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お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

浮御堂[海門山満月寺] (滋賀・大津市)

2009年01月15日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、近江八景のひとつ”堅田の落雁(らくがん)”で有名な滋賀は大津の「浮御堂(うきみどう)」です。

こちらも行きたかった場所なのです。
宮島などもそうですが、水辺と日本建築っていうのは、なんでこんなにも合うんでしょうかねー。
こちら「浮御堂」は琵琶湖へ突き出た、非常に風情と赴きのある建物なのでした。




さて、「浮御堂」とはこちらのお堂単体の名前でして、本当は「海門山満月寺」という禅寺の一部。

長徳元年(995)
時は「一条天皇」が治める平安時代のこと。
比叡山横川恵心院に住んでいた「源信僧都(恵心)」
山から琵琶湖を眺めているうち、彼はふと何か感じたようなのでした。

下山した「源信僧都」は自ら千体もの「阿弥陀仏」を刻み、さらに湖中にて一宇を建立。
湖上通船の安全と衆生救済を発願したのです。
当時「千仏閣」、「千体仏堂」と称したそちらが「浮御堂」の始まりなのです。

しかし、京へ隣接する戦略上の要地であった近江は、各時代にて度々戦火に遭っております。
こちらの「浮御堂」も例外でなく、何度もの戦場となったことで、室町時代頃は荒廃していたそうです。
ようやく復興となったのは、江戸時代になってからのこと。
…そりゃ、世情不安定な時にわざわざ湖上へお堂建てようなんて酔狂なことはしませんわね(笑)

ちなみに現在のお堂は、昭和十二年に再建されたものです。
これは登録文化財。
観音堂にある「聖観音坐像」は平安時代の重文なのでした。



なお、”堅田の落雁”というのは、「浮御堂」へ列をなして舞い降りる雁の光景…で、いいんですよね?
違ってたらごめんなさい。だいたいそんなんな筈です。
ほか、パンフにあったので八景を並べてみますと…

■特別おまけ 【 近江八景 】
 ・堅田の落雁
 ・北より比良の暮雪(琵琶湖西岸の比良山地)
 ・唐崎の夜雨(唐崎神社)
 ・三井の晩鐘(三井寺)
 ・粟津の晴嵐(粟津原)
 ・瀬田の夕照(瀬田の唐橋)
 ・石山の秋月(石山寺)
 ・矢橋の帰帆(草津市)


…こんな感じ。
できれば全てコンプリートしてみたいですね。
ぜひ訪れてみて下さい。



[住所]
 海門山満月寺 浮御堂
 滋賀県大津市本堅田1-16-18

[関連記事] 【ぜひ訪れたい近江の国】
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⇒ 佐和山城址(滋賀) 基本知識編 現地レポート編
⇒ 坂本城址 (滋賀)



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※また近々行きたいと思います。
 一週間くらい休みほしいですねー。



黄檗山萬福寺 (京都・宇治)

2008年11月27日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、京都は宇治の注目寺院「黄檗山萬福寺(おうばくさん・まんぷくじ)」です。

お腹いっぱい「萬福寺」
…と、肌寒くなったところで、名前も覚えやすいこちらの寺院(笑)
境内はどかーんと広く、あちこちに注目仏像などを安置したこちらは、まさにお腹いっぱいなお寺なのでした。

さて、「萬福寺」は「黄檗宗(おうばくしゅう)」大本山の寺院です。
大本山シリーズなんですね。


※萬福寺・大雄宝殿

承応三年(1654)
時は四代将軍「徳川家綱」が治める、江戸時代のこと。
中国におられた「臨済宗」の僧「隠元禅師(いんげん・ぜんし)」は、その名声が日本まで届くほどの有名人でした。

「妙心寺」住持らの度重なる招きに応じて、当時は六十三歳だった体に鞭うって中国福建省より来日。
長崎は「興福寺」へ入りました。
…烏龍茶も持ってきたのかなぁ。

さて、皆さんが知るように、当時の日本は鎖国状態でした。
貿易港長崎なら別でしたが幕府の態度は厳しく、「妙心寺」派の摂津「普門寺」から外出が許されなかったほか、寺内ですら制限がつけられるなど、かなり窮屈な思いをしたようです。
そこで、彼を招いた「龍渓宗潜(りょうけい・そうせん)」らが必死な働きかけをして、ついに将軍家綱へ謁見するチャンスを得たのでした。

…こうして、将軍「徳川家綱」、「後水尾法皇」などより尊敬され、幕府・その他より多くの帰依者を得た「隠元禅師」
彼らの熱心な要請により、当初は三年で帰国する予定を変更し、残りの生涯を日本にて過ごすこととなるのです。

万治四年(1661)
来日して七年目。
幕府より山城国宇治は大和田の地が与えられ、そちらにて「黄檗山萬福寺」は開創されました。
(※開創:初めてその寺を開くこと)
この寺号は「隠元禅師」の故郷福建省の寺院と同じものなんですね。


※卍及び卍くずしの文様です。

禅師の創建した「萬福寺」は協力者も多く大いに流行し、国内に新しい禅がもたらされました。
中国ではもともとの「臨済宗」に含まれておりますが、日本の「臨済宗」はそれと異なっていたため、明治九年に独立して「黄檗宗」となったのです。
(※日本三禅宗の一つが「黄檗宗」、他は「臨済宗」「曹洞宗」です)


なんと、こちら「萬福寺」は創建した当時そのままの姿を残しているという、”建物全体が重文”というお寺なのです。
境内の十六棟は重文で、中国の明朝様式を取り入れた伽藍配置なんだって。

なお、注目の「十八羅漢像」は最大の建物である本堂「大雄宝殿(だいゆうほうでん)」におわします。
ひでるさんはこれが見たかったんですね~。



凄かったですよー「羅怙羅尊者(らごら・そんじゃ)」
お腹あたりをがばーって開いて、その中から仏が見えてるやつよ。
それを知ったのどちらかのお寺にあったポスター(↑それね)でしたが、衝撃度は絶大なものでした。
ほとんど、これだけのために行ってきました。
オススメです。
ほか、「天王殿」での「弥勒菩薩」の化身とされる「半跏布袋像」も要チェックですね。

お寺の方によると、こちらは全体で龍を表現しているのだとか。
置かれている石がひし形に並んでいるのも、龍の背中を表現したんだって。



[住所]
 黄檗山萬福寺 京都府宇治市五ヶ庄三番割三四


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※評価高かったので掲載してみました。
 萬福寺はあるのかなぁ。

達谷窟毘沙門堂 (岩手県)

2008年10月23日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は岩手県は平泉にある注目スポット「達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわや・びしゃもんどう)」です。

平泉と言えば「中尊寺」とか「毛越寺」が有名なんですが…この「達谷窟毘沙門堂」はなかなか捨て難い、注目の観光スポットです。
岩面にとっついたような建物が迫力満点なのですよ!

