こんばんは、白黒茶々です。
話は前回の日記の続きとなるのですけど、奥山方広寺をあとにした私と波は、通り道ということもあって再び井伊谷地区を訪れました。 ただし、今回は直虎関連ではなく………
同地区の井伊谷城の麓にある、浜松市地域遺産センターに入っていきました。 その頃、その施設では………
「グレーな埴輪たち」なる企画展がおこなわれていました。 実際にグレー(灰色)の埴輪もあるのですけど、ここでいうグレーは、埴輪なのか土器なのか白黒ハッキリしないという意味のグレーみたいですね。 とにかく皆さまには、中に入って実物をお見せしながら説明させていただきます。 と、自動ドアを開けたら………
いきなりおびただしい数の埴輪の習字が、私を出迎えてくれました。 それらは、地元の小学生の作品でしょうか?それにしても「はにわ」の脱力感がいいですね。 それによく見てみたら、字の中に埴輪の絵が描かれている作品もありますし。
そのまた奥の2階には、柴咲コウさんや三浦春馬さん、荒井美羽ちゃんなど、「おんな城主 直虎」に出演した俳優たちのサインが並んでいました。先ほど私は「直虎関連ではなく」なんて言っていましたけど、ちょっと関わってしまいました。 この他にも、こちらにはバーチャル龍潭寺スコープ、井伊直親(亀乃丞)の青葉の笛や、井伊直虎関口氏経連書状の複製品などもありました。
そうそう、今回の本命は古墳の出土品でしたね。 企画展では、近隣の古墳から発掘された須恵器や………
円筒埴輪などがありました。昔、教科書でそれらを見たことがあるという方もいらっしゃると思います。
また、こちらの馬型埴輪は造詣が細かいというよりは、愛嬌すら感じますね。
さらにこちらには、男性と女性の人型、牛や鹿、ニワトリ、………など、インパクトありありの埴輪が並んでいました。多少修復されていますけど、本来の姿でほぼ間違いないと思います。 それらは須恵器の製造技法を採り入れて作ったみたいで、壷型といってもいいでしょう。いや、今回の企画展の発案者の意向に沿って、「グレー埴輪」と呼ぶことにしましょう さあ、皆さんもご一緒に グレー埴輪
それらの埴輪類は、浜松市北区の郷ヶ平古墳群の6号墳から出土したそうです。 同古墳群は、三方原台地の北側から都田盆地に渡る地域に、5世紀後期から6世紀中頃にかけて断続的に造られました。近年の発掘調査によって、7基の古墳が確認されたのですけど、現在そのほとんどは開発によって消滅してしまったそうです。 それでも案内によると、平成25年(2013年)の時点では、4号墳はほぼ原型をとどめていて、6号墳は「一部残存」となっていました。
さらにそれらの場所を調べてみたら、都田総合公園の西南の住宅地となっていました。目印もありますし迷わず行けそうなので、今からそちらに向かってみることにしましょう
ということで、やって来ましたよ 郷ヶ平古墳群に。ちなみに後ろに見える茂みが、郷ヶ平4号墳にございます。 こちらの古墳群の中では、最も保存状態がいいというのですけど………
長い年月の間に盛り土が失なわれ、現在は2mほどの高さとなっています。それでも、前方後円墳の輪郭を確認することはできました。そうしたら、あの愉快な埴輪が多数出土した6号墳は、現在はどうなっているのでしょうか?
