氏」は足利家と縁深い「夢窓国師(むそう・こくし)」に依頼して、衣笠山の南に「等持院」を創建しました。
実は現在の場所にあるこちらは別院で、幕府付近に「等持寺」というのがありました。
尊氏はその別院(※当時は等持寺別院)を墓所と定めたため、それから別院の方が足利将軍歴代の菩提寺となるのです。
そうこうしているうちに「等持寺」は悪名高き「応仁の乱」にて焼失。
この別院がそのまま本寺となったのでした。

ちなみに別院の方も被害があったらしく、再建したのは「豊臣秀頼」です。
大阪合戦前、「徳川家康」は大阪方の資金を減らすため、全国寺社の再建を淀さまに囁くんですが、ここも見事その再建ラインナップに引っかかったという訳なのです。

庭園は「夢窓国師」作の三大名園のひとつ。
北の庭には「尊氏の墓」もありますが、何と言ってもメインは「霊光殿」でしょう。
尊氏が信仰した「地蔵菩薩」を本尊に、「達磨大師」・「夢窓国師」の像が左右に。
その前にずらりと並ぶのは、歴代室町幕府将軍の面々…。
多少でも歴史と将軍の名前が分かれば、「はー、こんな顔だったのかー」と感慨深いものでしょう。

ちょっと言葉にし難い、微妙な迫力があります。
是非、その目で見て下さいませ。

なお、なぜかちゃっかり共にいる、「徳川家康」像はもともと石清水八幡宮にあったものを移したそうなんだって。
へー…アンタ邪魔だよ。(←ひでるは家康が嫌いです)


[住所]
 等持院「尊氏の墓(※写真)」 京都市北区等持院北町63

[関連記事] 【室町時代セット】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     
⇒ 等持院の表門(京都)
⇒ 将軍 足利義輝 (京都・等持院)


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※よく知られる武者絵は別人とか言われてますね。
 こちらのお顔は…足利尊氏でしょうか?ちょっとファンもがっかりしそうね。

天龍寺 (京都)

2007年11月24日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都右京区は嵯峨の「天龍寺」です。

こちらは”世界文化遺産”です。
国内だけにとどまらない、わーるど・わいどなお寺ですよ。
正直、無料公衆電話とか、そんなん以外にさして記憶残っていませんでした。
…というのも、こちらは素晴らしいお庭メインのお寺で、ひでるさん苦手系なんですね。

暦応二年(1339)
当時の日本はまさしく南北朝時代の真っ只中で、若き英雄「北畠顕家」、北陸「新田義貞」らが戦死した次の年のこと。
吉野で亡くなった「後醍醐天皇」の菩提を弔うため、「足利尊氏」は「夢窓国師」を開山として「天龍寺」を創建するのでした。

ここはもともと平安時代初期、「嵯峨天皇」の皇后・知的美人で知られる「橘嘉智子(たちばなの・かちこ)」さまが創建した由緒正しきお寺「檀林寺」がありました。
その跡地に「後醍醐天皇」も幼少期を過ごした亀山殿(仙洞御所)があり、そちらを寺に改めたのが「天龍寺」なのでした。
なお、「夢窓国師」は堂塔建立の資金調達のため、「天龍寺船」による元との貿易を進言。
それによって、無事七堂伽藍が揃ったんだって。
これが四年後、康永二年(1343)のこと。

こちら、正しくは「霊亀山天龍寺資聖禅寺(れいぎざん・てんりゅうじ・しせいぜんじ)」というそうです。
臨済宗・天龍寺派大本山の寺院で、時の権力者たちの支持を受けた「夢窓国師」、臨済宗は勢力を強め、その関係でこちらが京都五山(※由緒あって格式高い寺院だよー、というくくり)・第一位の寺格となるのでした。
いつの時代も権力者になびくのが、うまく生きる秘訣ですね(笑)
ちなみに、同じく臨済宗・南禅寺派大本山「南禅寺」が京都五山の別格、最上位たるお寺です。