延暦二十年(801)
時は平安時代。
蝦夷征伐にて軍を率いて活躍した、征夷大将軍「坂上田村麻呂(さかのうえ・たむらまろ)」さま。
戦時にて、こちらを拠点としていた「田村麻呂」がその記念として創建したのが、正式名称「達谷窟毘沙門堂」、別名「達谷西光寺(たっこく・せいこうじ)」なのです。

縁起によりますと…
この洞穴に住み、民衆に悪逆非道の限りをつくしていたという蝦夷の「悪路王(あくろおう)」、「赤頭(あかがしら)」、「丸(たかまる)」…。

延暦二十年(801)
五十代「桓武天皇」の命によって出陣したのは、征夷大将軍「坂上田村麻呂」でした。
「悪路王」らは三千という兵を率いて駿河国まで進軍しましたが、大将軍出陣の報に接した彼らは恐れ、こちらの洞穴にまで引き返して守りを固めます。
そんな両者の間に起こった激戦の末に「田村麻呂」は打ち破り・勝利し、ついに蝦夷を平定したのでした。
この勝利を”毘沙門天のご加護である”と感じた彼が、創建したのです。

…一方的な言い分よね。
悪逆非道は置いといて、単に朝廷に服さなかった地方政権を撃滅したのではないかなぁ。

まぁ、だいたいそんなのよ。

それから時代は進んで、前九年・後三年の役。
こちらでは、河内源氏「源頼義」、その子八幡太郎「源義家」が戦勝祈願に訪れ、さらにその後には奥州藤原氏の初代「藤原清衡」、二代「藤原基衡」らが代々七堂伽藍を建立するなど、当時は広大な寺領もあったようなのです。

奥州合戦の帰路では「源頼朝」も参拝。
室町時代の大火にて一度焼失しておりますが、後に葛西氏によって再建。
しかし、戦国時代に入ると、兵火によって毘沙門堂以外をことごとく焼失し、「伊達正宗」の手による再建を待つこととなるのでした。


※もうちょっと接近すると、こんな感じ。

さて、こちらの「達谷窟毘沙門堂」は、お名前そのまま百〇八体もの「毘沙門天」を祀ったお堂です。
「毘沙門天」好きにはたまらん世界が広がっておるのです。
マニアとしてよく知られる「上杉謙信」も大満足でしょう(笑)

メインの「毘沙門堂」は、京都「清水寺」の舞台を真似たという九間四面の寺院。
現在のものは、昭和になってから再建されたものです。

「慈覚大師」作と言われる「吉祥天」「ぜんにし童士」を秘仏としており、こちらの次の開帳は平成二十二年だそうです。
行く際には、そちらの時期を狙うのもいいでしょう。

ほか、「生けるが如し」と称されるほどの弁財天、一木彫りの「不動明王」、次回あたりに紹介予定であります「岩面大佛」などがおわします。

なお、境内は御神域。
古くから殺生禁断地とされており、動植物の採取から飲食などは厳禁。
さらに、ペットを伴っての参拝…なんて方はあんまりいないと思いますが、多くの寺院同様こちらも禁止事項です。


[住所]
 岩手県西磐井郡平泉町平泉字北澤16 達谷窟毘沙門堂

[関連記事]  【 源氏祭り 】
⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
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岩手県の歴史散歩 (歴史散歩)

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※同じ”さんぽ”繋がりということで、こちら。
 いいトコでしたよぅー。


開催中!源氏夢回廊にびっくり (滋賀・石山寺)

2008年10月05日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
えー早速ですが、先日は滋賀へ行ってまいりました。
そちらでは「源氏物語」の生誕千年記念ということで各地にてイベントをやっておったんですね。
まぁ、ぶっちゃけ、さしてそちらに興味ないどころか、話すらよくわかっていないひでるさん。
平安貴族の成年漫画みたいなもんなんでしょ?
…失礼しました。

そんな訳で、「源氏物語千年紀in湖都大津」を開催中の石山寺へ行ってきました。
ひでるさん二度目の訪問です。
こちらは「源氏物語」執筆の地ということで、イベントの中心的役割をになっておりました。
確か前回行った際も着物だかなんだか展示会みたいなのをやっておりましたが、敷地の広い観光地であるためか、イベントちっくなお寺なんですね。



仁王門から入った光景は、なかなか圧巻。
素敵ですね。
当日は雨にも関わらず、多くの方が来られていました。

敷地内の「世尊院」、「明王院」、「密蔵院」、「吉祥院」、「公風園」にて、イベントスペース”源氏夢回廊”があります。
ひでるさんが行った時は、


千年の恋 ひかる源氏物語

TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D)

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■映画「千年の恋 ひかる源氏物語」 衣裳展
 きらびやかでした。「紫式部」を演じた「吉永小百合」さんの十二単を間近で見ましたよー。
 他はほぼスルー(笑)
 

新源氏物語 (上) (新潮文庫)
田辺 聖子
新潮社

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■田辺聖子「源氏物語」 文学館
 文学は置いといて、挿絵の白目の怖さが印象的でした。
 あれはいいのかなぁ…。
 小さい頃のひでるさんなら、絶対に直視できなかったと思います。


超合金魂GX-01R マジンガーZ

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■オリジナルロボット「MURASAKI」誕生

そう、最後の↑ソレですね。
会場入り口にて、
ロボットのデモンストレーションが十一時からです
とか不意に言われたんですね。

…は?
「石山寺」でロボット??
「源氏物語」でロボットとは???



どうやら、有名な方がこのイベントのために制作したロボットがあるらしいのです。
そのデモンストレーションがだいたい三十分後の十一時から行われるらしく、まるで夜の横浜のように散々に声をかけられるのでした。
なにしろ、途中の衣裳展を見ようとしたら、「もうすぐ始まるから」という理由で追い出される始末。

ごめんなさい、「源氏物語」と同様に、「ロボット」にもまるで興味ないひでるさんなのです。
「マジンガーZ」の等身大ロボが動くなら別なんですけどね。
そんな訳でどうにも逃げられず、見てきました。

ちとちと踊りながら歌うその様は、まるで「静御前」が目前に舞い降りたようでした。
…うそですが。
ちまちまっとした女性形体で可愛らしく、大したもんだなぁという感じ。
小さいお子さんは、目をキラキラさせて眺めていましたよ。

そんなんより、気になったのはマスコットキャラクター「おおつ光ルくん」
これまた、思わず脱毛、いや脱帽しそうなキャラですねー。
残念ながらその日はキャラ来ないということで、その代わりにショップへ行きましたが…あと一歩のところで踏み止まりました(笑)
ぬいぐるみどうしようか迷ってたんですけど。
野郎だしねぇ。



以上、こちらには二度目の訪問でしたが、なかなか楽しいこととなっておりました。
「源氏物語」が好きな方、あるいは「ロボット」好きな方、年末くらいまで続くようなので、紅葉素敵な時期に行ってみてはいかがでしょうか?