あれ?確かこのあたりにあるハズなのですけど……… 発掘調査時の地図と見比べてみたところ、植え込みのフェンスの向こうのアスファルト舗装が建物にぶつかるあたりに、あったみたいです。手前が前方部、奥が後円部となるのですけど、地上からはそれらの痕跡を読み取ることはできません。 案内看板みたいなものもありませんし。老人ホームの建設によって、4号墳以外はほぼ失なわれたのですけど、6号墳の一部はアスファルトの下に埋蔵されているのかも知れません。
今回の古墳レポートだけでは、以前のように冒険心を掻き立てられることもないまま淡々と終わってしまいますよね。 そうしたら、オマケと言ってはナンですけど、そこから近いといえなくもない場所にあって、私が以前に行きそびれた古墳に挑んでみることにしましょう
その古墳までは、迷わずに行けば車で10分ぐらいのところなのですけど………
そのすぐ近くに私の母方の菩提寺があるので、ついでと言ってはナンですけど、祖父母のお墓参りをしていくことにしました。 お爺ちゃん、お婆ちゃん、このような形でのお参りとなってしまって、ゴメンなさい。
そうしたら、いよいよ古墳に……… ってよく考えてみたら、こちらもお墓参りみたいなものですよね。 すでに案内標識にその名前が出ているのですけど……… いや、消えかかっていて判りにくいですね。 ちなみに私たちが目指しているのは、浜松市北区都田町にある、恩塚山古墳というところです。そこに続く坂道を登っていったら………
さらに険しい道となりました。 右手の細いほうが古墳道なのですけど、数年前にウチの車でそこを行こうとしたら、滑って上れなくて断念せざるを得ませんでした。 さらにさかのぼること今からン十年前の小学6年生の頃、私は親にお願いして、お墓参りの帰りに恩塚山古墳に連れていってもらいました。それは昭和⚪⚪年のことで、当時実家の自家用車だったスターレットターボはパワフルで、このような坂も難なく上っていってくれました。
そして現在。新型ジムニーならすんなりと行けそうなのですけど、ウチの車はアン・ジムニーでアン・スターレットターボ。 なので、今回は麓にその車を置いていって、波と一緒に歩いていくことにしました。
ある程度上ったところには古墳の見学者用の駐車スペースがあるのですけど、そこから道はより険しくなりました。 先日の台風によって枝葉が降り積もっていて、人が踏み入った痕跡はまったく見られません。
そのような山林の中で、フェンスに囲まれるようにして古墳があったのですけど、ン十年前もこうでしたっけ?とにかく、ゴールはすぐ近くです。
あっ、ありました 石室が口を開けていて、自由に出入りできるようになっています。恩塚山古墳は7世紀前半に造られた、直径11mほどの円墳です。その石室は、出入りのための通路(羨道)と棺を収める部屋(玄室)で構成されています。
もちろん、内部調査もしますよ 羨道のほとんどの天井は失なわれているのですけど、雰囲気はあります。そして、その先の玄室は………
鉄骨で補強されているのは、ン十年前から変わりません。それよりもこちらの石室は、かなり珍しい形をしているのですよ 写真からは判りにくいかも知れませんけど………
大半の古墳の玄室は、羨道の奥で縦に長いのですけど、恩塚山古墳のものは横に長く、Tの字のような形をしています。 このような形式の石室は、静岡県内では唯一であります。
今回の古墳の石室レポートも、いつものように向こうの世界に出ていく絵で締めることにしましょう。 現存している古墳の大半は、石室が失なわれているか埋まっていたり、もしくは元からなかったりするのですけど、洞穴好きな私としては、できることならあったほうが嬉しいです。今のところ、波ちゃもなんとか付いてきてくれていますし。 そんな調子で、これからも古墳探訪をしていく所存にございます。
ここから先は、さらなるオマケです。 たつぴの母校の静岡県立浜松大平台高校の前身となった県立農業経営高校は、かつては都田町にありました。現在その跡地がどうなっているのか気になったので、今回の古墳探訪のついでに、実際に見に行ってみることにしました。 その高校は、昭和39年(1964年)に県立浜松農工高校から農業部門が独立する形で開校しました。 ちなみに野球部は、実習が多くて練習時間が取れないこともあって、創部29年目にしてようやく初勝利を挙げました。
