波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

小田原城の災害史(スピッツクラブ展覧会その1)

2016-11-05 00:59:23 | お城
こんばんは、白黒茶々です。
秋といえば、ワンコイベントの時季でもありますよね。 そのような状況の中で、先月の30日に横浜のそごう2階の鐘の広場で、日本スピッツクラブによる展覧会がおこなわれました。



その当日の朝というか未明に、私は起き出してゴソゴソと支度を始めました。 まだ日が出ないうちに、箔と波を散歩に連れ出したのですけど、彼らは私のこの一連の動きから「遠出フラグ」を敏感に感じ取ったみたいで、興奮しまくっていました。 せっかく盛り上がっているところで言いにくいのですけど、今回は私1人だけが列車に乗っていくので、どちらか1頭しか連れていけないのですよ。 とはいっても、すでに決めてあるのですけど。



………ということで、浜松発の始発列車に乗るために、浜松駅前にやって来ました。 「横浜日帰りスピクラ展への旅(オマケつき)」に当選したワンコは、もうおわかりですよね。そうです 波ちゃであります。家を出る直前まで、箔もすっかり行く気マンマンでテンションも高かったのですけど、置いていかれるということがわかった途端に、沈みこんでしまいました。
すまん箔ちゃ、春のスピクラ展と夏のDOG!フェスタには連れていったので、今回は涙を飲んでおくれ。



私のほうも気持ちを切り替えて、波と一緒に列車に乗り込みますよ。 ワンコを列車に乗せるには、キャリーに入れ、改札で手回り品の切符(280円)を購入します。



このような横長でベンチ式の車両の場合は、すぐ脇にワンコ in キャリーを置けると助かるので、角っちょの席が取れたら、御の字です。 私たちが乗った列車は、東に向かって走っていきました。そういえば、数日前に富士山に今期初冠雪があったみたいですね。 そうしたら、富士川を渡りながらその様子を………



………って、雨雲に覆われていて、まったく見えませんよ。 本来なら、あのあたりに大きな富士山がばば~んと聳えていて………
そのあと私たちは、いつもだったら必ずと言っていいほど降り立っている熱海駅を素通りし………



一気に小田原まで行きました。すでに後方にお城が見えていますけど、今回私たちが寄り道する場所は、もうおわかりでしょう。



そうです 小田原といったら、やっぱり小田原城ですよ。 そういえば、今回の日記のタイトルにも出ていたような。とにかく、今からそちらに向かいますよ
小田原城は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めによって開城するまでは、北条氏5代の居城でした。それ以降は、江戸に通じる重要な拠点ということで、石垣や天守の構築が認められ、近世の城に改築されました。
小田原駅からは、お城の裏側に繋がっているルートを利用すれば、徒歩10分ほどで本丸跡にたどり着けるのですけど、今回はちょっと遠回りして、あえてお城の正面に回るようにします。



こちらには、徒歩で15分ほどかかりました。ちなみに、波の後方に見えるのは二の丸の正門となる、馬出門(うまだしもん)にございます。こちらの門は、内冠木門と土塀で周囲を囲む枡形門を形作っていて、馬屋曲輪へ通じていることから、その名が付いたとされています。いずれのものも、平成21年(2009年)に復元されました。

今から約半年前に熊本で大地震があって、熊本城にも大きな被害がありました。 30ヵ所以上の石垣が崩れ、現存・復元された建物は、ほぼすべて損傷してしまいました。それらの復旧には、概算で600億円以上もかかるそうです。
その一方で、関東の入口にある小田原は地震多発地帯ということもあって、今日に至るまで多数の被害を受けてきました。ということで、今回は少し視点を変えて、災害の面から小田原城を見ていこうと思います。



馬出門の、お堀を隔てた北側には、かつては立派な石垣の上に単層の二の丸隅櫓がありました。しかしそれらは、大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊。 その後石垣は積み直され、櫓も復興されたのですけど………



技術的な理由なのか、それとも資材不足からなのか、石垣は以前より1,5mほど低く、やや迫力を欠いています。



そうしたら、次に向かいますよ こちらの銅門(あかがねもん)は、平成9年(1997年)にかつてのものを忠実に復元したこともあって見応えがあるのですけど、このあたりの石垣やお堀は明治に入ってから破壊され、大正天皇が皇太子時代に長く住まわれた御用邸の敷地となっていました。 その御用邸も、関東大震災で倒壊し、以降は閉鎖となってしまいました。
さらに本丸方面に向かうのですけど、その正面に続く道からそれて、報徳二宮神社のほうに入っていくと………



関東大震災で崩れたままの、本丸南側の石垣を見ることができます。 小田原城のほとんどの石垣は、不完全なものも含めて震災のあとに積み直されたのですけど、この部分だけは手付かずとなっております。



震災の威力と恐ろしさを伝えるために、あえて残してあるのでしょうか?こちらを確認したら………



本丸の正面にある常盤木門から入っていきますよ こちらの建物は、昭和46年(1971年)に台湾産の檜を使って、復元されました。その内部には、甲冑やお姫様衣装の試着コーナーがあるので、お時間に余裕のある方は是非一度ご利用くださいませ。 その常盤木門をくぐっていくと………



正面にばば~んと、巨大な天守が現れるのですよ 現在の建物は、昭和35年(1960年)に鉄筋コンクリートで外観のみ復元されたものであります。最近になって老朽化が目立ってきたことから、耐震補強も含めた改修工事に着手。今年の5月にリニューアルオープンと相成りました。



それと同時に、壁を塗り直して瓦を一新したこともあって、白さが際立っていますね。 その珍しさも相まって、入場者数は増えているみたいです。



小田原城にかつてあった天守も、大地震のたびに甚大な被害を受けてきました。寛永10年(1633年)の震災では倒壊し、元禄16年(1702年)には焼失しました。 さらに天明2年(1780年)のときには、東北に30度傾きました。こうなってしまったら、建て替えるしかないのですけど、当時藩主だった大久保家は財政難で、手を付けることもできませんでした。 そのような状況の中で、御抱大工の棟梁の川辺匠大夫という者が手を挙げ、「天守を引き起こしましょう」と申し出ました。その匠が取った行動は………
お城から200mも離れている高台の上に巨大な鯱巻3台を据え、そこから天守に大綱をかけて多数の鳶職人を使い、毎日えいえいと勇ましい掛け声とともにその鯱巻を回転させていき、2ヶ月で巨大な建物を完全に引き起こしたのです。 気になる予算は……… 130両と、建て替えるよりは圧倒的に少ない費用で済んだのでした。



匠の機転で維持された天守だったのですけど、関東大震災より53年も前の明治3年(1870年)に、廃城後のお城には無用の長物という理由で、取り壊されてしまいました。 唯一残された写真は、その解体作業中のものです。それでも、江戸時代に作られた旧天守の雛型が残っていたので、それを参考にして現在の天守を建てることができました。



小田原でのミッションを終えた私たちは列車に乗り込み、さらに東を目指しました。 そして1時間ほどで、横浜駅に到着。ここまで来れたら、もうこっちのものです



今回のスピッツクラブ展覧会の会場となる横浜そごうは、横浜駅の目と鼻の先にあります。ちなみにこちらは、水路を隔てた対岸のベイクォーターから見た、全体像であります。



あとは、展覧会がおこなわれている「鐘の広場」に直通している、駅前にある歩道橋を伝っていくだけです。 そちらでは、どのような出逢いや触れ合いがあるのでしょうか?その様子については、次回触れさせていただきます。


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