おまけ。
実は、最も衝撃だったもの。



……か、かふぇど げんじ って……………………。




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長齢寺 (石川県七尾市)

2008年09月04日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は石川県七尾市の「長齢寺(ちょうれいじ)」です。

さて、「お寺さんぽ」なんてタイトルとっつけながら、最近はなかなかお寺を紹介しないこのブログ(笑)
本日の訪問地はお寺に違いないんですが、こないだの滋賀県「大通寺」と同じく、どちらかというと”歴史ちっくなお寺”なのでした。

七尾市の散策コースとして、なかなか風情のある「山の寺瞑想の道」
JR七尾駅から「前田利家」の出世城「小丸山城址」を眺めた後に、てくてく徒歩で向かうのがちょうど良いでしょう。
(※若干遠めではありますが)

天正九年(1581)
加賀藩の祖「前田利家」は「織田信長」より能登国を拝領しました。
ちなみに「本能寺の変」は天正十年のことです。そのくらいな時代ですね。

城下建設の際、利家は「七尾城」の防御を目的に、真宗を除いた各宗派の寺院(笑)を配置したのでした。
設置当初は二十九の寺院が存在していましたが、現在残っているのは十六の寺院。

…そのうちの一つが、正式名称は「休獄山長齢寺」なのでした。
あちこちのお寺と違って、ちょっとよこしまな目的で建てられたお寺なんですねー。

利家は越前国高瀬は「宝円寺」の「大透和尚」を招き、開山としております。
そんな訳で、当初の名前は「宝円寺」
こちらは利家が能登にて建てた唯一の寺院ということで、前田家と非常に関係が深いのでした。
前田家の菩提寺として、父「前田利春」、母「長齢院」の墓が築かれております。
しかし、その後出世・加増された利家は居城を金沢へ移し、共に「宝円寺」も加賀へ移したのです。

七尾の地に残ったこちらは、利家の母「長齢妙久大姉」葬送の導師を勤めていたことなどから、父母の名をとって、「休獄山長齢寺」と改めたのでした。
(※利家の父「前田利春」の戒名が「休岳道機庵居士」なのです)



前田家とは縁が深いため、「前田利家(高徳院)」、嫡男「前田利長(端龍院)」の石廟ほか、宝物殿には一族の肖像画や、ゆかりの品々がならんでおりました。
お寺の方曰く、「檀家さんがいないので、観光・拝観だけなんですよー」とのこと。
こちらを存続させるためにも、歴史ファンな方にはぜひ訪れてほしいお寺です。
ちなみに拝観は大人四百円です。


[住所]
 山の寺瞑想の道 石川県七尾市小島町

[関連記事]
⇒ 意外と知らない信長死後 「清洲会議」 [    
⇒ 奮戦・前田利家「末森城合戦」 前編 後編
⇒ まつさん[芳春院] 前編 後編


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※出世して、すっかり有名人となった「前田利家」です。
 持つべきものは友達ですね。

大通寺 (滋賀)

2008年08月24日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は滋賀賢長浜市の大寺院「大通寺」です。

「豊臣秀吉」の居城として有名な「長浜城」
…そちらへ行ったら、ぜひぜひ立ち寄ってほしいお寺がこちら、「大通寺」なのです。
お寺自身もそうですが、山門前に広がる門前町「ながはま御坊表参道」には様々な店が懐かしい雰囲気を残したままの良い風情で、気持ちから歴史にどっぷりと浸れます。
オススメですよん。

さて、そんな訳で、別名を「長浜御坊(ながはまごぼう)」、正式名は「真宗大谷派長浜別院大通寺」です。
…長浜御坊?
そうした単語で引っ掛かった貴方は、ひでると同じ戦国ファン。

そうなんです、こちらはお寺というより歴史好きな方が狂喜乱舞する(かもしれない)お寺なのでした。

浄土真宗の布教をする異人「蓮如上人」(※信長の野望ちっくに言うと「本願寺兼壽」)
当時の近江国(滋賀県)は、最大の布教拠点でした。
そのうち、坂田、浅井、伊香という湖北三郡ではよく教えは浸透し、いつしか”真宗王国”と呼ばれるほどになるのです。
そちら湖北三郡の中核が、「長浜の御坊さん」と呼ばれていた、こちら「大通寺」だったのです。

もともと、こちらはいわゆる寺ではありませんでした。
天正時代の初期頃ということですから、まさに戦国時代の真っただ中のこと。
天下統一をすすめる時の権力者「織田信長」は、ある難敵に出会っておりました。

信長と対決した武将らは色々おりますが、おそらく信長当人がもっとも嫌だった(と思う)のが、石山本願寺を本拠とする、一向衆(一向宗)門徒でしょう。
戦国好きにはお馴染みですね。

さて、信長と対立する、一向衆は本願寺一派。
滋賀の僧たちが”籠城した「石山本願寺」の支援の協議を行う”ため、長浜に寄合道場を設置したんですが…これが「大通寺」の起こりなのでした。

当ブログで紹介した寺院中で、最も純粋でない切っ掛けなのですよ(笑)
まぁ、戦国時代ですからねー。

天正八年(1580)
当時の本願寺法主「顕如上人(※信長の野望ちっくに言うと「本願寺光佐」)」と信長の間には和睦が成立しました。

約十年という長期戦であった「石山合戦」はこうして終結したのです。
しかし、その嫡男「教如上人(※信長の野望ちっくに言うと「本願寺光寿」)」はあくまでも徹底抗戦を主張。
こちらの「大通寺」もそれに応じ、「教如上人」と共に戦ったのでした。
(※さらに一部では籠城戦が続いていたのだとか…)


※ながはま御坊表参道からの風景です。

慶長七年(1602)
「徳川家康」より許可を得た「教如上人」は側近を集め、別に大谷派本願寺(東本願寺)を興しました。
これが本願寺分立の切っ掛けなのです。

それに合わせ、長浜の旧地に移っていたこちらも道場から「無礙智山(むげちざん)大通寺」と号する寺院として発足したのです。
以後、彦根藩「井伊直孝」の援助を得るなどして発展し、真宗大谷派の別格寺院となっていくのでした。

そんな、歴史要素いっぱいな「大通寺」
脇門はなんと旧長浜城の大手門、梵鐘は南北朝時代のもので県指定。
遠くからも目を引く立派な山門は江戸時代のもので、なんと三十三年もかかったという巨大建築物になっています。
ぜひ、歴史要素がいっぱいにつまった、こちらを訪れてみて下さい。


[住所]
 大通寺 滋賀県長浜市元浜町32-9


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※追加情報をば。
 本願寺でプレイしても、任意に”一向一揆”は起こせませんでした。(自動になる)
 残念!
 また、合戦では政治・教養の高い武将を連れていけば計略系の戦術を避ける確率が上がるようでした。


中尊寺 (岩手・平泉)

2008年07月17日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日の紹介は「奥州・藤原氏」…と言って、おそらく最初に思い出される(かもしれない)、特別史跡「中尊寺(ちゅうそんじ)」なのです。
ちなみに、同名の漫画家さんもそうした連想(藤原→中尊寺)で名前をつけたのだとか。

いやぁ、行きたかったんですよねー、岩手県は平泉の地。
こちらの「中尊寺」は世界遺産登録に頑張っているようで、現在は暫定リストに入っているとのこと。
ひでるさん的にはどーでもいいことですが、やっぱり世界遺産ともなると来客数とか増えるんでしょうかねぇ?

