日本の「建築」教育・・・・その始まりと現在

2006-12-05 01:59:52 | 「学」「科学」「研究」のありかた
 19世紀のフランスには、Ecole PolytechniqueとEcole des Beaux-Arts という二つの学校が、建築にかかわる専門家の教育に大きく関係していたことを、先回アンリ・ラブルーストの仕事の紹介の際に触れた。

 日本の「建築」教育は、前代までと全く縁を切った形で、明治のいわゆる「近代化」とともに始まる。
 1871年(明治4年)、「近代化」(=西欧化)のための技師養成を目的に、明治新政府は、土木、機械、化学、電信、鉱山、冶金そして造家(ぞうか)の各科からなる「工部省工学寮」を設立、1873年(明治6年)「工学寮工学校」の開設とともに実際の教育が始まる。以後、1877年(明治10年)に「工部大学校」、1886年(明治19年)に「帝国大学工科大学」と学制が変るが、「造家学科」がわが国の「建築」教育の始まりであった。

 この「造家」という語は、architecture という外国語の当初の訳語である。
 しかし「造家」の語は、1897年(明治30年)、伊東忠太の「主張」によって「建築」に改称される。伊東忠太は1892年に工部大学校を卒業、1897年に同校の講師に赴任、同時にこの「主張」を説いた(伊藤忠太著作集6「アーキテクチュールの本義を論じて其の訳字を撰定し我が造家学会の改名を望む」)。少し長いが紹介する。

 「・・アーキテクチュールの本義は啻に(ただに)家屋を築造するの術にあらず却って(かえって)実体を建造物に藉り(かり)意匠の運用に由って眞美を発揮するに在る。彼の墳墓、記念碑、凱旋門の如きは決して家屋の中に列すべきものに非ざる(あらざる)なり。然れども(しかれども)これを計画する者はアーキテクトに非ずして誰ぞや。・・アーキテクチュールはこれを『建築術』と訳すべきものにして造家学と訳すべき理由甚だ薄弱なり。・・我が学会は学理と芸術を合せてこれを包括す。これを造家学会と云ふ、大いに非なり。これを建築学会と云ふ亦甚だ妥当にあらず、予は爰に(ここに)希望す。造家学会を改めて建築協会と呼ばんことを。」

 そして、経緯は不詳だが、architecture の新しい訳語として「建築術」から「術」を取り去った「建築」が採用されることになる。
 しかし、「建築」という語は日本で昔から使われている語であって、本来の意は、文字通り、「建て築く」つまり英語の build, construct の意であった
 上に掲げたのは、工部大学校・造家学のカリキュラムの一部だが、文中の「建築」は、すべて build, construct の意であり architecture の意ではない(また明治23年:1890年に「建築学講義録」という書が刊行されているが、これも各種材料ごとの構築法についての解説書で、architecture に関する書ではない。いずれその内容を紹介する)。
  注 工部大学校では、現場に出ること、医学教育でいうインターンが勧められている。

 その結果、「建築」の語は、以後、build, constructと architecture の両方に《適当に》使われるようになってしまった(その点では、architecture =「建築術」とした伊東忠太の主張の方が妥当であった)。

 上掲のカリキュラムを見ると、工部大学校の教育が実務に主体を置いていたことが分かる。そして彼には、それが不満であった。「見積書を大学の学生につくれなんぞといふのは末の末のこと。かやうなことは学問的でないと思ひ、あまり勉学する気になれぬ・・。」と彼は試験答案に書いたという(建築学大系37:旧版:「建築学史」)。
 伊東が赴任し、造家学科改め建築学科の教育内容は、それまでの実務の習得を離れ、「どのような意匠にすべきか」という方向に大きく転換する。「実体を建物に藉り意匠の運用に由って眞美を発揮する」教育が現実に行われ「意匠至上主義の時代でより多くヨーロッパ趣味を表したものが、よりよい建築である」とされた。

 この伊東主導の教育を、「建築学科では講義はまことに少なく、製図ばかり多く、絵みたいなものばかりかかされていた。・・芸術教育の色彩が非常に強かった」「形のよしあしとか色彩のことなどは婦女子のすることで、男子のすることでない。・・」「教えられることに、何の科学的理論もない・・。」として批判したのは1903年(明治36年)に卒業した佐野利器である。
 佐野も、卒業後母校の教壇につき、建築学科の教育の流れを変える。
 佐野の時代以後、建築学科は「工学としての建築」の方向へ歩みだし、「建築」の概念は「造家」の時代のそれに近い内容へ、「工学」の名を付された上、ゆり戻される。
 明治末から大正年間にかけ、《中央の建築界》を賑わした「建築・芸術非芸術論争」は、この教育面での伊東から佐野への「変動」がその背景にある。

 ところで、このいわゆる最高学府から《輩出した人材》が、わが日本の「建築家」の発祥にほかならない。
 もちろん、個々人の資質によるのではあるが、多くの場合、この「建築家」たちは、それまでのわが国の建物づくりの成果に目を配ることを忘れ(その必要を認めず)、それを担ってきた専門職:大工、石工、左官、・・・を単なる作業者におとしめ、その力を無視し、あるいは無用のものとして切り捨てて平気であった。同じ建物をつくることにかかわる者が、立場によって二分されたのである。

 そして今も、わが国の建築界は、あいかわらず、この《近代化》によって人為的につくりなされた二分した流れのままに在り、それによって生じている問題はきわめて多岐にわたり、その弊害も大きい。
 これは、西欧の事情とはまったく異なることを認識する必要がある。少なくとも西欧では、過去と現在がつながっている。
 この点については、あらためて書くつもりである。
 