こうして創建された「天龍寺」ですが、定番「応仁の乱」による戦火をはじめとして、なんと八回もの大火を受けてしまいます。
そんな訳で、現在残っている堂宇はほぼ明治に再建されたものだそうな。残念。
庭園「曹源池」の設計は開山「夢窓国師」でして、国の特別史跡名勝第一号に指定されております。
写真がソレですね。

本尊は「釈迦如来坐像」です。
なお、特別拝観で見れるのは法堂の雲龍図。
「まんが日本むかしばなし」のオープニング、龍の子太郎(…って言うんだよね)の騎乗していた龍とよく似た感じの絵ですよ。
……いや、バカにしている訳でなくて、イメージね。
まぁ、そんなんです。


[住所] 天龍寺 京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町68

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※むかしばなしと言えば…よっばり水木センセでしょう(←なんで?)
 なんだかDVDも出るとか聞きました。

龍源院 (京都)

2007年11月24日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都は北区、大徳寺の「龍源院」です。

龍源院で「りょうげんいん」です。
禅宗寺院、「大徳寺」のこちらは南派の本庵なんだって。
なお、北派の本庵が以前紹介しました「大仙院」です。

文亀二年(1502)
ちょっと前まで「応仁の乱」でハチャメチャだった頃。
傷跡がまだ深く残る京にて、大燈国師八世の法孫「東渓宗牧(とうけいそうぼく)」を開山として、能登(石川県)守護・「畠山義元」、豊後(大分県)の「大友義長」らが創建したものです。
ややこしいんですが、”開山”はそのお寺を開くような意味、”創建”は実際に建てることです。
ちなみに、「大友義長」は戦国時代のキリシタン大名「大友宗麟」のおじいさんなのですよ。

最大の厄介事である「応仁の乱」後の創建であるためか、方丈・唐門・表門などはいずれも創建当時のまま無事に残っています。
大徳寺内ではこれが最古の建物で、典型的な禅宗の形式。
当然ながらこちらは重文です。

また、各様式からなる庭園が有名なお寺で、北庭は室町時代「相阿弥」作の須弥山式、枯山水の名庭「竜吟庭(りょうぎんてい)」
東庭は「東滴壷(とうてきこ)」と言う、日本最小の石庭。壺庭として珍しい傑作で、そりゃー格調高いんだそうな。
(※写真参照)
滴り落ちる水滴が川となり、やがて大河となって、最後には海になる様を表現しているんだって。
へー、よくわかんないですが(笑)

その他、開祖堂前にはもともと大宮御所にあった桃山型石灯篭が。
さらに天正十一年(1583)の日本最古と言われる種子島銃。
さらにさらに、「豊臣秀吉」「徳川家康」が対局した寺宝・四方蒔絵の碁盤があるのです。
うっわー、どっち勝ったんだろう?
なんやーかんやーで、やっぱり秀吉勝ちそうですけれど。

なお、本尊は建長二年(1250)…だから鎌倉時代。
行心作の重文・釈迦如来坐像。これは京都八釈迦の一つなのでした。
しかし、よく無事で残りましたねー。


[住所] 龍源院 京都市北区紫野大徳寺町

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※そんな訳で囲碁。
 ひでるさん、コンピュータ相手にボロ負けしました。
 きっちりルール知らないってのもあるんですが…なんかテクニックとかあるのかな。

足柄聖天堂 (静岡県・小山町)

2007年11月23日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は金太郎でも有名な足柄山は「足柄聖天堂」です。

こちらのご本尊は名前そのまま、ひでるさん大好きな「聖天」さまなのです。
またまたでました、憧れの「歓喜天」ですよ!!
しかも、こちらは「大聖歓喜双身天」とのことなんで、”男神と女神の二天が抱き合う”という、めっちゃ秘仏な神様です。
まぁ、何にせよ「聖天」さまは秘仏なんですけれど。
このタイプは、富貴敬愛を祈るんだって。
(※財産と身分と尊敬と親しみです。……このぉ、贅沢もの!!)