…とかなんとか書いてたら、↓こーんな記事が…。

--------------- [ おまけ ] -------------------

■平泉「落選」、世界遺産戦略見直し
 [読売新聞] 2008年7月8日

 カナダ・ケベックで開催中の国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会で6日午後(日本時間7日午前)、日本政府が世界遺産に推薦していた「平泉の文化遺産」(岩手県)の登録延期が決まった。
 登録申請のあり方を巡り、政府や自治体に戦略の見直しが求められている。
(ケベックで 青木佐知子)

 次の登録のチャンスは最短でも2年後。「審査を厳しくするという傾向が加速している。気を引き締めて推薦書を作り直さなければ」。世界遺産委員会の審査後、記者会見した近藤誠一・ユネスコ大使(62)は口元を引き締めた。
 日本政府は審査直前まで、委員会メンバーの大使ら21人に外交攻勢を続けた。審査の場では、ユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議」の登録延期勧告について、途上国の大使ら計12人から「勧告は尊重するが、何とか別の評価にはならないか」などと援護射撃を受けたが、結果は出なかった。
 世界遺産委員会の会場には、次の推薦を狙う文化庁の「暫定リスト」に名を連ねる自治体の職員も姿を見せた。

 「世界遺産登録を目指す仲間として、期待していただけに残念」。昨年1月に「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が暫定リスト入りした長崎県の担当者は悔しがった。平泉の登録延期で、国内での審査スケジュールが遅れる事態も予想される。「今回の審議内容を分析し、できるだけ早い時期の登録を目指したい」と話した。
 昨年10月現在、登録された世界遺産は851件。
---------------------------------- 。。。



さて、そんなこんなで「中尊寺」は天台宗の東北大本山です。
今はこうして岩手いや、東北地方での代表的なお寺にまでなっておりますが、その歴史は決して平坦なものではありませんでした…。

嘉祥三年(850)は平安時代の初期頃。
”慈覚大師”こと「円仁」によって開かれた…と、されているようです。
その頃は「中尊寺」ではなく、「弘台寿院」という名前だったようですが、詳しいことは例によって不確かみたい。
誰だって有名人の加護を受けたいものですよ。

正確なところになると、長治二年(1105)…はちょうど平安から鎌倉時代へうつるころ。
奥州藤原氏の初代「藤原清衡(ふじわらの・きよひら)」は、「後三年の役」を生き抜いたことによって、奥六郡を領する大勢力の当主となりました。

清衡は前九年・後三年と東北地方にて続いた戦乱にて亡くなった人々の霊を慰め、仏国土を建設するという願いのため、多宝塔や二階大堂など多くの堂塔を造営するのでした。
寺号が「中尊寺」となったのも、この頃のようです。
(※寺伝そのままだと、貞観元年(859)、清和天皇より「中尊寺」の号を賜った、とされています)

初代清衡以降、二代「藤原基衡」、三代「藤原秀衡」と建設はすすみ、歴史書「吾妻鏡」によると、
寺塔四十余宇、禅坊三百余宇
…と伝えられ、いつの間にやら、まさに奥州屈指の大寺院たる規模となっていたのでした。
ちなみに、現存しているのは残念ながら天治元年(1124)制作の「金色堂」だけなのですが。
こちらの説明はまた後日。

さて、文治五年(1189)
平家を滅ぼした「源頼朝」は続いて東北へ兵を出し、奥州を百年という長きに渡って統治していた藤原氏は四代「藤原泰衡」にて滅亡してしまいました。
それと共に、最大の保護者を失った平泉の各寺院は急速に衰退。

鎌倉時代には御家人「葛西清重」、頼朝の妻「北条政子」、南北朝時代には「北畠顕家」など、各将によって管理・修復をされていたようですが荒廃はとまらず、さらに建武四年(1337)での野火ほか度重なる火災によって、堂塔のほとんどを焼失してしまうこととなるのです。

江戸時代には、このあたりは伊達藩領となっておりました。
ここで伊達氏の保護を受けた「中尊寺」は、ここでようやく堂塔などを補修・再建されるのでした。

さらに、明治に入ってから「金色堂」が国宝建造物第一号に指定されたほか、火災などから守られた三千余点の宝物が国宝・重要文化財の指定を受けるのでした。
なお、天台宗東北大本山の称号を許されるのも、昭和に入ってからのことです。

宝物館「讃衡蔵(さんこうぞう)」には、「木造・阿弥陀如来像」「木造・薬師如来像」「木造・薬師如来像」という三体の丈六仏ほか、奥州・藤原氏三代の文化財などが収蔵されております。
再建された「本堂」には、総本山「比叡山延暦寺」より分火された、千二百年も燈り続けている「不滅の法燈」があるのでした。
 

[住所]
 中尊寺 岩手県平泉町衣関202

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中尊寺・毛越寺 JTBキャンブックス
田中 昭三
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※そんなこんなで中尊寺。
 一度は見たいお寺ですよねー。


石山寺 (滋賀)

2008年07月10日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は滋賀県でのオススメスポット「石山寺(いしやまでら)」です。
多くの有名人に愛されただけあって、四季の草木から特徴的な硅灰石(けいかいせき)まで、大変景観に優れたお寺です。
お寺好き、歴史好きだけでなく、一般の観光スポットとしても大プッシュなのでした。

琵琶湖から流れる瀬田川沿いにある大本山「石山寺」
天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元年(749?)頃。
第四十五代「聖武天皇」の勅願によって、「良弁僧正」が開山したお寺なのでした。
えらく歴史があるのですよ。
ちなみに、あまり耳にしないだろう「良弁僧正」ですが、実はこの方「奈良の大仏」こと「盧舎那仏像」のある「東大寺」も開山された方です。
その奈良時代から、”観音の霊地(※本尊は重文「如意輪観音」、通常は非公開の秘仏)”とされ、特に平安時代になってからは多くの有名人が訪れ、「枕草子」「更級日記」ほかたびたび当時の文学にも登場しております。

ちなみに、七日間ほど滞在・参拝した「紫式部」は、ここでその構想がまとまったらしく、堂内にある「源氏の間」は「源氏物語」を執筆したところとされております。
このように、朝廷や貴族と結びつき尊敬を集め、西国巡礼十三番の札所にも指定されるのでした。



本堂の内陣(ないじん)は平安中期から残る木造建築最古(※滋賀賢でね)のもので、当然ながら国宝。
ちなみに、外陣(げじん)は例によって「淀君」の寄進により修補されたものでした…ああっ。

