こんばんは、白黒茶々です。
前回の日記のラストで予告した通り、私は波&狛とともに名古屋市緑区にある大高緑地という広大な公園を目指しました。 お昼の時間帯ということもあって、歴史散策からはちょっと離れてこちらで休もうというワケです。 今回はその第6駐車場から入っていったのですけど、そこは遊具や恐竜広場に近くて住宅地に面しているからでしょうか?混んでいて、駐車する場所を確保するのに苦労しました。
そのような過程を経て、ようやく大高緑地(の恐竜広場)にたどり着きましたよ 波と狛の後ろにいる巨大な恐竜には大ちゃん・高ちゃんという名前がついていて、ともに近くを走る列車の窓からも見ることができます。
その近くには動物の遊具もあったのですけど、なぜか波はシマウマに過剰に反応していました。 しかし、ライオンなどにはあまり食いつきませんでした。
ワンコを連れて大高緑地に来たら、やっぱり園内にあるドッグランはハズせませんよね 久しぶりに来て位置関係があやふやだったのですけど、案内図では近くにあったので、そこまで歩いていくことにしました。 しかし、なかなかたどり着けなくて……… そういえば、先ほど見たものはかなりデフォルメされていたような。 しかもそのドッグランの近くには、私たちが車を止めてきたところよりも広くて空いている駐車場がありましたよ
………という気付きや発見を経て、ようやくお目当てのドッグランにたどり着くことができました。 こちらは入場無料で、必要最低限のマナーは守らなければならないのですけど、監視員などはいないので、気軽に利用することができるのですよ そのあたりは昔からのままでよかったです。
1通り先客のワンコたちとあいさつしたら、いよいよリードを外します。 さあ、思い切り走ってくださいませ
しかし、波はひたすらバケツの水を飲み続け、狛は柵内を歩き回るだけでした。 この日は走る気分ではなかったのでしょうか? そのあと、波と狛には車の中で休んでいてもらい………
私は大高緑地から近いといえなくもないところにある、鷲津砦跡に向かいました。 現在は麓が公園となっているこの場所は………
今川義元のもとに下った大高城を奪還するために、織田信長が永禄2年(1559年)に築いた砦の1つです。 せっかくなので、その砦があったという丘に登っていきます。
ハアハア……… その頂上には、慰霊碑と思われる石碑がありました。 丘の上のどこかに城址碑も立てられているみたいですけど、見つけることはできませんでした。
鷲津砦は、桶狭間の戦いがあった永禄3年(1560年)5月に、今川方の朝比奈泰朝が率いる2000人の軍勢に攻められ、陥落。 この時、多くの城兵は命を落としたと云われています。 しかしここだけの話、現在鷲津砦があったとされているこの場所では、それを裏付けるような発掘調査などはおこなわれていないので、「推定地」か「伝説地」としておいたほうがいいのかも知れません。 その向かいにある明忠院の裏山のほうが位置的にも史実に近いので、もしかしたらそちらを掘ったら何か(人骨とか?)が出てくるかも知れません。
とにかくこちらを見終えたので、次の目的地に向かいます。 鷲津砦から東南に400m、大高緑地の第6駐車場からは西北に300mのところの住宅地の坂を登っていったところに………
丸根砦跡はあります。 こちらも鷲津砦と合わせて、織田信長によって永禄2年(1559年)に大高城奪還の戦略的に重要な位置に築かれました。 その翌年の5月の桶狭間の戦いの前哨戦では、佐久間盛重が守っていたのですけど、今川方の松平元康(のちの徳川家康)の軍に攻められて全滅。
その山頂には「丸根砦戦殉難列士之碑」という慰霊碑が立てられていて………
さらに、西のほうに大高城跡を臨むことができます。 この勢いのままそちらのお城にも行きたかったのですけど、歩いていくには遠くて、近くに車を止められるようなところがなかったので、攻略は断念することにしました。
………と、気付いたら私は桶狭間の戦いに関するところを巡っていました。はい、これは来年の大河ドラマ「どうする家康」の前乗りも意図しています。 これからというか、次回でこの歴史散策シリーズは完結させる予定ですけど、これからさらにその核心部に迫っていきます。 ………と言いつつも、ちょっとそのコースから外れて寄り道していってもいいでしょうか? そこも歴史に残る戦いの舞台となったところですけど………
私たちは名古屋市緑区鳴海町にある名鉄自動車学校にやって来ました。 その教習コースの外側に、古いスタンドみたいなものがあるのがおわかりでしょうか?
