波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

いざ関ヶ原の決戦地へ!(大垣・垂井・関ヶ原歴史散策その3)

2024-01-24 02:37:14 | お出かけ

こんばんは、白黒茶々です。

前回の日記のラストでは、私・の白黒茶々家の1人と2頭は関ヶ原の東首塚で戦いの後のことを偲んだのですけど、新たなページとなる今回もまだその場に留まっています。 その東首塚がある公園の一角には………

「松平忠吉・井伊直政の陣跡」なる石碑が立っているのですよ 正確な場所はそこから東に200mのあたりだったのですけど、大正時代に昔からあった石碑が現在の場所に移されました。 私はこちらを訪れた時点ではそのことを知らず、「この場所で2人の猛将が………」と、勝手に思い入れてしまいました。
それはさておき、徳川四天王の一員でもある井伊直政は、関ヶ原で初陣に挑む松平忠吉に手柄を立てさせるために、戦いの先鋒を切りました。 その後、彼らは島津隊を追撃して大きな戦果を挙げたのですけど、その時の傷がもとで2人とも2年後に亡くなってしまいました。 すると、そこに法螺貝と太鼓の音が聴こえてきました。井伊直政と松平忠吉か

いえいえ、たまたま通りかかった鎧武者でした。 そんな彼らを私は捕まえて……… いや、呼び止めて、波と狛との記念撮影に応じていただきました。 その後、私たちは関ヶ原の中心部に向かっていき………

現在は陣場野公園となっている、徳川家康最後陣跡に行き着きました。 はい、名前のまんまで、東軍の総大将の徳川家康が最後に陣地を構えたところであります

こちらは後の時代に聖地化されて、この地を治めていた竹中氏によって陣地跡を囲むように土塁が築かれ、家康が座った床几場のあたりには石垣が積まれました。

その脇にある紅葉は、いい具合に色付いていました。

家康がこの場所で指揮を執って、石田三成が率いる西軍に勝利したのですよね。 戦いの後は、ここで首実検がおこなわれたというのですけど……… 実験とはいっても、米村でんじろう先生のような子供が驚いたり喜んだりするようなものではなく、敵方の首級(生首)の身元を判定して、討ち取ってきた武将や兵士に褒美を取らせる行為のことなのですよ。 つい「うぇっ 」となる話をしてしまいましたけど、このあたりで気分を変えて………

以前は関ヶ原歴史民俗資料館 現在は関ヶ原歴史民俗学習館と名を改めた施設の前には、石田三成ならぬ石田三波(みつなみ)が9年ぶりに出現しました 近くに岐阜関ヶ原歴史記念館ができるまでは、この施設が合戦展示の中心だったのですけど、入場無料で歴史記念館を補足するような位置付けとなっていました。 それでも、石田三成や徳川家康、鉄砲隊などの顔出しパネルはそのままだったので、こちらに来たら顔を突っ込んでおきたいです。 石田三成といえば………

私たちは、関ヶ原の西北に位置する笹尾山にやって来ました こちらは石田三成が陣地を構えたところです。その麓には、彼の右腕として活躍した島左近の陣地が置かれていました。

復元された木柵と紅葉の風景は、なかなかいいですね

そうしたら、笹尾山に上りましょう こちらは私たちが前回(の日記で)行ってきた桃配山より高く、岡山烽火場は途中まで車で上がれたので、この日最も息が上がりました。 それに加えて、関ヶ原でも人気スポットみたいで、たくさんの人が訪れていたので、特にワンコ連れは気を配らなければなりませんでした。 そうしているうちに………

頂上部にある展望台が見えてきました 石田三成の旗印の幕や大きなのぼりが、より陣場らしさを演出しています。 さらにその奥には………

昔ながらの「石田三成陣地」と刻まれた石碑

さらに展望台の一段下からでも、古戦場の全域を見渡すことができました。 この風景を見ていたら、こちらが戦略的に重要な場所ということを実感しました。 豊臣秀吉に深い恩義があり、豊臣家を守るために徳川家康と全面対決をする決断をした石田三成。 西軍の総大将は名目上は毛利輝元だったのですけど、実質的には三成でした。 そんな彼の陣跡には………

小早川秀秋の装いをした現代の武者が 撮影タイムで決めポーズを取っていたので、遠慮なく撮らせていただきました。 関ヶ原の戦いは、当初は石田三成が率いる西軍が有利だったのですけど……… 開戦から沈黙をし続けていた小早川秀秋が、徳川家康を総大将とした東軍に流れ、三成の盟友の大谷吉継に攻め込んだことによって形勢は逆転 西軍は総崩れとなりました。

そして私たちは、笹尾山から近いといえなくもないところにある、関ヶ原古戦場の決戦地に行き着きました。 このあたりは、東軍の諸隊が石田三成の首級を狙って、激しい戦いを繰り広げた場所と云われています。

現在はのどかな田舎(失礼 )の風景ですけど、この一帯で歴史に残る大きな合戦がおこなわれたのですよね。 関ヶ原で敗軍の将となった石田三成は、戦場から逃走 再起をかけて身を隠していたのですけど、決戦から6日後に近江の山中(現在の滋賀県長浜市のあたり)で徳川方に捕縛。 10月1日に京の六条河原で、小西行長安国寺恵瓊とともに処刑されました。 享年41歳。

東軍と西軍の戦いは関ヶ原だけではなく、東北では伊達政宗上杉景勝、九州では黒田孝高大友義統、………といったように、日本全国で繰り広げられていました。 その際に東軍の徳川方についていた大名は、関ヶ原の戦いののちに優遇され、領地を拡大されたり譜代大名となったりしました。 一方の西軍についた大名は、減封されたり僻地に飛ばされたり、外様大名にされたりと、散々でした。 例えば、西軍の名目上の総大将だった毛利輝元は、中国地方一帯にも及ぶ100万石の領地を有していたのですけど、周防・長門(ともに現在の山口県)の30万石程に減封&左遷させられてしまいました。 関ヶ原の戦いによって諸大名の運命は変わり、全国の勢力地図が塗り替えられたことから、のちに「天下分け目の戦い」と呼ばれるようになりました。
そんな関ヶ原で、私はあともう1ヶ所どうしても寄っていきたいところがありました。 それはどこかといいますと……… 次回までヒミツにさせていただきます。 いずれにしても関ヶ原レポートは次回で最後となるので、ここまで来たらもう一軒のハシゴまでお付き合いくださいませ



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