どこかインドちっくな面影の「大日如来」は、鎌倉時代・快慶作と言われて重文。
さらに、その「大日如来」が安置されている「多宝塔」も、やはり鎌倉時代からの建物でこちらは国宝です。
鐘楼、東大門も共に重文で、鎌倉時代のもの。
なお、それら鎌倉期のものは、建久元年(1190)ころ「源頼朝」の寄進によって創建されました。

承暦二年(1078)の落雷、「織田信長」と争う将軍「足利義昭」が布陣したことで天正元年(1573)には兵火に遭っておりますが、比較的合戦・災害などは少ないらしく、また「源頼朝」、「足利尊氏」、「淀君」など時の権力者から後援を受けたことで、建造物から書物に至るまで貴重なものが多く現存するのでした。

なにより、最も特徴的なのが境内の奇石「硅灰石(けいかいせき)」
説明をそのまま抜粋すると…”石灰岩(せっかいがん)が地中から突出した花崗岩(かこうがん)と接触し、その熱によって変質したもの”とのこと。
よく分かんないですが、通常は大理石となるらしく、こうした大きな「硅灰石」となるのは珍しいのだとか。
当然ながら、石山寺の「石山」はここから採用されたもので、天然記念物に指定されております。



かなりの広さがあるお寺で、注目すべき個所は他にも多く、「石山観音」の化身と言われた「蓮如上人」の母がため、形見とされる蓮如「鹿の子の小袖」が本堂下の御堂に安置。
かくれ谷は平家相手に戦った、「悪源太」の名でも知られる「源義平(みなもとのよしひら)」が潜伏していた場所とされております。
さらに「松尾芭蕉」も滞在しており、ここで多くの句を残しているのでした。

 「 石山の 石にたばしる あられかな 」

[住所]
 石山寺 滋賀県大津市石山寺1-1-1
※「石山寺駅」下車後、徒歩十分。

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※いまやDSでも「源氏物語」です。
 さぞ「紫式部」もびっくりしているでしょう。

壬生寺 (京都)

2008年05月29日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、ちょっと読むのに戸惑いそうな「壬生寺(みぶでら)」です。

京都に住んでいた際は、某番組の影響もあってさながら新撰組フィーバー状態でした。
しかし、そんなんはどーでもよかったひでるさん。
なにせ江戸時代が嫌いなうえ、思想だのなんだのとややこしい幕末期も苦手だったため、詳しくないんですね。
当然、このお寺にも特別な思い入れはありませんでした。
そんな訳で、近所なので存在は知っていながら行かなかったのが、「壬生寺」だったのです。



こちらは律宗総本山「唐招提寺」の末寺。
本尊は重文「地蔵菩薩立像」、ほか水掛け地蔵や夜啼き地蔵などもあり、どちらかというと”お地蔵さんのお寺”として有名だったようです。

西暦二年(991)
平安時代で、藤原氏が摂関政治でブイブイ言わせている頃のこと。
(※ちょうど、漫画「暴れん坊少納言(下記↓)」の時代です。気軽に勉強したい方にはオススメ)
近江・三井寺(園城寺)の「快賢僧都(かいけん・そうず)」によって創建されました。
仏師「定朝(じょうちょう)」に「地蔵菩薩」を造らせ、それを本尊としたのが始まりなのだとか。
そんな訳か、昔は「地蔵院」、あるいは「宝憧三昧寺(ほうどうさんまいじ)」、「心浄光院」などと呼ばれていたようです。

正元元年(1259)鎌倉時代
火災によって堂宇を焼失しておりましたが、「平政平(たいらのまさひら)」によって再建されました。
しかし、「平政平」ってなんだか冗談みたいな、しつっこい名前ですね(笑)
かなり興味わいたので、彼は何者?…と思って調べてみましたが…………コレがまったくの不明。
ざーっと系図を見ていて、「政」「平」という字の方がほとんど不在であること(正、衡ならいるんですが…)だけ分かりました。
おそらくは、各地へ色々散らばっていた、マイナー系な平氏の方なのかもしれませんね。

ともかく、その「政平」によって再建され、「十一面観世音菩薩」がおさめられたことで”洛陽三十三所観音巡礼の第二八番札所”になったのです。

その後、正安二年(1300)には、大念仏会が「円覚上人」によって行われています。
その際に上演された、仏の教えを無言劇にした「壬生狂言(大念仏狂言)」(※重要無形文化財)が民衆の心をとらえ、大いに栄えていくこととなるのです。
ややこしい説法聞かされるより、確かにその方が効果的でしょうねぇ。
現代でも、道路の良さを伝えるためのミュージカルをやっていたようですし(笑)

さて、現在でも行われている「壬生狂言」は、声が届きにくかった昔、見にきた全員に分かりやすくするため大げさな身振り手振りで表現されたものなのだとか。
江戸時代になると娯楽性のほうが重視され、仏の教え~という色は薄まっていったようですが。

境内北門の隣にある舞台「大念仏堂」は安政三年(1856)のもの。こちらは重文。
本堂は昭和になって焼失したため、現在ものは昭和四十五年に再建されたものでした。
なお、本尊であった「地蔵菩薩半跏像」も本堂と共に焼失しており、現在は総本山「唐招提寺」にあったお地蔵様を移しているそうです。

前述のとおり、現在は”新撰組ゆかりの寺”として、やたら有名なお寺ですね。
私も友人の希望で連れられて行きました。

境内で大砲、剣術や馬術などの特訓をした記録があり、ミニパビリオンちっくな壬生塚には「近藤勇」の胸像(※↑写真)や「芹沢鴨」「平山五郎」などの墓があったり、資料室があったり、新撰組にまつわる逸話を紹介しておりました。
果ては「三橋美智也」さんまでいたりしますよー。



新撰組ファンか、地蔵ファン(そんなんいないか)なら、オススメなお寺ですね。
四条大宮駅からはそこそこ距離あり、道入ったやや見つけづらい場所なのでご注意を。


[住所]
 壬生寺 京都市中京区ボウ城通り仏光寺北入る


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※コレです、これ。
 平安時代を楽しく気軽に触れることができる、数少ない入門漫画です。
いきなり事柄だー、人物だー説明されても頭には入りません。
 まずはこんなんがオススメです。

宝泉院 (京都・大原)

2008年05月01日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都は大原の「宝泉院(ほうせんいん)」です。

京都の北のさらに奥
緑溢れる庭園とお抹茶で心と身体を癒す寺院があるという…
その名も「宝泉院」


…ということで。
長和二年(1012)とは、平安時代後期頃のこと。
ときの「寂源」は、過去「円仁」によって創建されたという「大原寺(勝林院)」を再興しました。
そちらの住職の坊(居所ね)として、構えられたのが「宝泉院」なのでした。

