波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

桂浜と坂本龍馬と花火大会(高知・高松紀行その3)

2018-08-29 01:03:35 | 人物伝
こんばんは、白黒茶々です。
今年のお盆休みは、私は一人旅で高知方面に向かいました。1泊3日の予定のうち、現在は2日目のお昼あたりで、高知市を代表する風光明媚な観光名所の桂浜にたどり着いたところです。前回の日記の終盤では、その龍頭岬の高台の上にある坂本龍馬の銅像を目指して、階段を上がっていきながら今回の日記に引き継いだのですけど……… あれっ?龍馬像がない。 もうちょっと東のほうみたいですね。そうしたら、いよいよ高い台座の上から桂浜を眺めている、坂本龍馬像とご対面いたします。



あれっ?今度は向きが違う。 私は過去に2度こちらを訪れたことがあるのですけど、記憶違いだったみたいで、実際の龍馬像は桂浜に背を向ける形で立っていました。今までこちらからじっくりと見たことはなかったのですけど、後ろ姿もカッコいいですよ。



お待たせしました またしても前フリが長くなってしまいましたけど、坂本龍馬像の正面に回りました。 この銅像は、長崎で撮影されたあの龍馬の有名な写真を参考資料にして、地元出身の彫刻家の本山白雲氏の手によって昭和3年(1928年)に完成しました。 像本体の高さは5,3mで、台座も含めた総高は13,5mにもなります。



せっかくなので、一緒に写ってみました。 しかし、我ながらポーズに芸がないですね。ここは龍馬に倣って、右手を懐に突っ込んだり、ブーツを履いたりしておくべきでした。



それはさておき、こちらは真夏の快晴の桂浜にございます 太平洋に面していて、龍頭岬と向こうに見える龍王岬の間に弓状に広がる海岸です。 その松の緑と五色の小砂利、紺碧の海が箱庭のように調和する風景は、まさに絶景 また、こちらは月の名所としても知られています。
しかし、波打ち際は急に深くなっているうえに波も荒くて危険みたいです。 そこに近付こうものなら、常駐の監視員にやんわりと注意されるのですよ。



なので、このようなことは絶対にやってはいけませんよ。 宴会を終えて、さあ帰ろうというときに、仲間の誰かが波にさらわれていなくなっているという事態になるかも。 いや、ヘタしたら全滅する恐れも。そうなってしまったら、歴史が変わってしまいますよ。 それはさておき、さらにその先まで歩いていき………



龍王岬の上に鎮座する、海津見(わたつみ)神社龍王宮のところにまでやって来ました。こちらから臨む太平洋も絶景なのですけど、私の地元の遠州灘より海がきれいで蒼い
桂浜の景色を堪能したら、次の目的地に向かいます。 それは桂浜から歩いていける距離のところにあるのですけど、立地している丘の上まで登っていかなければなりません。



ハアハア……… 最も暑い時間帯で汗が吹き出しつつも、なんとかたどり着きましたよ。 全体像を写すのが難しい場所にあるのですけど、県立の坂本龍馬記念館にございます。こちらは新館を増築したりして、今年の4月にリニューアルオープンしたばかりで、それにともなって入場者も増えたそうです。 十数年前に私が訪れた時は、右側のひょろ長い建物だけで、龍馬の手紙などが展示されていたのですけど、どのように変わったのでしょうか?さっそく迫ってみることにしましょう



その本館(従来のひょろ長いほう)の裏側には、坂本龍馬のシェイクハンド像が新たに設置されていたので、シェイクをハンドしておきました。
※敢えて言うと「ハンドをシェイクする」なのでは?(編集部注)
大きさからいって龍馬の等身大ぐらいで、さらに彼が本当に「しぇいくはんど(イメージとしては、ひらがな)ぜよ」と言っているような気がしました。そうしたら、私も「シェイクハンド(現代人なので、カタカナ)だに」。 いつの間にか、土佐弁VS遠州弁になってるに~。

坂本龍馬は天保6年(1835年)の11月に、高知城下で生まれました。幼少時代のことは不明なのですけど、鼻垂れ、寝小便、臆病者、………と、マイナスからのスタートだったとされています。 国内の流れが尊王攘夷に傾いていた頃、武市半平太が結成した土佐勤王党に入ったのですけど、程なく武市とは別の道を歩むことになり、さらに土佐を脱藩してしまいました。 それは、文久2年(1862年)3月のことでした。
この炎天下の中で立ち話を続けるのもナンなので、このあたりで龍馬記念館に入ることにしましょう。 その入口はこちらとは逆方向の新館側にあり、この時は特別展をやっていたので、700円(MY遊割引きで560円)を払い………