こちらの像はもともと京都にありました。
むかーし、むかし、宮中(皇居の中)の女官と武士が恋仲となり、この聖天像に願掛けをしたところ、見事願いが届いて一緒になることができました。
めでたし・めでたし。
凄まじい神通力を有する「聖天」さまのこと、それくらいは簡単なことだったでしょう。
(※おっかない話。もしかしたらその後、その二人は何かしらの事件・事故に遭ったかもしれません。聖天さまの神通力は非常に強いものですが、反面扱いづらいと聞きました。そう、だって願い事が無償で叶うってのは虫のいい話でしょう?違いますか?)

さて、目出度い話は置いておいて、「こんなん風紀上よろしくない」ということで、あわれ「聖天」さまは役人の手によって空船に乗せられ、海へと流されてしまうのでした。
(※高さ1.8mの石仏らしいんで、そのままだと沈む)

ああ、「聖天」さま…。
このままでは海の藻屑となってしまいますよ!
…なぁんてことなく、海上を漂流した船はなんと相模国の早川へと無事に流れ着き、土地の者が拾い上げます。
それを「弘法大師」が見出し、自筆の「足柄山」という額と共にここに奉納したのでした。

なんだか有名人がちょっとだけ顔を見せましたが、それで考えると上の話は平安時代なんですかね?
まぁ、いいか。
こうして、しっかりと帰還した「聖天」さまはこの地におさまり、現在に至るのでした。
金太郎の石像が出迎えるこちらの「聖天」さまは、「日本三体聖天尊」と呼ばれているようです。
(※日本三体聖天尊:浅草、生駒、足柄)
商売繁盛から厄除け、さらに上記エピソードのような縁結びまでをサポートしてくれますよ。

でもね、先にちょろっと書いたように、”いいことばかりでない可能性”も秘めていると思います。
くれぐれもご用心…。


[住所]
 足柄聖天堂 静岡県駿東郡小山町竹之下 3649

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※もともとはガネーシャ神。こっち系が色濃く出た神様ですよね。

唐招提寺 (奈良)

2007年11月18日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は奈良の律宗総本山「唐招提寺(とうしょうだいじ)」です。

…ひでるさん確かに行ったはずなんですが、ここいまいち記憶なかったんですね。
なんでかなー、と思ったら「国宝金堂・修復中」の写真が残っていました。
↓それ。



ある意味ではもの凄く貴重なショットなんですが、仏像目的なひでるさんにとってはがっかり。
今はもう終わったのかな。
(↑うそ、終わっていません。2009年まで解体修理中。奈良時代の建築で国宝)

ちなみに、頂いたパンフレットもまぁ地味でつまらんもんで(笑)
細かい文字がずらりと並ぶ様は、喧嘩売ってるとしか思えません。
……あ、ケチつけてるんじゃないですよ。
ちょっと真面目すぎでないですかー、という問題提起です。やだなぁ。
ひでるさんは「唐招提寺」大好きですから。
うふふ…・。

むかーし、むかし。
奈良が都だった千二百年前、この付近は中心街だったようなのです。
そんなメインストリートに位置していた、デカイ態度だったお寺なんですね。

天平宝字三年(759:てんぴょうほうじ、と読みます。れっきとした日本の年号)
日本に現存する最古の歌集「万葉集」が「大伴家持(おおともの・やかもち)」によって編集された頃。
こちらは四十代「天武天皇」の皇子旧邸に創建されるのでした。

『 唐の国から来朝した「鑑真(がんじん)」和上の招提 』

招提ってのは寺院のこと。
上の文面解釈としてはそのまんまでいいんでしょうが、もう少し崩した意味で「御仏のもとに修行する人たちの場」ということで「唐招提寺」って名前がついたそうです。
別に「建初律寺」とも言いますが、これは国内最初の律宗を学ぶお寺、というそのまんまであるようです。
略した「招提寺」という言い方もあるようですね。
ちなみに、当然ながらこちらは律宗の総本山です。
実は総本山シリーズだったんですよ(←そんなんない)

