昨日、上記の表題でコメントをいただきましたので、改めて普段感じていることや、昨夜の1時間の座禅の雑念で考えたことを、表現したいと思います。
禅宗(臨済宗・黄檗宗)の呼吸法は、順腹式呼吸です。 禅宗の呼吸法は,、理念が先行していると思います。 下腹の臍下丹田を私たちの目に見える臓器と同じように考えて、肺で息を吐くときと同じように、息を吐くときにも下腹の臍下丹田も、同時に吐くと考えてしまっているようです。
私は、臍下丹田はあくまでも気の呼吸を行う心臓部と考えています。 自分の体験から、肺呼吸と気の呼吸は表裏一体であると感じています。
私たちは生来、意識しないで肺呼吸を行なっています。 息を吸うときには大きく胸を膨らませ下腹は凹みます。 息を吐く時には胸も下腹も、元に戻ります。
私は生まれて初めて意識した呼吸法を伴いながら、ひたすら胡座を組んで無我夢中で、1時間の座禅を行いました。 ラジオ体操で行なっていた深呼吸の要領でです。 その結果、初日に頭のてっぺんにある百会が活性化し、電子の輪の帽子を被った状態になりました。
そんなことがあり、毎日のように日常的に呼吸法の練習を行なって、毎夜1時間の座禅を続けました。 結果的に1ヶ月半で、下腹の臍下丹田が活性化し、自発動という現象を伴いながら、心臓のように鼓動を始めたのです。
その後、本で「胎息」という言葉を知り、この呼吸法はどんな呼吸の仕方だろうかと考えていました。 そんな時、ひょっとしたら胎息とは、私たちがお母さんのお腹の中に居た時の呼吸の仕方だろうと考え、肺呼吸を止めて見たのです。
その時には既に、日常的に下腹の臍下丹田は心臓のように鼓動をしておりましたので、結果的にかなり長い時間、息を止めることができました。 胎息は特別な呼吸法ではなく、誰もが胎児のときに行なっていた呼吸であると感じたのです。
私達は意識することなく、胎児の時に行なっていた胎息から、生まれでた瞬間に気の呼吸から空気を吸う肺呼吸に変化するのですが、その時の息苦しさから「オギャー」という泣き声と共に変わるのです。 これは自分自身が、初めて胎息を行なった時に、気の呼吸を止め肺呼吸に変わるときに、その息苦しさを感じたからなのですが。
肺呼吸に推移する過程で、赤ちゃんは下腹を動かす呼吸を行うのです。 そんなことを思い出しながら、改めて私はその逆の呼吸法を行なってきて、最終的に胎息にたどり着いたのです。
私は全てを分かって行なってきたわけではなく、体の変化が先行して後から、ものの本を読んで、こういうことだったのかと理解して行きました。
そのようなことを踏まえた上で、肺で息を吸うときには、下腹の臍下丹田は気を吐く関係にあります。 つまり息を吸うときには胸は膨らみ、下腹は凹むのです。 息を吐く時には気は吸うのです。
私が無我夢中で行なってきた我流の逆腹式呼吸は、たまたま生理学的に理に合っていたのでしょう。 ですからスムーズに胎息までたどり着いたのです。
お釈迦さまの呼吸法も、私の言う逆腹式呼吸であったと思います。 順腹式呼吸法は、臍下丹田を気の呼吸を行う心臓であるという認識がない方が行う呼吸法ではないかとさえ、思ってしまうのです。
以前のブログでも書きましたが、逆腹式呼吸が正規であって、順腹式呼吸は非正規(パラレル)であると思っています。
息を吸っている時には気を吐く、息を吐いている時に気が充実する。
それによって息を吐いてる時には集中力に必要な酸素はないけど気が充実している事で一時的にもマイナスの状態になるのを防げているわけですね。
だから常に集中を保つ事ができて長時間の瞑想もできると。
胡座を組んだ座禅の時は、下腹の臍下丹田に向けて吐きます。 下腹の臍下丹田といっても分からないかもしれませんが、アバウトで下腹に吐きます。
寝ながら行うときには、下腹でもよし、足の裏から吐き出すような感じで、吐いてもいいです。
できるだけ長く吐くのですが、苦しくなる寸前まで吐きます。 そのちょっと手前で軽く息を止め、また大きく息を吸います。
吸う、吐くのリズムは、決して無理してはいけません。 苦しくなる寸前まで吐きますが、あくまでも自然のリズムで、行う必要があります。
その感覚は、ご自分で感得してください。 この逆腹式呼吸は、眠っていた経絡を刺激しますので、体に微妙な変化を与えます。
その変化を楽しみながら、続けてください。
龍之介さんのブログにたどり着いて本当に良かったです。