ピータンパパさんなどを輩出した農経高でしたけど、平成18年(2006年)に箔母さんの母校でもある県立浜松城南高校と統廃合し、浜松大平台高校として再生したことにともなって閉校。 気になるその跡地は………
市立都田図書館の向かいに位置していて、敷地の一部が公園となっていました。 さらにそのまた一角に、校訓が刻まれた石と、内山昇先生(?)の胸像がありました。たまには農経高のことを偲んで訪れてあげないと、なんか寂しいですよね。 一方の浜松城南高校の跡地は、現在は私立浜松修学舎高校のグラウンドとなっています。
壷型埴輪を見たとき、無意識に同じ表情になっていた方は、こちらに投票してやってください。
話は前回の日記の続きとなるのですけど、奥山方広寺をあとにした私と波は、通り道ということもあって再び井伊谷地区を訪れました。 ただし、今回は直虎関連ではなく………
同地区の井伊谷城の麓にある、浜松市地域遺産センターに入っていきました。 その頃、その施設では………
「グレーな埴輪たち」なる企画展がおこなわれていました。 実際にグレー(灰色)の埴輪もあるのですけど、ここでいうグレーは、埴輪なのか土器なのか白黒ハッキリしないという意味のグレーみたいですね。 とにかく皆さまには、中に入って実物をお見せしながら説明させていただきます。 と、自動ドアを開けたら………
いきなりおびただしい数の埴輪の習字が、私を出迎えてくれました。 それらは、地元の小学生の作品でしょうか?それにしても「はにわ」の脱力感がいいですね。 それによく見てみたら、字の中に埴輪の絵が描かれている作品もありますし。
そのまた奥の2階には、柴咲コウさんや三浦春馬さん、荒井美羽ちゃんなど、「おんな城主 直虎」に出演した俳優たちのサインが並んでいました。先ほど私は「直虎関連ではなく」なんて言っていましたけど、ちょっと関わってしまいました。 この他にも、こちらにはバーチャル龍潭寺スコープ、井伊直親(亀乃丞)の青葉の笛や、井伊直虎関口氏経連書状の複製品などもありました。
そうそう、今回の本命は古墳の出土品でしたね。 企画展では、近隣の古墳から発掘された須恵器や………
円筒埴輪などがありました。昔、教科書でそれらを見たことがあるという方もいらっしゃると思います。
また、こちらの馬型埴輪は造詣が細かいというよりは、愛嬌すら感じますね。
さらにこちらには、男性と女性の人型、牛や鹿、ニワトリ、………など、インパクトありありの埴輪が並んでいました。多少修復されていますけど、本来の姿でほぼ間違いないと思います。 それらは須恵器の製造技法を採り入れて作ったみたいで、壷型といってもいいでしょう。いや、今回の企画展の発案者の意向に沿って、「グレー埴輪」と呼ぶことにしましょう さあ、皆さんもご一緒に グレー埴輪
それらの埴輪類は、浜松市北区の郷ヶ平古墳群の6号墳から出土したそうです。 同古墳群は、三方原台地の北側から都田盆地に渡る地域に、5世紀後期から6世紀中頃にかけて断続的に造られました。近年の発掘調査によって、7基の古墳が確認されたのですけど、現在そのほとんどは開発によって消滅してしまったそうです。 それでも案内によると、平成25年(2013年)の時点では、4号墳はほぼ原型をとどめていて、6号墳は「一部残存」となっていました。
さらにそれらの場所を調べてみたら、都田総合公園の西南の住宅地となっていました。目印もありますし迷わず行けそうなので、今からそちらに向かってみることにしましょう
ということで、やって来ましたよ 郷ヶ平古墳群に。ちなみに後ろに見える茂みが、郷ヶ平4号墳にございます。 こちらの古墳群の中では、最も保存状態がいいというのですけど………
長い年月の間に盛り土が失なわれ、現在は2mほどの高さとなっています。それでも、前方後円墳の輪郭を確認することはできました。そうしたら、あの愉快な埴輪が多数出土した6号墳は、現在はどうなっているのでしょうか?