江戸時代頃には4箇所ほどあったそうですが、現在に至っているのはこちら「宝泉院」と「実光院」だけなんだとか。

長い時代を生き抜いてきたということで、「三千院」参拝のおまけにしては色々見どころの多いお寺になっております。
とりあえず目につくのが、京都市内にある著名な松の一つであるという「五葉の松」
こちらは市指定の天然記念物で、樹齢七百年という見事なもの。

立ち去り難いという意味をもつ「盤桓園(ばんかんえん)」こと「額縁庭園」、江戸時代の中期頃の「鶴亀庭園」など、どちらかと言うと庭系なお寺になっております。
確かに風情のある、癒しな空間が広がっておりました。

…が。
やっぱり庭とかはよく分かりませんね~。
また、平成十七年に作られたという新スポット、「宝楽園(ほうらくえん)」は緑と石で順路も複雑で、どことなくアスレチックな風情でした。
遊び場として最適、みたいな感覚よ。
パンフレットには”仏神岩組霊海流水回遊花庭”を趣向し…とか書いてありましたが、なんのこっちゃよくわからん(笑)

まぁ、あたりをふらふらしたひでるさんが感じた、何倍ものややこしい意思が詰め込まれたものであるようです。

そんなんですね。
前述しているように、もともとの起源が居住スぺースであったためか、三千院付近の探索を一時中断し、ほっと一息つくような存在になっております。
拝観料は大人八百円とやや高めではありますが、お菓子・お抹茶付。
出されるお菓子は「若狭屋」さん手作りの和菓子らしく、お抹茶とよく合って美味しく頂きました。
(※若狭屋末則:〒606-8174 京都府京都市左京区一乗寺染殿町15-2 075-722-4048 →HPはないみたい)



…なお、その当日はまったく気付きもしませんでしたが、実はこちら”血天井シリーズ”の一つでもありました。
後でパンフ見て気付いたんですよ。

慶長五年(1600)
関ヶ原合戦前、徳川の武将「鳥居元忠」以下数百名が西軍の大軍と戦い、伏見城で自刃しました。
そんな死者たちの霊をなぐさめ、供養のため自刃した場所のものを天井として祀ったもの…
それこそが「血天井」

こんなほんわか空間でありながら、ずいぶん物騒なもの天井にしていたんですねー。
夜とか行きたくない感じですよ。
(↑行きませんが。…ちなみに、ライトアップされるイベントなどもあり、その時期なら夜に拝観できます。こわそう)


[関連記事] ※血天井シリーズ
⇒ 正伝寺 (京都)
⇒ 養源院 (京都)

[住所]
 宝泉院 京都府京都市左京区大原勝林院町187


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植治七代目小川治兵衞―手を加えた自然にこそ自然がある (シリーズ京の庭の巨匠たち 2)

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※こんなんかなぁ…。
 いずれは、庭を見て何かを感じ取れるようになりたいものですが…相当先のことかなぁ。

田谷の洞窟・体験記 定泉寺 (神奈川県横浜市)

2008年04月13日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、魅惑の洞窟体験「リアル・ドラゴンクエスト」が楽しめる、神奈川県横浜市は”田谷の洞窟”で有名な「定泉寺」です。

ロールプレイングゲーム(※いわゆるRPG)をよくやられる方にはお馴染みな単語「洞窟」
ただ、実際にそちらへ入ったことがある方というのは、なかなかいないでしょう。…たぶん。おそらく。

やっぱり、物事というのは画面を眺めているだけでなく、実際に体験してみることこそが重要だと思うのです。
ぜひ、お寺好きな世の中のお父様には、ゲームをしているお子様の手を引いて、訪れてほしい場所ですね。

たづね入る 心深くば みほとけに
               あいなむ ここは 観法の洞

田谷の洞窟、正式には「田谷山瑜伽洞(たややまゆがどう)」と言います。
こちらは鎌倉時代の初期頃に開創(かいそう:初めてその寺を開くこと)された、鶴ヶ丘廿五坊(※二十五坊)の修禅道場なのです。

江戸時代までの間にちょくちょく拡張されたらしく、現在では上下三段、総延長1kmという、長さ壮大な規模となりました。
地質は粘板岩の巨大な一枚岩。
往時最先端な土木技術が使われたという合理的な構造で、あちこちの大地震でも崩れることなく、現在に至っているそうです。

本尊は「弘法大師」で、四国、西国、秩父、板東という各札所、両界曼荼羅諸尊、十八羅漢、五大明王などなど、洞窟内には数百体という仏さまらがおられます。
今も無言の説法を続けている」とはパンフの文句でした。

…と、当たり障りないことは誰も望んでいないと思いますので、体験記をば。



訪れたのは異常に暑かった真夏ではないですが、当日は快晴でじんわりとした暑さでした。

しかし、洞窟入り口付近に立つと、まるでデパート前のようにひんやりとした空気が…。
(※あれほど強烈ではないですが)
そう、洞窟内は実に心地よい涼しさで、どこからかのすぅーという涼しい風もありました。
あまり薄着であると、ちょっと寒く感じるかもしれません。

入り口にてローソクを灯し、それを片手に奥へ進みます。
ちょっと探検ちっくですね。
ドラキーとか、出てきそうですよ。(←でねぇよ)

実際は洞窟内はところどころに明かりがあるので、ローソクが消えても問題ないです。
しかし、道のいたるところにある訳でなく、またさほど明るい訳でもないので、そちらだけでは彫られた石仏もはっきりとは見えません。
やっぱり気分的にも、頑張って消さずに進む方が楽しい(笑)と思います。

…前述したように、洞窟内は風があり、歩く早さで火が消えたりするという、スリリングな感覚でした。
うまーく火を守らないと、あっさり消えちゃいますよ。

道が上下したり、凸凹していたり、水が流れていたり、と安定した足場ばかりではないので、ちょっと注意が必要。
特に女性の方は靴に気をつけて。ハイヒールだと転ぶぞ。

ゆっくり進めば三十分くらいかなー…、一人で行くとやや不安になるだろう程度の長さです。
結構入り組んでいるので、うっかりすると無限ループのようにぐるぐるしちゃいますので注意。
(※看板ありますけどね)


[住所]
定泉寺(田谷の洞窟) 神奈川県横浜市栄区田谷町1501
※アクセス:大船駅・観音側より戸塚バスセンター行き、洞窟前下車。
       徒歩でも問題ないですが、坂でそれなりに距離があるので覚悟が必要よ。

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ドラゴンクエストIV 導かれし者たち

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※そんなこんなで、洞窟と言ったらやっぱりRPGですよね。
 珍しく、お子様ねも楽しめるお寺だと思います。

泉涌寺 (京都)

2008年03月13日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都は東山区の「泉涌寺(せんにゅうじ)」です。
一般の知名度はそれほどでもないでしょうけれど、実はけっこうレアな仏像のある、オススメ寺なのです。
近い方ならさんぽ気分で…って、あまりいないでしょうから、修学旅行コースのような京都旅行に飽きた方にはいいと思います。