…と、まぁ、そんな訳で、かの有名な「鑑真」和上によって作られたのがこの「唐招提寺」です。
もともと「鑑真」さんは四十五代「聖武天皇」の招きで日本へ来た方なので、手厚い天皇家のバックアップがあったんですね。
奈良に到着された「鑑真」さんは忙しく活動し、来日十年後には死去。
(※鑑真さんについてはまた別途)
金堂をはじめ、主要な伽藍が整備されたのはその後であるようでした。
一時期は西山に四十八院を構えるなど、えらく豪華絢爛なお寺であったようです。
海東無双の大伽藍
絶塵(ぜつじん)の名刹
とか称されていたそうですから、評判もそれはもの凄かったようなのです。
しかし、やっぱり平安時代以降、武士が台頭する時代となると衰退。
鎌倉時代の「覚盛(かくじょう)」上人によって復興されるなどがあって、今日に至るようです。

なんと国宝十七件。
重文になると二百件をも有する、天平文化そのものという「唐招提寺」
修復中の「金堂」はそのものが国宝ですが、本尊「盧遮那仏」や薬師、千手、梵天、帝釈天、四天王などが諸像が並ぶ仏像天国な世界。
また、その後方に位置する「講堂」は、「平城宮」を改造したもの。
こちらにも本尊「弥勒如来」や持国、増長などが安置されています。

仏像好きも大満足なこちら。
とりあえず修復が終わった頃に再度訪ねたいですねー。


[住所] 唐招提寺 奈良市五条町1346

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※魅惑の仏像シリーズは「千手観音」です。
 この細部まで彫られた感じがステキですね!

長安寺 (神奈川県・箱根)

2007年11月17日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は神奈川県は箱根町の「龍虎山 長安寺」です。

えー、おそらく全国的には有名寺でないとは思います。
…ですが、場所が箱根ですし、これから十一月が見頃とのことなので、こちらをちょろっと。

延文三年(1358)
時代としては室町時代のこと。
ちょうど「足利尊氏」が没し、子の「足利義詮」が征夷大将軍に任命されて二代将軍となった年のこと。
こちらはだいたいお隣付近の姥子山(うばこやま)に創立されました。
そんな訳で「姥子山 長安寺」が元々の名前です。

ここで京都のお寺だと、たいてい火災とか「応仁の乱」で荒れるんですが、観光なんてなかった当時のこと、無事に時を重ねた末にだいぶ痛んでしまうのでした。

明暦元年(1655)
創立からなんと約三百年後。
時代は病弱で知られる「徳川家綱」の治める江戸時代のことです。
機山労逸・大和尚によって、現在の場所仙石原へと移されるのでした。
…普通に老朽化で建て替えるなら、三百年くらいは大丈夫ってことですかね。

さらに五十年後あたりに姥子山が元箱根の領地となると、山号とともに「龍虎山 長安寺」となるのでした。
めでたし・めでたし。

こちらは「東国花の百ヶ寺」にも指定されている、季節で楽しいお寺です。
紅い紅葉と落ち着いた苔の緑が美しい、十一月頃が見頃。
本堂は創建当時のもので、本尊「釈迦如来」を筆頭に諸仏おられるようですが、閉まっていて見れませんでした。
残念。(※屋根と壁は改修されている)
ほか、こちらはいたる所に点在する石仏の羅漢さんが見所となっております。
この「五百羅漢」についてはまた次の機会にやりますね。

ちなみに、パンフレットは羅漢さんを交えた、春夏秋冬の写真がステキでした。
説明も最低限(←そのため、このブログは書きづらかった)で、写真をメインとしております。
後で見て「こんなだったなー」と思い出せるような、大変良いパンフでした。
他のお寺にも見習ってほしいですね。

大晦日の夜は境内全体がライトアップされるようです。
行ける人はぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか?


[住所] 長安寺 神奈川県足柄下郡箱根町仙石原82

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※羅漢拳だって!!
 ちょっとかっちょえーですよ。