波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

桶狭間古戦場ってどこですか?

2022-10-19 00:54:14 | お出かけ

こんばんは、白黒茶々です。

10月初旬の日曜日に、私はとともに知多や大高方面を訪れ、お城や公園、現在は教習所となっている野球場の跡などを巡りました。 それは前回の日記の終盤あたりから桶狭間の戦いに関するスポットに切り替わっていったので、今回は最初からその流れでいかせていただきます。 その歴史に残る合戦を追っていくので、私たちが実際に訪れたのと多少順番が違うところ(途中で夕方になるなど)があっても、突っ込みたい気持ちを抑えつつ読んでいってくださいませ。

………ということで、私は名古屋市緑区にある鳴海城跡にやって来ました こちらでの調査がすぐに終わることを見込んで、波と狛は近くの有料駐車場の車の中に置いてきました。 こちらは桶狭間の戦いが起こる前に、今川義元に下ったお城であります。 しかし、現在そのあたりは公園となっていて………

戦国時代のお城の面影はありません。 その代わりに、富士山滑り台が存在感を放っていました。 鳴海城はこのあたりにあったと思われるのですけど………

その公園から路地を出て、通りを隔てたところにある天神社(あまつかみしゃ)の境内に、なぜか昔ながらの鳴海城の城址碑が立てられていました。 さらに、そこから東に650mほど行ったところに………

砦公園があります。 今でも北側の展望が開けているこの場所は………

鳴海城を奪還するために、織田信長が永禄2年(1559年)に築いた善照寺砦だったところです。 信長は合わせて丹下砦中島砦も築いて鳴海城の包囲網を敷きました。 しかし、後者の2ヶ所は現在は跡形もなくて、細い路地を入ったところで行きにくいので、善照寺砦だけでご了承くださいませ。

それはさておき、私たちは豊明市にある沓掛城跡にやって来ました。 こちらは現在は整備が行き届いていて、見学者用の駐車場やトイレも備えられているので、ゆったりと散策することができそうです。 波と狛は充分に休ませたので、そろそろ一緒にお城歩きを………

………って、こちらはワンコ禁止だったのですか この注意書きを見てしまったからには、無視するワケにはいきません。 波ちゃ、狛ちゃ、すまない。 急いでお城を見てくるので、それまでまた車の中で待っていてくださいませ。

沓掛城は、本丸を囲む土塁空堀が良好な状態で残っていました。

こちらのお城も今川方に下っていて、今川義元は桶狭間の戦いの前夜に宿泊していきました。 そしてその翌日となる永禄3年(1560年)5月19日に大高城を目指し、25000人(一説では45000人)の軍を率いてこのお城を出発しました。

そんな今川義元の軍に追随して、私たちも名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園にやって来ましたよ こちらには、今川義元と織田信長の銅像が建てられています。両者とも勇ましくて、仲良く(?)並んでいますね。

尾張に侵攻してきた今川義元の軍はその日大雨に見舞われこともあって、この古戦場公園からちょっと坂を上がったおけはざま山に陣を構え、休息することにしました。 そのあたりは現在は住宅地となっているのですけど、歩いてすぐのところに石碑が立てられているので、行っておけばよかったです。
その一方で、3000人の軍を率いた織田信長は桶狭間を目指していました。 そのうちの1000人は別行動を取るようにしたので、実質わずか2000人だけで信長は今川の陣に斬り込んでいったのです 信長軍は前方に展開していた今川の前衛軍を打ち破り、その混乱の中で本陣に攻め込む乱戦となりました。

不意を突かれた義元は、300人ほどの旗本に守られながら逃げたのですけど、すぐに追い付かれてしまいました。 そんな彼に立ち向かっていったのは、服部一忠 義元は一忠に一番槍をつけられながらも、反撃して膝を切り割りました。 しかし、その直後に毛利新介によって組み伏せられ、討ち取られてしまいました。 「今川義元、討ち取ったり 」という新介の声が戦場に響き渡ると、今川軍は戦意喪失。 さらに総崩れとなり、この決戦は織田軍の大勝利をもって幕を閉じました。
古戦場公園内の義元が命を落としたとされている場所には、石碑が立てられています。

さらにこちらの公園には、桶狭間やその周辺の地形を模した庭園が造られています。 その中でも、私が先ほど訪れた砦や出城を四角い石で表しているのがなんとも。 その桶狭間古戦場公園から北東に1.2kmほど行った豊明市のほうにも………

なんと、桶狭間古戦場があるのですよ こちらは伝説地とされているのですけど………

現在公園となっているその地は、古くから合戦があった場所と云われていて、いくつかの石碑などが立てられました。 ちなみにこちらは、江戸時代中期に立てられた七石表1号碑)で、今川義元が戦死した地点を示したものとしては最古なのですよ。

そのすぐ近くには、義元のお墓があります。 このあたりには弔古碑があったのですけど、通りかかった旅人が義元の墓と間違えて香華を手向けたりしていました。 それを見かねた有松の住人の山口正義が、明治9年(1876年)に建立し、祈りの場としました。 この伝説地は国の史跡に指定されています。今回私は行かなかったのですけど、通りの向かい側にある高徳院の境内に今川義元の本陣があったと云われています。

さらに公園内には、古くからあって深みもある「桶狭間古戦場趾」の石碑が立っています。 合戦は広範囲に及んだこともあって、今川義元の本陣や彼が討ち取られた場所を特定するのは難しいです。 そのような中、名古屋市緑区と豊明市が古戦場の本家本元争いをしているのでしょうか? いずれにしても、ともに見どころや写真映えするところがたくさんあるので、両方訪れることをオススメします。



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