まずは、坂本龍馬に関する資料が展示してある部屋に入りました。 彼は筆まめで、行く先々で家族に宛てて書いた手紙が多数残っていることもあり、展示はそれらがメインとなっていました。しかも複製品なので、ストロボを焚かなければ自由に撮ることができるのですよ
ちなみに、こちらは脱藩してから最初に家族(乙女姉さん)に送った手紙で、「そもそも人間の一生は合点のいかぬはもとよりのこと、運の悪い者は風呂より出でんとして、きんたまをつめわりて死ぬる者もあり。それにくらべては私などは運が強く、なにほど死ぬる場に出ても死なれず………」という書き出しが、くだけていますね。 それと同時に、その手紙には脱藩後に龍馬は江戸に行き、勝海舟に弟子入りしたことも報告しています。



また、翌年の文久3(1863)年6月に乙女姉さんに宛てた、こちらの「日本を今一度せんたくいたし申し候」という手紙はあまりにも有名で、彼の名言にもなっていますよね。 しかもよく見ると、日本に「ニッポン」と丁寧にルビをふっていますし。とにかくその文面からも、これから日本のために大仕事をするという彼の決意が感じられます。



これらの他に、新館には土佐出身のジョン万次郎のコーナーなどもあるのですけど、本館のほうはもっとくだけた体験型の展示がされていました。
討幕するためには、薩摩と長州が手を結ぶ必要があるということで、龍馬は奔走し、犬猿の仲だった両者の間を取り持ち、慶応2年(1866年)に薩長同盟を成立させました。



この絵は、ある意味芸術的にデフォルメされているといったほうが………
さらに龍馬は、日本で内乱が起きている間に外国から侵略されたり、薩長が幕府と全面戦争になることを避けるために、大政奉還に向けて活動しました。 大政奉還とは、幕府が自ら政権を朝廷に返上し、幕府による支配を終わらせるというものです。またそれによって、戦争を起こす理由をなくすという意義もありました。 龍馬の尽力によって、慶応3年(1867年)10月に、15代将軍の徳川慶喜は大政奉還をおこない、徳川幕府は終わりを告げることとなりました。

あと、龍馬記念館には「幕末写真館」なるコーナーもあって、そこには龍馬と関わった人物などの写真が多数展示されているのですよ。桂小五郎(のちの木戸孝允)や久坂玄瑞がけっこうイケメンだったりして、いろんな面で楽しむことができます。
桂浜方面での用事が済んだので、あとはバスに乗って引き返すだけなのですけど……… 帰りはバラけていて、来た時のように道路が混むことはなかったものの、バスの車内が夕方になって一斉に帰ろうとする人でぎゅうぎゅうとなっていました。



それでも、なんとか高知駅前に到着。この流れからすると、これから列車に乗っていくトコなのですけど、この駅を出発点としている土讃線は、在来線の本数が少ないうえに接続も悪く、私の次の目的地の高松までは特急にでも乗らなければたどり着くことができないのですよ。 しかも、その列車を利用したら、自由席でも5000円近くもかかりますし。
しかし、心配には及びません。 この駅に併設されているバスターミナルからは、高松に2時間ほどで直行する黒潮エクスプレスという高速バスが出ているので。 ちなみにその料金は、3400円にございます。………なんてイチオシしておきながらも、乗る前に写真をとっておくのを忘れていました。

よく考えてみたら、今回は高知駅を観光の拠点にしながらも、そこで一度も列車を乗り降りしませんでした。 それから、MY遊バスのパスポートを買ったのに、メインのMY遊バスに乗ることもなく終わってしまいましたし。
ま、まあ、この高速バスが順調だから、いいでしょう。 どころが、それから間もなくして工事渋滞に巻き込まれ、予定が大幅に遅れてしまいました。



そ、それでも、あとは高松で晩御飯を食べて、同市内にある安宿に泊まるだけなので、多少遅くなっても大丈夫ですよ。 その渋滞を抜けてから、瀬戸内海に沈む夕日を眺めたりして………



予定より1時間20分遅れて、20時過ぎに高松駅前にたどり着きました。 運転手さんはすごく謝っていたのですけど、これもやむ無きこと。 しかしそこで、私にとってはまた新たに予定外のことが起こっていたのです。それは何かと言いますと………