はい、実はこちらはかつて鳴海球場があったところなのですよ 名古屋鉄道(名鉄)の前身の愛知電気鉄道が沿線開発の一環として、当時の鳴海町内で野球場の建設に着手しました。 「東の神宮、西の甲子園に負けない本格的な球場を 」という概念の下で設計され、昭和2年(1927年)に完成しました。 約20000人収容のスタンドを有し、両翼106m、中堅132mのグラウンドは、現在の野球場の国際規格(両翼100m、中堅122m)を遥かに上回っていました。 さらに、メインスタンドには後に鉄傘が設けられ、甲子園のアルプススタンドに倣って「伊吹スタンド」と命名されました。
こちらは三塁側の内野スタンドとなります。 昭和6年(1931年)と昭和9年(1934年)にはこの球場で日米野球がおこなわれ、ルー・ゲーリックやベーブ・ルースがその試合に出場しました。 さらに昭和11年(1936年)2月9日には、職業野球連盟に属する球団の東京巨人軍と名古屋金鯱軍が対戦しました。 そう、この球場で全国で初めてのプロ野球の試合がおこなわれたのです ちなみに結果は、10対3で金鯱軍が勝ちました。
三塁側のスタンドを外から見ると、こうなります。 鳴海球場は、戦時中は金属供出のために鉄傘を撤去されたり、日本軍に接収されたりしたのですけど、戦後は再び野球場として利用されることに。 しかし中日ドラゴンズとして再編した球団は、昭和23年(1948年)に名古屋市中川区に建設された中日スタヂアム(現在のナゴヤ球場)を本拠地に定め、鳴海球場の存在感は薄れていきました。
教習コースのど真ん中の植え込みには、黄金のホームベースが埋め込まれています。 まさにこの場所に球場のホームベースがあったそうです。 その後、鳴海球場は高校野球などアマチュア主体で使われていたのですけど、昭和25年(1950年)に、ホームランを出やすくするために外野の両翼にラッキーゾーンを設置。 これにより、グラウンドは両翼91m、中堅123.5mに縮小しました。 さらに起死回生を狙って、プロ野球の公式戦を多数開催することを見込んでスタンドを増築し、収容人員は約40000人にまで増加しました。
しかし、プロ野球の公式戦はほとんどおこなわれなくなり、ドラゴンズの二軍も練習の拠点を移転。 さらにアマチュアの利用も減って、球場の経営は悪化しました。 そして昭和33年(1958年)10月をもって閉鎖してしまいました。 その後、球場の跡には自動車学校が造られたのですけど、地元の住人の要望もあって、スタンドは残されました。 バックネット裏など、一部は取り壊されたのですけど、このような経過を経て今日見られるような姿になったのですね。
今よりは席の間が狭くてぎゅうぎゅう詰めなうえに立ち見もあっての40000人収容だとは思うのですけど、それは現在のプロ野球球団の本拠地でも大規模な部類に入ります。 さらにそのグラウンドで歴史に残る試合がおこなわれたと思うと、ロマンを感じます。
そうそう桶狭間の戦いでは、今川義元が率いていた兵は25000人とも45000人とも云われています。 そのような大軍に、織田信長は2000人で襲撃していったのですよね。 ということで、次回は波&狛とともにその舞台となった場所を巡ります。