こちら「泉涌寺」は真言宗泉涌寺派の総本山。
過去に当ブログで紹介しました、秘蔵・魅惑なレア仏「楊貴妃観音像」を所持しているお寺なんですね。
また、東山三十六峰のひとつでもあります。

こちらの由来は天長年間(820年頃)に弘法大師こと「空海」がこの地に結んだ庵とされています。
当初「法輪寺」と名付けられたこちらは、後に「仙遊寺」と改称。
ざっと見た感じ、このあたりの伝承はやや不確かであるようです。
確かなのは次のくだりから。

時代は進んで建保六年(1218)
鎌倉時代、「順徳天皇」の代にて「月輪大師・俊芿(しゅんじょう)」が開山しました。
この「俊芿」は出自不確かですが、若くして仏門に入っておりました。
戒律(かいりつ:宗教上で守るべきもの)を重んじ、中国の「宋」に渡って「律」を中心に、深く仏法の奥義を極めます。
(※当時の日本は武士が力を持った時代の転換期で「末法思想」の影響もあり、そういったものが軽視される風潮であったようなのです
帰国後は「源頼朝」の元へ馳せ参じていた下野国の武士「中原(宇都宮)信房」の求めによって、はるか豊前国(福岡県東部)まで赴き、生前法要の重要性を説きました。
(※たびたびでごめんなさい、戦後の恩賞として、北九州に領地を与えられていた様子)

結果、「信房」は深く帰依し、「俊芿」へ寄進したのが、現在のこの地であるようなのです。
大規模なお布施として、頂いた土地なんですね。
わざわざ出向いただけのことはありました(笑)

「俊芿」はこちらに「宋」の法式を取り入れた大伽藍を築きます。
先の話が真実であれば、荒廃していた「仙遊寺」をリニューアルしたのでしょう。
ともかく、土地の一部から水が湧き出た事から、寺号を今の「泉涌寺」と改めたのでした。
なお、この泉は今も湧き続けております。

さて、「泉涌寺」において、目標であった”戒律の復興”を計り、「律」を基本として天台宗・真言宗・禅宗・浄土宗、という”四宗兼学”の道場となりました。
時の皇室からも深く帰依され、皇族の祈願寺とされたことを切っ掛けとして結びつきを強め、「月輪大師」の生まれ変わりと称された「四条天皇」が仁治三年(1242)に崩御されると、当寺に葬られました。
それからは歴代天皇の山陵(さんりょう:天皇家のお墓です)がこの地に営まれるようになり、菩提所として篤い信仰を集めるようになったのでした。
こちらが「御寺(みてら)」と呼称されるのはそうした理由なの。
まぁ、しっかり戒律を実践したことで寺内外が清浄となったこと、簡単に言えば”ちゃんとしていた”ことが要因の一つなのでしょう。

境内には仏殿・舎利殿をはじめ、「天智天皇」以降の歴代天皇、皇族の御尊牌祀る霊明殿などの伽藍が配されております。
仏殿は寛文八年(1668)江戸時代に「徳川家綱」により再建されたもの。
天井にある「狩野山雪」の龍は「鳴龍」として知られ、釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来という過去・現在・未来の三尊が安置されているのでした。


[住所]
泉涌寺 京都市東山区泉涌寺山内町27

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※はっきり言ってこのシリーズはどうでもいいと思っていましたが…「源義経」が登場するようです!
 参考⇒無双OROCHI 魔王再臨 HP
 やばい、そうなると話は別ですよっ!


金峯山寺 (奈良)

2008年02月07日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、奈良のずっと奥。
山岳信仰の聖地にして、金峯山修験本宗の総本山という、総本山シリーズ(そんなのない)のひとつ「金峯山寺(きんぷせんじ)」です。

12月という、身も凍るさむーい時期に、桜の名所で知られる吉野山へと赴いたひでるさん。
相変わらずの考えなしです。
まっったくのシーズンオフなのですよ。
周囲ガラガラ(※それでも年末だったためか、そこそこ人がおりましたけれど)なのはいいんですが、とかく寒い。

またその日は風も強かったので、体感気温は極上でした。
しかも、のんびりお寺めぐるだけでもしんどい状況なのに、軽く雪なんぞがちらほらと(笑)
…はっきり言って、寒い時期はオススメしません。
よくもまぁ、「後醍醐天皇」はこんなとこに住んでいたなぁ、と思いましたよ。
(※南北朝時代、こちらは南朝の本拠地でした)

春は「吉野山のさくら」が有名でやたら混み合うそうですが、やっぱり一般的な方はそちら。
ゆっくり見回りたい方は、夏とかのがいいかもしれませんね。

そんなこんなで「金峯山寺」です。
まだ白鳳年間(661~683?)という、奈良時代・平安時代よりもさらに前という昔のお話。
(※有名な事件では、「壬申の乱(672)」などがありました)

昔、山地というのは”神聖な場所”として人々に捉えられておりました。
特に、ここ奈良県南部の吉野あたりは、当時流行っていた山岳修行の場所として、多くの修行者が山に入っていたようなのです。
その修行者の中には、のちに「神変大菩薩」の号を賜ることとなる「役小角(えんのおづぬ)」の姿もありました。

さて、「金峯山」にて厳しい修行をした小角は、ついに「蔵王権現」を感得するに至ります。
その姿を桜の木に刻み、お堂を建ててお祀りするのでした。
…と、そのお堂こそが、現在にも残る「蔵王堂」のはじまりであり、山頂付近の「大峯山寺(おおみねさんじ)」、山麓の「金峯山寺」両寺の開創であるようのです!

まぁ、あまりに事柄が古すぎるので、どこまでが本当かは不明です。
小角くんが実在人物で、活動このあたりだったことを考えれば、なんらかの形でかかわっていたというのは間違いでないかもしれません。たぶん。
主に整備がされたのは平安時代頃のようで、修験道霊場として皇族を筆頭に参詣者を集め、発展していきました。
室町時代あたりでは、他の寺院同様に僧兵を擁し、かなりの勢力を持っていたのでした。
先に触れておりますが、「後醍醐天皇」が吉野へ下ったのはそうした事情もあるようです。
切実なんです。
寒いとか言ってる場合ではないのですよ(笑)

そんな訳で、こちらの本尊は小角くんのオリジナル仏像であります、「蔵王権現」が本尊なのでした。
ちなみに「蔵王権現」さまの詳細については、こちらのブログで過去に紹介してますんで、参照下さい。
簡単には、「釈迦如来」、「千手観音菩薩」、「弥勒菩薩」という三尊が過去から未来に至るまでを救済するため、悪魔降伏の憤怒相で出現したというお方です。
明王部がお好きな方はその荒々しく、躍動感あるお姿に見惚れることでしょう。
こちら、天正二十年(1592)豊臣家の寄進によって再興・建立されたという国宝、巨大な本堂「蔵王堂」には三体の「蔵王権現」がおわします。
七メートルを超えるという大きな仏像であるそうなんですが…残念ながら、秘仏でした。
世界遺産登録のあたりでご開帳あったようなんですが、見れた方はラッキー。
日本最大秘仏とかHPに紹介されておりましたが、なるほど確かにそんだけ大きい秘仏というのは他にないかもしれませんね。

