日本インテリへの反省・・・・遠藤新のことば

2006-12-26 21:54:57 | 「学」「科学」「研究」のありかた

遠藤新(えんどう・あらた)といっても、もう知らない人の方が多いかもしれない。
1889年(明治22年)、福島県の生まれ。帝国ホテル(1923年:大正12年竣工)の建設にあたり、F・Lライトの右腕として働いた人物である。

自由学園の建物(目白と南沢)、甲子園ホテル(現武庫川学園学生会館)、栃木県真岡市の真岡小学校久保講堂などは、今でも訪れることができる。
それらの建物の空間の「暖かさ」「人懐っこさ」は実際にその空間に立たないと分からないだろう。建物は、写真、写真映りでは分からないのだ。


上掲の図と写真は、東京・目白にある自由学園の明日館(重要文化財)と講堂。明日館は、現在、集会などに使用可。

彼が1949年(昭和24年)「国民」という雑誌の三月号、五月号に、「一建築家のする―日本インテリへの反省」という一文を寄稿している。その一部を紹介したい(「遠藤新作品集」より引用)。

私は市井の一建築家です。学者先生でもなければ、新円商売に時めく「業者」でもありませぬ。むしろ建築界に行脚托鉢しつつこの道を修する「行者」のつもりです。一体豪華を極めた法城の威儀と荘厳の間に、そのかみの「紙子の祖師」が面接した「裸のたましい」が忘れられることがあるように、建築という煩雑な仕事にも、いろんな係累にかまけて「直指人心」してこの道の真実に面接することはなかなか容易でありませぬ。その点で本山も檀徒もない托鉢坊主の私の三十年来の立場はだれよりも自由にそして何の憚るところもなく真正面から建築に体当たりをさせてくれました。このようにして私はものを考え、考え続けた結果がこの一文の反省になるのです。戦争に負けて今さらにわかに思いついて申すことではありませぬ。

今こそ日本は大きな反省の時機に際会しております。そしてその反省は一切とらわれない立場からするのでなければ無意味です。・・・そしていうところの反省はいろいろな方面から考えられますが、ここでは住宅という一局面からだけ申します。

一体世界のいろいろな民族は皆それぞれ独自の形式の生活を営みそしてそれに相当する独自の様式の家に住んでおります。
これを発生的に考えて見まして、どこの民族の家も一室主義に出発してそれに多少の潤色を附加せられたものになっております。
蒙古の包(パオ)やアイヌの小屋を初めとして我々の先祖の住宅だったと考えられる伊勢の神宮や出雲の大社なども「妻入り」「平入り」の差だけで一室主義を原則としたものだったのでしょう。

そしてその原始型からやがて、寝る所だけを別にした形式が生まれます。世界中の住宅には実にいろいろの種類があり、それに大小の変化もありますが、この根本の要領だけはそのまま維持されているというて決して間違いありません。
この意味で、我々日本人の従来の百姓家も町の「しもた家」も立派に民族の家たる資格を持っておるのです。
 (中 略)
かつてブルーノ・タウトは桂の離宮を絶賛したと聞いております。そして日本人は今さらのように桂の離宮を見直して、タウトのひそみに倣うて遅れざらんとしたようです。しかし、私は深くそして堅く信じます。タウトは桂離宮に驚く前にまず所在の日本の百姓家に驚けばよかったのです。そしたら日本に滔々として百姓家を見直すということが風靡したかもしれませぬ。

従来とても我々の間に「民家」の研究という種類のことはありました。しかしこの研究には何か「取り残されたもの」に対する態度、「亡び去らんとするもの」に対する態度、したがって、ある特殊の趣味の問題として扱われてきているのが実情です。
しかし私の考えによれば、私どもが軽々にこれを「民家」と呼ぶことがすでにいけないのです。私どもはこれを「民族の家」といい直さなければなりません。そのとき我々のうかつにも軽蔑してきた百姓家が、実に厳然としてさんらんたる白日光を浴びながら私どもの前に立ち現れてまいります。私どもはじかにこの民族の「たましい」に面接しようではありませんか。

要は、我々日本人はいかなる「民族の家」を有つべきかという一点にかかります。
 (中 略)
・・真中に縦に廊下を通して、建物を南側と北側とに分け南側に応接兼書斎、さらにあるいは食堂それから八畳、六畳、子供室といった部屋。そして北側には便所、風呂、台所、女中部屋といった配置。
これが、日本人の住宅の通念であるらしく大小はとにかく、みな判で押したようにこの型を踏襲しております。そしてこれをだれも当たり前のことにして少しも怪しみません。この怪しまないというところに大きな問題があるのです。そして私のインテリへの反省もこの一点に帰するのです。
 (中 略)
我ら日本「民族の子」「百姓の子」「町家の子」は皆、玄関も廊下もない「民族の家」で育ちました(私自身百姓の二男坊です)。幸か不幸か、この「民族の家」の「民族の子」は明治の学校というところで教育をうけて、いわゆるインテリというものになりました。そしてこのインテリはその「民族の家」をさげすんで「文化住宅」というものをほしがりました。・・・一体家の真中に廊下を通して、小さな家をさらに小さくコマ切れにし、あまつさえ、客が五人来れば身動き出来ないようなケチな応接間を鼻の先にブラ下げて体裁ぶった住宅というものは世界のどこにもありません。世界中で一番珍妙な愚劣な代物です。

しかるに日本インテリはことごとくこの種の家に住まんとし、インテリ建築家はこの種の家を建てることを任と心得たのです。そしてだれもこれを怪しまないのです。これは実に驚くべき事実です。

ここで私は建築本来の面目に立ち帰って、「建築は哲学する」と申します。そして民族の家とは民族の生活を哲学した成果をいうのです。しかるにインテリの家は雑貨屋の店先のようにコマ切れの部屋を並べただけで少しも生活を哲学しておりません。それがちょうど明治の教育が知識の切売りだけで少しも人間に哲学しなかったことを最も明白に実証するのです。

しかし山に入って山を見ず、臭きにいて臭きを知らぬと申します。日本インテリが自らの臭みに目ざめることはけだし容易ではありませぬ。
そこでわかりやすい実例として農学校を例にとる。本来農学校は百姓の学校なのに日本全国の農学校の卒業生から一人の篤農家も生まれてきませんでした。その卒業生はみな朝寝をして洋服を着たがったのです。しかしこれは独り農学校に限りません。自余のあらゆる学校、官私の大学、ことごとくこの亜流です。これら日本のインテリ。軍人、政治家、役人、学者、先生、会社員その他。日本はこのインテリのゆえに滅びたというてよいのです。

その二で「教育と校舎」について論じているが、今回は省略。

なお、遠藤新は、木造建築への筋かいとボルトの導入に対しても痛烈な批判を書いているのでいずれ紹介する。

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