
上の写真は、軽井沢銀山の煙突の近景と、煙突に使われていた煉瓦。
前回、100尺近い高さの煙突が崩落して今は半分の高さ、と書いたが、これは、地震などによる崩落ではない。
冬季、煉瓦の目地が凍結して破裂し、接着力を失ったからだ。煉瓦の中にも、凍結で破砕したものもあるかもしれない。
目地が凍結するのは、使われていた目地材がセメントモルタルではなく「砂漆喰」だからである。
煉瓦が破砕するのは、煉瓦が吸い込んだ水分が凍結するからだ。
写真の煉瓦に付着しているのが、漆喰の残滓である。つまり、漆喰の煉瓦への付着力は強い。今回、写真を撮るために、水で汚れを落したけれども、漆喰は剥がれなかった。
製錬所が稼動を続けている間は、このような崩落は起きなかっただろう。煙突は、いつも暖められているからである。
そして、稼働中であるならば、セメントモルタル目地よりも、漆喰目地の方が、強かったと思われる。以前触れたように、漆喰目地には弾力性があるからだ。また、煉瓦に、喜多方のように釉薬を施すなどの措置が採られていたら、煉瓦の破砕も防げただろう。
この煉瓦は、煙突のまわりの雪の中に落ちていたものを、参考のためにいただいてきたもの。かなり上質の煉瓦で、最近ホームセンターなどで見かける外国産の煉瓦よりも数等良質である。
煉瓦のわきにスケールを置いてあるが、この煉瓦は並みの大きさではない。
約9寸4分×4寸7分、厚さ2寸3分強、メートル法では、280㎜×140㎜×70㎜。三辺の比率が、4:2:1になっている。体積:0.002744㎥。重さは4.96kg、約5kgもある。
現在の日本煉瓦製造KK製の普通煉瓦は210㎜×100mm×60㎜、体積:0.00126㎥。重量は2.5~2.6kg。
つまり軽井沢銀山の煉瓦は、一見したところ、大きさはひとまわり大きいだけだが、体積は2.18倍、重量で現在の煉瓦のほぼ2倍。つまり重い。
註 現在の日本煉瓦の製品と同等の焼き上がりで、体積比で計算すると
軽井沢の煉瓦は5.45kgになるはずだが、実際は、約5kg、つまり、
軽井沢の煉瓦は、僅かだが日本煉瓦の製品よりも密度が低い。
では、軽井沢では、なぜ、このような大きさの煉瓦にしたのだろうか。
2月1日に、“EARTH CONSTRUCTION”では、強い煉瓦造の構築物をつくるには、煉瓦の大きさが大きい(目地が少ない)方がよい、と奨めていることを紹介した(「煉瓦造と地震-2・・・・“EARTH CONSTRUCTION”の解説・続」)。その際、私は、ただ、大きく重い煉瓦は作業性が悪い、と注釈を入れた。
軽井沢の煉瓦の大きさは、作業性よりも、出来上がる煙突の強さを重視したのかもしれない。
現在のようなクレーンや昇降機のなかった時代、おそらく、100尺もの高さの積み上げには苦労したと思われる。
ところで、軽井沢で使われている煉瓦はどこで焼成されたのだろうか。
これも、現在のような運搬機械、輸送システムのなかった時代、まして山中、別の所から運んでくることは考えられない。現地で焼成するしか手だてはなかったはずだ。
以前紹介したが、小坂鉱山でも、煉瓦は自前で製造していた。
註 鉄道敷設にあたって必要な煉瓦は、当初、敷設する現地で
焼成するのが常であった。それが、予想外に、喜多方に
煉瓦造建築を誕生させたのである。
鉄道敷設がある程度進行すると、日本煉瓦製造㏍などで
焼成された煉瓦が、鉄道で輸送されるようになり、現地焼成は
減る。
碓氷峠のトンネル、橋脚の煉瓦は深谷の日本煉瓦㏍から鉄道で
運ばれたものだが、富岡製糸場の煉瓦は、現地生産である。
なお、碓氷峠の近く、安中、松井田にも、煉瓦造建物が多数ある。
これも、鉄道敷設がもたらしたもので、日本煉瓦製造㏍製煉瓦が
使われている。もちろん、工場があった深谷にもいくつかある。
また、喜多方の煉瓦蔵の所在地を地図にプロットすると、
煉瓦の輸送手段の発達(大八車~トロッコ~トラック)と
ともに、製造煉瓦工場を中心として同心円状に建設数が増えて
いることが分る。
煉瓦造と輸送手段は、切っても切れない関係があったのである。
では、煉瓦という建材を、誰が軽井沢に紹介したのだろうか。
おそらくそれは、新しい銀の製錬法を軽井沢に導入した技術者である。もしかしたら、大島高任かもしれないが、今となっては謎である。
いま、とかく「建築材料」は、建築関係者に、《粗末に》扱われているような気がする。
何のためにどんな性能のものが必要か、それにはどうしたらよいか、などと考えることもないままに、商品カタログから、その歌い文句で、採用を決めてしまってはいないだろうか。昨日も「レディーメード庇」のカタログが送られてきた・・・。
何のことはない、カタログ掲載部材の足し算で建物ができてしまう。これでいいのだろうか。
学生の頃、もう40年以上前になるが、アメリカでは、カタログの図面を集めると設計できる、という話を聞いて呆れたことを覚えている。
何もない時代の人たちの方が、ものごとを真剣に考えていたように思えてならない。