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のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はお寺というより歴史っぽい話なのでした。
滋賀は「妙法寺」をご紹介致します。
こないだ滋賀へ行った時のこと。
長浜城へと急ぐひでるさんはある看板に目を奪われました。
「豊臣秀勝公菩提寺」
どうですか?
ちょっと見逃せない文字ですよね。
こりゃー大変だ、ということで早速そちらの方向へ行ってみることとしたのでした。
ひでるさんはこのブログで、「豊臣秀吉」の一族について何回かふれております。
秀吉が異常な出世をしたことによって、身内でも分不相応な出世をするものが続出。
それによって不幸になった者は多く、またやったら短命な方も多いので興味を引かれるんですね。
…そんなんが短期政権で終わった最大の要因だと思うのですよ。
(※関連記事 ⇒ 「特別おまけ 豊臣一族」参照のこと)
さて、歴史上では三名の羽柴(豊臣)家に関連した「秀勝」くんがおります。
最も長命だった養子「秀勝」は自害させられた「豊臣秀次」の弟で、朝鮮出兵中に病死。
もう一人、おそらく最も有名な養子「秀勝」は「織田信長」の四男でしたが、これも若いうち病死。
なにゆえ、こうして同じ名前が二人もいるのか?
それは…秀吉の夭折した実子につけた名前こそが「秀勝」だったからなのでした!!
…びっくりした?しない?
あぁ、そうですか。
秀吉の嫡男は晩年に誕生した淀さまとの子「鶴松」とされております。
しかし、長浜城主時代には側室に生ませた実子がいたようなのです。
(※これがねねさんの子であれば、しっかり歴史に刻まれていたかもしれませんが…残念ながら違うみたいなの)
さて、その「秀勝」さまの菩提寺とされるのがここ「妙法寺」
こちらは後の太閤、当時は「羽柴秀吉」の命により、浅井氏の本拠・小谷城城下よりわざわざ移転させた寺院なのです。
天正四年(1576)
有名な事件では、武田騎馬軍が敗れた「長篠合戦」がその前年のことです。
秀吉の長男「羽柴秀勝」が亡くなった際、こちらの「妙法寺」へ葬られたのでした。
いくつか、それを裏付ける資料が残っているのです。
まず、この寺には「羽柴秀勝」と言われる童子像が伝来しておりました。(※昭和二十七年に残念ながら焼失)
また、平成十四年に境内の本堂前へ移転された、鞘堂(さやどう)には墓石が安置されていました。この墓石は彩色をほどこされた「題目式笠塔婆(だいもくしき・かさとうば)」というものでした。
(※上が笠になった墓石。色々ほどこされたのは偉い人の証拠)
また、移転後に墓地の学術調査をしたところ、後方ニ・五メートル南にて塚墓が発見されておりました。
これは形状などから、”戦国時代の大名一族の墓である”と判明したのです。
こうした結果から、「羽柴秀吉」の長浜時代には子供が実在したであろうことが確認されたのです。
…いたんですよ、おそらく。
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[関連記事] 【豊臣政権セット】
⇒ 意外と知らない信長死後 「清洲会議」 [1 2 3 4 5]
⇒ ねねさん 高台寺(京都)
⇒ 奮戦・前田利家「末森城合戦」 前編 後編
⇒ まつさん[芳春院] 前編 後編
⇒ 黒田官兵衛の失言「人生を変えた一言」
⇒ 佐和山城址(滋賀) 基本知識編 現地レポート編
⇒ 行こう!「関ヶ原古戦場・石田三成陣跡」
⇒ 石田三成墓所 三玄院 (京都) <前 後>
⇒ 秀次切腹と石田三成 [1 2 3]
⇒ 宇喜多秀家 <前 後>
⇒ 文武二道・会津に適う人物 「蒲生氏郷」 [1 2 3 4 5 6 7]
⇒ 二大英雄の子「結城秀康」 [1 2 3 4]
⇒ 豊臣秀頼公首塚 清涼寺(京都)
⇒ 真田昌幸 (長野・上田城)
⇒ 名人と呼ばれた武将「堀秀政」
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※そういえば中津賢也センセが「信長は単なる大うつけで、秀吉は本当の猿だった」と書かれてました。
もちろん冗談なんですが、けっこう楽しい説でしたよ。
本日はお寺というより歴史っぽい話なのでした。
滋賀は「妙法寺」をご紹介致します。
こないだ滋賀へ行った時のこと。
長浜城へと急ぐひでるさんはある看板に目を奪われました。
「豊臣秀勝公菩提寺」
どうですか?
ちょっと見逃せない文字ですよね。
こりゃー大変だ、ということで早速そちらの方向へ行ってみることとしたのでした。
ひでるさんはこのブログで、「豊臣秀吉」の一族について何回かふれております。
秀吉が異常な出世をしたことによって、身内でも分不相応な出世をするものが続出。
それによって不幸になった者は多く、またやったら短命な方も多いので興味を引かれるんですね。
…そんなんが短期政権で終わった最大の要因だと思うのですよ。
(※関連記事 ⇒ 「特別おまけ 豊臣一族」参照のこと)
さて、歴史上では三名の羽柴(豊臣)家に関連した「秀勝」くんがおります。
最も長命だった養子「秀勝」は自害させられた「豊臣秀次」の弟で、朝鮮出兵中に病死。
もう一人、おそらく最も有名な養子「秀勝」は「織田信長」の四男でしたが、これも若いうち病死。
なにゆえ、こうして同じ名前が二人もいるのか?
それは…秀吉の夭折した実子につけた名前こそが「秀勝」だったからなのでした!!
…びっくりした?しない?
あぁ、そうですか。
秀吉の嫡男は晩年に誕生した淀さまとの子「鶴松」とされております。
しかし、長浜城主時代には側室に生ませた実子がいたようなのです。
(※これがねねさんの子であれば、しっかり歴史に刻まれていたかもしれませんが…残念ながら違うみたいなの)
さて、その「秀勝」さまの菩提寺とされるのがここ「妙法寺」
こちらは後の太閤、当時は「羽柴秀吉」の命により、浅井氏の本拠・小谷城城下よりわざわざ移転させた寺院なのです。
天正四年(1576)
有名な事件では、武田騎馬軍が敗れた「長篠合戦」がその前年のことです。
秀吉の長男「羽柴秀勝」が亡くなった際、こちらの「妙法寺」へ葬られたのでした。
いくつか、それを裏付ける資料が残っているのです。
まず、この寺には「羽柴秀勝」と言われる童子像が伝来しておりました。(※昭和二十七年に残念ながら焼失)
また、平成十四年に境内の本堂前へ移転された、鞘堂(さやどう)には墓石が安置されていました。この墓石は彩色をほどこされた「題目式笠塔婆(だいもくしき・かさとうば)」というものでした。
(※上が笠になった墓石。色々ほどこされたのは偉い人の証拠)
また、移転後に墓地の学術調査をしたところ、後方ニ・五メートル南にて塚墓が発見されておりました。
これは形状などから、”戦国時代の大名一族の墓である”と判明したのです。
こうした結果から、「羽柴秀吉」の長浜時代には子供が実在したであろうことが確認されたのです。
…いたんですよ、おそらく。
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⇒ 黒田官兵衛の失言「人生を変えた一言」
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⇒ 石田三成墓所 三玄院 (京都) <前 後>
⇒ 秀次切腹と石田三成 [1 2 3]
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⇒ 真田昌幸 (長野・上田城)
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※そういえば中津賢也センセが「信長は単なる大うつけで、秀吉は本当の猿だった」と書かれてました。
もちろん冗談なんですが、けっこう楽しい説でしたよ。