また、参道から見える、見上げるほど巨大な仁王門も国宝。
ほか境内には「後醍醐天皇」の仮のお住まいであった、南朝妙法殿があったりします。
歴史好き、お寺好きのどちらも注目なスポットと言えるでしょう。


[住所]
 金峯山寺 奈良県吉野郡吉野町吉野山

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日本の歴史〈9〉南北朝の動乱 (中公文庫)
佐藤 進一
中央公論新社

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※そんな訳でひでる勉強中・南北朝歴史本なのです。
 ↑あの絵は有名ですが、尊氏くんではないんだってねー。

因幡薬師・平等寺 (京都)

2008年01月18日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都・烏丸駅、地下鉄烏丸線・五条駅よりすぐ近く因幡薬師こと「平等寺」です。
これが「院」となると超有名寺院になるんですけれどねぇ。
まぁ、こちら「平等寺」も日本三如来の一つとして数えられているんですが。

ちなみに皆さん気になる(…ならない?)日本三如来ってーのは、京都・嵯峨釈迦堂の「釈迦如来像」、長野・善光寺の「阿弥陀如来像」、そしてここ平等寺の本尊「薬師如来像」(※)なのです。

この薬師様は、長徳三年(997)というから平安時代のこと。
因幡国(※現在の鳥取県東部)の国司であった「橘行平(たちばなの・ゆきひら)」は勅命の途中で病を発し、寝込んでしまいます。
そんな行平の枕元にすぅーっとオヤシロ様…でなくてが現われました。
この国の海中に木があるから、引き上げて供養すれば病気も治るよん
みたいなことを言われ、行平はふと目覚めるのです。

そのお告げに従って因幡国は賀留津(かるつ)に赴くと、その海中から一体の「薬師如来像」を引き上げるのでした。
残る「因幡堂縁起」によると、像は仮堂に安置し、無事病の治った行平は京都の自邸へと戻るんですが、それを追うようにしてなぜか薬師如来像も京都に飛来(笑)、その自宅に入ったのです。

はー…すごい・すごい(棒読み)

逆に、もし仮にこれが本当だとしたら、呪われている可能性もありますよね。
…ごめんなさい、軽いジョークですよ。

さて、猫に餌あげたら自宅までついてきた、みたいに付きまとわれてしまった行平は自宅を改造してこれを祀るのでした。
これが「平等寺」の起こりです。

その嘘話…じゃなくて噂話(笑)は広く親しまれ、それ聞きつけた民衆からなんと天皇家までが参拝、深く信仰されることとなるのでした。

承安元年(1171)には、なんと高倉天皇より「平等寺」の勅額を賜ることとなるのです。
その後、一遍聖人が布教の際の起点とし、猿楽興行や歌舞伎興行(江戸時代)、また浄瑠璃発祥の地ともいわれるほど、京都の民衆らに親しまれる町堂となっていくのでした。

同時に、度重なる火災にも遭った結果、寺領は次第に小さくなり、明治維新の際にはなんと堂宇が灰燼に帰すこととなるのです。

本堂が復興したのは明治十九年のことだそうで、こちらが現在の本堂となっているのでした。
薬師様は運良くそんな火災からも逃れ、当時の面影を今に残しておられます。
こちらは一木造りの立像で、左手にちょこんと薬箱を乗せておるのでした。


(※)本尊「薬師如来像」は通常非公開。
   八月八日・四月八日午後の特別公開。


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[住所]
 平等寺(因幡堂) 京都市下京区烏丸松原上ル東入ル因幡堂町728
※後方ビルとのギャップが素敵でしょ?

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 仏の素顔って!?

義仲寺 (滋賀)

2008年01月10日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は滋賀は大津の「義仲寺」です。

きました、源氏ファン憧れの「義仲寺」
ひでるさんはずっと「よしなかでら」と読んでいましたが、正確には「ぎちゅうじ」だそうです。
毎度のことですが、むやみやたら人に喋らなくて良かったですね(笑)

さて、歴史にまっったく興味ない方でもおそらく名前は知っている(たぶん)だろう、「木曾義仲(きそ・よしなか)」さま。
いわゆる判官びいきというのも手伝って、現代では「源義経」の名前のが知られていますが、実際に平家の大軍に真っ向から立ち向かい、撃退・勝利したのはこの「木曾義仲」さま率いる軍勢なのでした。

一時期は「征夷大将軍」に任命され、「旭将軍」と呼ばれた清和源氏の「木曾義仲」さま。
しかし、後に色々あって衰退。
「源頼朝」勢に追われた「木曾義仲」は「宇治川の戦い」に敗北。
粟津原(あわづはら)と言われたこの地で、壮絶な討死をするのでした。

さて、その後粟津原に一人の尼層が訪れ、「木曾義仲」ほか戦死者を供養したのだそうです。
…この尼こそ、「木曾義仲」と共に戦地に立った愛妾「巴御前」だったのでした。
ああ、ラブラブですね~いい話です。
と、これが「巴寺」、あるいは「巴御前」が自分のを名乗らなかったことから「無名庵」などと呼ばれる由来なのだそうです。
そこから察するに、庵みたいなものは昔からあったようですね。

そんな「木曾義仲」さまを葬った塚、庵のあった場所に、近江を支配していた六角氏が修復拡大し、「義仲寺」を建立したと伝えられています。
室町時代末期といいますから、戦国時代初期頃なのかな。
六角氏、グッジョブです。

なお、その頃の境内は今と違ってかなり広大だったみたいなのです。
「義仲」とこの周辺の景色を愛した「松尾芭蕉」はこちらに度々訪れ滞在すること多く、大坂にて亡くなった後は生前の遺言によってこちらに墓が建てられたのでした。
木曾殿と背中合わせの寒さかな
…という有名な句ですが、これ「松尾芭蕉」のものでなく、門人「又玄(ゆうげん)」のものなんだって。
へー。

現在の境内には、「木曾義仲」の墓、「巴塚」、「義仲」の妻と妾とも言われる「山吹御前」の供養塚(※義仲戦死の報を聞き、自害したそうです。モテモテですねー)、そして「松尾芭蕉」の墓などがごっちゃりとありました。
お寺好き、というよりも歴史ファン向けなお寺ですね。

なお、結構な歴史施設・お寺であるというのに、駐車場もない・ごくごくこぢんまりとした小さなお寺です。
一応、お寺の前にぎりぎり一台駐車ができますが、前の道もやたら狭いので大変でした。
はっきり言って、歩いてった方がいいかもしれません。
JR膳所駅、京阪電鉄膳所駅が近いようです。


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[住所]
 義仲寺 滋賀県大津市馬場1-5-12

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※そんな訳で、本日は「木曾義仲」さま。
  昔木曾にも行ったことありますが、ものすごい山中でしたよー。自然児で当然。