閑話・・・・教育再生!?

2006-12-24 03:19:43 | 論評
 いま、教育再生とかの論議が真面目な装いの下で行われているらしい。実に不愉快至極!
 そこで、「近・現代の教育」、ひいては「近・現代そのものの風潮」を、ものの見事に断罪した(と私が思う)一文を紹介したい。

・・・それゆえに私は、諸学舎の教師たちを呼び集め、つぎのように語ったのだ。思いちがいをしてはならぬ。おまえたちに民の子供たちを委ねたのは、あとで、彼らの知識の総量を量り知るためではない。彼らの登山の質を楽しむためである。舁床に運ばれて無数の山頂を知り、かくして無数の風景を観察した生徒など、私にはなんの興味もないのだ。なぜなら、第一に、彼は、ただひとつの風景も真に知っておらず、また無数の風景といっても、世界の広大無辺のうちにあっては、ごみ粒にすぎないからである。たとえ、ただひとつの山にすぎなくてもそのひとつの山に登りおのれの筋骨を鍛え、やがて眼にするべきいっさいの風景を理解する力をそなえた生徒、まちがった教えられかたをしたあの無数の風景を、あの別の生徒より、おまえたちのでっちあげたえせ物識りより、よりよく理解する力を備えた生徒、そういう生徒だけが、私には興味があるのだ。

・・・私が山と言うとき、私の言葉は、茨で身を切り裂き、断崖を転落し、岩にとりついて汗にぬれ、その花を摘み、そしてついに、絶頂の吹きさらしで息をついたおまえに対してのみ、山を言葉で示し得るのだ。言葉で示すことは把握することではない。

・・・言葉で指し示すことを教えるよりも、把握することを教える方が、はるかに重要なのだ。ものをつかみ捉える操作のしかたを教える方が重要なのだ。おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、それが私にとってなんの意味があろう?それなら辞書と同様である。・・・

 これは、サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)の一節である。

 「城砦」は、砂漠の民の王、ベルベル族の王が、息子に語る話で構成されている。サン・テグジュペリの作品では「星の王子様」が有名だが、これは、その根源の思想を、王に託して語ったものと私は理解している。

 私がこの書に出会ったのは、今でもはっきり覚えているが、東京神田の東京堂書店である。もう40数年前のことだ。
 私の先輩諸氏をはじめ、まわりの人たちの考え方についてゆけず、そうかといって論駁する自信もなく、いわば悶々としていたころのこと(当時、都内にはまだ都電が走っていた。私は渋谷から須田町行に乗って神田の書店街に行くのが好きだった)。
 パラパラとこの本(3巻からなっている)を斜め読みして、私は衝撃を受けた。私は、絶大なる援護者を得た気分だった。以後、私は、自分の考えを、臆せずに語ることができるようになった。
コメント (1)
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