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アンリ・ラブルースト・・・・architectとengineer

2006-12-02 23:20:37 | 鉄鋼造

新しい材料である鉄やガラスを盛大に使った建物としては、1851年ロンドン大博覧会の「クリスタルパレス」が有名である。ただこれは、催事用の建物。その数年後、きわめて「実用的な」建物が、パリにつくられた。
上掲の図・写真がそれで、1858年に着工、1868年に完成したBibliotheque Nationale:国立図書館:である。その書庫部分は、何の修理・補修も要せず、現在も使われているという。
なお、私は、この建物を観たことはない。書籍による知識のみだ。
以下に、S.Giedion著“Space,Time and Architecture”の解説を参考にしつつ紹介する(図、写真も同書による)。

設計者はHenri Labrouste(アンリ・ラブルースト:1801年~1875年)。
彼の生まれた1801年は、ワットが鋳鉄造の7階建て工場をつくり、また、鋳鉄製の巨大なロンドン橋の計画が提案された年。
そのようないわば[ざわざわした時代]に育った彼は、Ecole des Beaux-Arts:美術学校:を最優秀学生として卒業、賞として5年間イタリアに留学する。
彼は、イタリア各地のローマの遺跡の構造物の随所に見られる構造上のすぐれた技術に驚嘆、「それぞれの構造物の背後に秘められた精神、各構造組織(l'organisme de chaque construction)」を把握するように努めたという。「 」内は、太田実氏の訳による。以下同じ)。

当時のフランスでは、共に官立の、1794年創立のEcole Polytechnique:理工科学校と、1806年創設のEcole des Beaux-Artsとが、高等教育機関として双璧の地位を占めていた(1794年はフランス革命中、1806年はナポレオン治下。Ecole des Beaux-artsはancien regime:旧制度:復活のための教育機関としてナポレオンが創設)。
Ecole Polytechniqueには、上級の工科大学への準備教育機関の役割があり、当時のフランスのそうそうたる数学者、物理学者などが教授をつとめ、「理論科学と応用科学との結合」という重要な役割を担っていた。

その一方、Ecole des Beaux-Artsは、当初から、「建築と他の美術との結合」を目標としていたため、徐々に時代の流れから離れ、「芸術を日常生活から孤立化させる傾向」を強くしていた。

当然、この2教育機関は建築の世界にも大きな影響を与えていたが、19世紀中ごろには、この二つの代表的教育機関間の離反が目立つようになり、その結果、建築界では、次のような問題が論議されたという。
 ① architectの訓練は、いかなる過程で行われるべきか。
 ② engineerはarchitectとどのような関係を持つべきか。
   また、それぞれは、どのような専門的職能を持つべきか。

ワットが鋳鉄を使った工場建築を手がけたように、そして橋などの設計家マイヤールがRCの建物を設計したように、すでに産業革命以降、「芸術家という象牙の塔」にこもって旧来の様式にこだわっていた当時のa rchitect の世界に、徐々に engineer が立ち入り活躍するようになっていた。
こういう《象牙の塔》の外での engineer の種々の成果は、建築の世界にも、単に様式を踏襲するのではなく、あらためて construction の視点から『建築』を考え直すべき、という機運をもたらした。

幾多の人びとの試行を経て、construction と architecture との空隙を埋めた一つの例が、ここに紹介する Henri・Labrouste :ラブルースト:の国立図書館である。
彼は、この建物の前に、別の図書館 Bibliotheque Sainte-Genevieve(1840~50年)を設計している。
それは、柱や梁、小屋組などすべてを鋳鉄と鍛鉄によりつくり、しかも、ワットの工場と同じく石造の外壁でくるまれてはいたが、しかし、鉄造の部分は石壁によりかかることなく独立、自立していたという。
この経験を踏まえ、その延長上で、この国立図書館は設計されている。

19世紀になり、図書の出版が増え、その収納のための容量の確保が当時の図書館の課題であったという。また、当時は、現在の開架書庫スタイルはなく、閲覧室と書庫からなるのが一般的であった。
透視図に描かれている閲覧室は、方形で、16本の鋳鉄製の柱(直径1ft、高さ32ft)が相互に半円状の梁で結ばれ、4本の柱に囲まれた小方形単位ごとにヴォールトを構成、ヴォールトは薄い陶板製、中央は採光用の円い開口になっている(詳細は図面がなく、不明)。

閲覧室から半円形の平面の受付事務室を経て書庫に続く。
書庫は、閲覧室とはまったく異なり、前代までの様式をうかがわせるところがない。
書庫は、地上4階、地下1階、90万冊を収納できる広さ。屋上はガラス張りで、各階の床が鋳鉄製の格子状になっているため、日の光は格子を透けて書庫の上から下まで差しこむ。
書庫への歩みをなるべく最短にするため、中央の吹抜けには、対向する書庫間に橋が架けられている。

この格子床は、当時の蒸気船の機関室に使われていたものの応用という。
現在の図書館建築でも、閉架の積層書庫で、床がすけすけの構造が用いられている。

なお、皮肉なことに、この図書館の設計図は、Bibliotheque Nationaleにも保存されていない、つまり失われてしまっているとのこと。

私がこの建物を紹介するのは、その素直な『用に見合う空間の実現法』に共鳴するところがあるからである(特に書庫)。
なお、今回、architect,engineer・・と記し、建築家、技術者、との訳語を用いなかったのは、その語を用いると、本義が誤解されると思ったからである。西欧での意味と日本での意味は大きく異なる。太田実氏の訳でも、建築家、技術者・・と訳した上で、原語の『読み』をルビで付している)。construction と記し、「構造」と書かなかったのも同様である。
 

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