東大寺・鐘樓(しゅろう)・・・・進化した大仏様

2006-12-31 23:53:12 | 建物づくり一般

 除夜の鐘などでおなじみの東大寺の鐘樓である。「しゅろう」と読むようだ。

 梵鐘は天平勝宝4年(752年)の鋳造と推定され、焼損の痕跡がないので、戦火には遭わなかったらしい。そのことから、鐘楼は当初から現在位置に在ったと考えられている(伽藍からかなり離れた丘の上にある)。
 ただ、大風や地震でたびたび倒壊し、現在の建物は、1206~1210年頃、重源(ちょうげん)を継いだ大勧進の栄西(えいさい)によって再建されたとされる。
  註 栄西は最初叡山で天台・密教を学び、宋に留学後、臨済宗(禅宗)を開いた人物。

 柱は径3尺弱、地貫(ぢぬき)、内法貫(うちのりぬき)、頭貫(かしらぬき)の3本の貫で固められる。
 貫には上下に面が取られている(地貫は上だけ)。
 ただ、この貫は、南大門、大仏殿とは異なり、内法貫は柱に貫通する部分だけ幅を狭め、そのまま鼻を外に出し、繰り型を付け、地貫、頭貫は、面の分だけ幅を細くし、同じく鼻を外に出している。つまり、どの貫も、柱に対し、胴付き(胴突き)を設けた仕口になっている(楔で締める必要がない)。
 したがって、架構はきわめて堅固になるが、組み方(建て方)はかなり難しい。さらに、梵鐘を釣る虹梁は、四隅の柱とは別の柱に力がかかるように考えられており、その取付けも建込みになっているから、相当に巧妙な設計で、建て方を一段と難しくしている(断面参照)。
 大仏様の技術は、南大門建立後、およそ10年ほどの間に格段の進展を見せたのである。
 識者は、「本鐘楼・・は大仏様の特色を最大限に発揮した傑作であり、力強さ、巧妙さとも日本建築史上これに比肩する遺構は見当たらない。(香取忠彦)」と述べている。

 実際、鐘楼の前に立ち、その建て方の順番を考えていると、時間が経つのを忘れてしまう。

 写真、図は『奈良六大寺大観 第九巻 東大寺一』(岩波書店)より。解説も同書に拠った。

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