私は、これまでの自分の建築行為の中では、何らかの作為を持って作業を行って来ましたが、先日のテレビ放映された、こころの時代の仏師・山本龍門さんの話を聴いていて、改めて作為を持たない大切さを感じました。
山本さんは倉吉出身ですが、高校3年の秋に公務員試験で上京後、新聞記事で知った木彫師の住む滋賀県の上丹生(現米原市)に立ち寄ったのが縁で、焼杉彫刻の親方に弟子入りをされました。
欄間などの伝統彫刻を習得した過程で、京都の大仏師の松久さんがテレビで、「プロでもアマでも仏像を彫りたい人には教える」と話すのを聴いて、外弟子として本格的な仏像彫刻の基本を学びました。
外弟子は内弟子に比べると比較的に自由で、自分の思い通りに仏像を彫ることが出来、円空・木喰風の龍門流の彫り方で、1年で千体の地蔵さんを彫ったこともあったと云うことです。
そんな山本さんが友人・知人の援助のお陰で、倉吉に千体の仏像のマンダラがある集仏按を作り、そこを中心に変わらずに仏像を彫り続けておられるようです。
これから彫る木と向きあって、何らかの作為を持たずに彫り続けていると云う。 勿論、本格的な仏像彫刻の技術的なものを持ち合わせた上で、木と対話をしながら彫りあげて行くと云う。
私は子供たちが一心不乱に積み木遊びをしている過程で、できあがっていく作品が好きです。 作為がある作品の方が理解され易いものの、創る過程で思わぬものが出来上がっていく方が、楽しいと何時も感じていて、仲間たちと一緒に行う講評会では、私の意図する作品が、どちらかと云うと良い評価はもらえない雰囲気があります。 残念ながら。
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