駅から程近いところにあるサンポート高松の向こうで、「さぬき高松まつり花火大会 どんどん高松」なる大きな花火大会が、ちょうどその日のその時刻から始まったのです。



しかも露店もたくさん出ていて、ここから先はたくさんの人で混雑していますし。 そのような中でも私は、こちらに向かっている間に検索して見つけたお店に向かうことにしました。 ちなみにそのお店とは、サンポート高松の3階にあるTMチキンというところであります。 その頃は花火大会の真っ最中だったからでしょうか?そのお店はガラ空きで、貸し切り状態でした。



それからしばらくして、私の注文した料理が運ばれてきました。 香川県といえば讃岐うどんが有名ですけど、こちらの骨付き鶏も名物となっているのですよ 骨付き鶏とは、鶏の骨付きもも肉を一本丸ごと胡椒の効いた醤油だれに浸けて焼き上げたものです。それに、とりご飯、サラダ、スープが付いたセットが1080円(税込)と、手頃なお値段となっていました。 説明しているうちに、熱々だった骨付き鶏が程よく冷めてきたので、いただくことにしましょう。  はもっ

ほわっ スパイスの効いた肉汁が口いっぱいに広がって、これはクセになる味です。 薄く味付けされたとりご飯との相性も、いいですし。切って食べられるように添えられた大きなハサミを駆使しつつ、加速度的に鶏肉を消化していく私。その私には、フライドチキンや手羽先の類いは、箸と皿があれば手を全く汚さずに食べきる特技(?)があって、今回もその手法で骨だけにしました。
お店を出た頃には花火大会は終盤で、佳境に入るところでした。そうしたら、せっかくなので観ていくことにしましょう。



この先のエスカレーターを上がっていけば特等席になると思うのですけど、そこはビアガーデンのような有料スペースとなっていました。 私は晩御飯を食べ終わったばかりで、あと数分で終わるのにそこに入るのもどうかと。それに、多少視界を遮るものがあったとしても、迫力は充分伝わってきますし。なので、この写真でご了承くださいませ。
花火大会が終わった直後には、帰路に就く人の波が押し寄せてきました。これから電車やバスに乗って帰るとしたら、大変ですよね。 それでも、私はそこから歩いていけるところにある宿を押さえてあるので、心配要りません。 それは、サンポート高松や駅からは東のほうにあって………



その途中で、ライトアップされた高松城旧東丸艮櫓(きゅうひがしまるうしとらやぐら)が見えてきました。 ライトに照らされて、暗闇の中に白壁が浮かび上がる姿は、幻想的ですね。そこからさらに歩いていったら………



ようやくたどり着きましたよ 私がこの夜お世話になる、ファーストイン高松が。 ちなみに夜ではわかりにくいので、写真は翌朝に撮ったものを使わせていただきました。こちらはサウナ付きの大浴場がメインで、カプセルルームといった簡易宿泊施設も併設されています。 しかも、1泊朝食付きで3400円と、かなりお得ときたもんだ ちなみに、気になるそのお部屋は………



※かなり広そうな和室ですね。なんか、ホテルの外観や宿泊料金と合わないのですけど……… (編集部注)
しまった 写真を間違えてしまいました。こちらは坂本龍馬記念館の本館内に再現された、京都にかつてあった近江屋の母屋の二階の部屋であります。 そちらの部屋は、自由に入ったり写真を撮ったりできるのですけど………



そこは、慶応3年(1867年)の11月15日の夜に、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された場所でもあります。 襲撃したのは見廻組で、彼らに致命傷を与えたのは、のちに静岡県に移り住んだ今井信郎が有力とされています。それは大政奉還からわずか1ヶ月後のことで、奇しくもその日は龍馬の33歳(満32歳)の誕生日でした。 またしても、話も部屋も横道にそれてしまいましたけど………



本当の部屋は、こうです カプセルタイプのベッドスペースは上下の二種類があるのですけど、私は上段のタイプを選びました。それに椅子とテーブルが備わった小さな部屋が付いているのですけど、ドアはなくて通路とは厚いカーテンで仕切るだけとなっていました。 なので財布などの貴重品は、その中にある鍵付きのロッカーに入れるか、フロントに預けてくださいませ。
今回の一人旅は、早いものであと1日で終わりとなります。その旅日記も次回で終わらせるつもりですけど……… なるべくきれいに締められるように、簡潔かつ丁寧に書けるように努めさせていただきます。


にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 「やっぱり骨付きの肉は『ワンピース』のルフィみたいに豪快に食べたい」という方は、こちらに投票してやってください。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 高知の名所と名物を堪能いた... | トップ | 実はスゴいところだった、玉... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

人物伝」カテゴリの最新記事