あれ?確かこのあたりにあるハズなのですけど……… 発掘調査時の地図と見比べてみたところ、植え込みのフェンスの向こうのアスファルト舗装が建物にぶつかるあたりに、あったみたいです。手前が前方部、奥が後円部となるのですけど、地上からはそれらの痕跡を読み取ることはできません。 案内看板みたいなものもありませんし。老人ホームの建設によって、4号墳以外はほぼ失なわれたのですけど、6号墳の一部はアスファルトの下に埋蔵されているのかも知れません。
今回の古墳レポートだけでは、以前のように冒険心を掻き立てられることもないまま淡々と終わってしまいますよね。 そうしたら、オマケと言ってはナンですけど、そこから近いといえなくもない場所にあって、私が以前に行きそびれた古墳に挑んでみることにしましょう
その古墳までは、迷わずに行けば車で10分ぐらいのところなのですけど………
そのすぐ近くに私の母方の菩提寺があるので、ついでと言ってはナンですけど、祖父母のお墓参りをしていくことにしました。 お爺ちゃん、お婆ちゃん、このような形でのお参りとなってしまって、ゴメンなさい。
そうしたら、いよいよ古墳に……… ってよく考えてみたら、こちらもお墓参りみたいなものですよね。 すでに案内標識にその名前が出ているのですけど……… いや、消えかかっていて判りにくいですね。 ちなみに私たちが目指しているのは、浜松市北区都田町にある、恩塚山古墳というところです。そこに続く坂道を登っていったら………
さらに険しい道となりました。 右手の細いほうが古墳道なのですけど、数年前にウチの車でそこを行こうとしたら、滑って上れなくて断念せざるを得ませんでした。 さらにさかのぼること今からン十年前の小学6年生の頃、私は親にお願いして、お墓参りの帰りに恩塚山古墳に連れていってもらいました。それは昭和⚪⚪年のことで、当時実家の自家用車だったスターレットターボはパワフルで、このような坂も難なく上っていってくれました。
そして現在。新型ジムニーならすんなりと行けそうなのですけど、ウチの車はアン・ジムニーでアン・スターレットターボ。 なので、今回は麓にその車を置いていって、波と一緒に歩いていくことにしました。
ある程度上ったところには古墳の見学者用の駐車スペースがあるのですけど、そこから道はより険しくなりました。 先日の台風によって枝葉が降り積もっていて、人が踏み入った痕跡はまったく見られません。
そのような山林の中で、フェンスに囲まれるようにして古墳があったのですけど、ン十年前もこうでしたっけ?とにかく、ゴールはすぐ近くです。
あっ、ありました 石室が口を開けていて、自由に出入りできるようになっています。恩塚山古墳は7世紀前半に造られた、直径11mほどの円墳です。その石室は、出入りのための通路(羨道)と棺を収める部屋(玄室)で構成されています。
もちろん、内部調査もしますよ 羨道のほとんどの天井は失なわれているのですけど、雰囲気はあります。そして、その先の玄室は………
鉄骨で補強されているのは、ン十年前から変わりません。それよりもこちらの石室は、かなり珍しい形をしているのですよ 写真からは判りにくいかも知れませんけど………
大半の古墳の玄室は、羨道の奥で縦に長いのですけど、恩塚山古墳のものは横に長く、Tの字のような形をしています。 このような形式の石室は、静岡県内では唯一であります。
今回の古墳の石室レポートも、いつものように向こうの世界に出ていく絵で締めることにしましょう。 現存している古墳の大半は、石室が失なわれているか埋まっていたり、もしくは元からなかったりするのですけど、洞穴好きな私としては、できることならあったほうが嬉しいです。今のところ、波ちゃもなんとか付いてきてくれていますし。 そんな調子で、これからも古墳探訪をしていく所存にございます。
ここから先は、さらなるオマケです。 たつぴの母校の静岡県立浜松大平台高校の前身となった県立農業経営高校は、かつては都田町にありました。現在その跡地がどうなっているのか気になったので、今回の古墳探訪のついでに、実際に見に行ってみることにしました。 その高校は、昭和39年(1964年)に県立浜松農工高校から農業部門が独立する形で開校しました。 ちなみに野球部は、実習が多くて練習時間が取れないこともあって、創部29年目にしてようやく初勝利を挙げました。
ピータンパパさんなどを輩出した農経高でしたけど、平成18年(2006年)に箔母さんの母校でもある県立浜松城南高校と統廃合し、浜松大平台高校として再生したことにともなって閉校。 気になるその跡地は………
市立都田図書館の向かいに位置していて、敷地の一部が公園となっていました。 さらにそのまた一角に、校訓が刻まれた石と、内山昇先生(?)の胸像がありました。たまには農経高のことを偲んで訪れてあげないと、なんか寂しいですよね。 一方の浜松城南高校の跡地は、現在は私立浜松修学舎高校のグラウンドとなっています。
壷型埴輪を見たとき、無意識に同じ表情になっていた方は、こちらに投票してやってください。
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