日本の建築技術の展開-25・・・・住まいと架構-その2:「差鴨居」の効能

2007-05-21 02:59:06 | 日本の建築技術の展開

[記述追加:5月21日、8.25AM][さらに追加、5月22日2.56AM]

 室町時代末に建てられたとされる「古井家」は、典型的な「上屋+下屋」の架構方式で建てられている。
 「上屋+下屋」の架構方式は、すでに触れたように(3月15日)寺院、住居を問わず古い時代に使われた工法である。
 寺院等では、上屋部分、下屋部分を用途に応じて使い分けているが、住居の場合は、両者を合わせて一用途に使うことがあり、空間内に上屋を支える柱が等間隔に並び、使い勝手が悪くなる場合があった。
 「古井家」はその典型例で、上掲の図のように、「おもて」「ちゃのま」「なんど」そして「にわ(どま)」に柱が並んでいる(写真参照。なお、平面図、断面図は3月15日掲載図面の再掲)。
 同じ架構方式の「箱木家」は、「古井家」ほどではないが、それでも「なんど」「うまや」「にわ(どま)」には柱が並んでいる(昨日の平面図参照)。

 「古井家」では、この使い勝手の悪さを解消するための大々的な改造が江戸時代に行われたことが保存修理工事によって明らかになった。そこで使われた技法を解説したのが上掲の図である。これは、「日本の民家 3 農家Ⅲ」(学研)からの転載である。

 その技法は、使い勝手の上で障害になる柱を、「梁」および「差鴨居」を新設して撤去する方法である。
 すなわち、次の方法である。
 ① 不用な柱を抜き、両隣の柱~柱に新たに桁行方向に梁を設けて、
   既存の梁を受ける
 ② 同じく不用な柱の下部を切り取り、両隣の柱~柱の鴨居のレベルに、
   横材:「差物」を取付け、切りとった柱の上部を「束柱」として、
   既存の梁を受ける(横材には平角材のほかに丸太も使われている)
   [記述追加]

 この方法の中で、特筆すべきなのが「差物」で、鴨居を兼ねるため「差鴨居」と呼ばれる。
 なぜ特筆すべきか。それは、公家、武家系の建物、書院造などにはない技法だからである。唯一「差物」「差鴨居」が使われたのは、城郭建築だけではないだろうか。「鹿苑寺・金閣」など通し柱を用いた多層建築でも使われていない。

 そして、この「差鴨居」方式は、一般の住居では、後に、新築時から用いられるようになる。[記述追加]

 これは、すでに紹介してきた「光浄院客殿」に代表される「書院造」や、「竜吟庵」「大仙院」などの塔頭建築(「書院造」と言ってよい)などと比べ、一般の住居の高さが低いことに拠ると言ってよい。

 両者とも内法寸法はほとんど変らないから、違いは小屋裏の大きさと鴨居上の小壁の高さに現われる。
 「書院造」などでは、小屋裏を利用した架構(桔木の利用など:記述追加)が可能であり、また、背の高い小壁内には「内法貫」を初め天井長押裏の「貫」など、「貫」を3尺程度の間隔で設け、これらによって架構を固めることができる。それゆえ、柱間を飛ばしても、鴨居は厚さの小さな「薄鴨居」を後入れにすることができた。

  註 「匠明」では、内法高さの6割を小壁の高さとして推奨している。
    つまり、内法が6尺なら、3尺6寸。
    実際には、光浄院では4尺ほどある。[5月22日、2.56AM追加]

 一方、一般の住居では小屋裏を設ける(つまり天井を張る)ことがなく、小壁の高さも低いから、「貫」を入れても間隔が狭く効果が小さい。
 おそらく、そこで考えられたのが、鴨居に丈の高い平角材を用い構造材として扱い柱間を跳ばす方法、したがって、薄鴨居のような後入れではなく、建て方時に建て込む方法、「差鴨居」方式である。
 この発想は、多分、通し柱で多層の建物をつくる工法、すなわち、床梁を通し柱に取付ける工法から生まれたのだろう。そしておそらく、戦国時代の各地の城郭建築は、その方法の進展・利用を広める効果があったにちがいない(城郭建築には、地域の工人が徴用されており、ことによると、彼らの住宅改造で生まれた発想が用いられたのかもしれない)。

 しかし、なぜ、最初から桁あるいは床梁の寸面を大きくして柱間を跳ばす架構法、すなわち現在普通の工法をとらなかったのか。

 一つは、「差鴨居」の効能の利用は、「上屋+下屋」方式の架構の改造から始まり、その方法が定着したことによる。
 そして、多分これが最大の理由と考えられるが、2本の柱の中途に設けられる「差鴨居」と、その上にある「桁」「梁」、そして「束柱」とが組み合わさり、いわば横「H」型の「合成梁」が形成され、小壁の丈が小さくても([記述追加])、架構の強度が飛躍的に向上すること(書院造などの「貫」と同等以上の効力があること)が、幾多の現場で確認されていたからだと考えられる。
 だから、最初から「差鴨居」を用いるようになると、二方以上に「差鴨居」を用いるのが普通になり、後に触れるが、商家の建築:町家では、2階の床も「差鴨居」で支える方式が採られるようになる(現在の「胴差+床梁」方式ではない)。

 これも後に触れる予定だが、明治以降の都市居住者:多くは士族:の住居には、「差鴨居方式」は少ない(ないと言ってもよい)。これらの住居が、武家階級の住居:書院造の系譜上にあるからである。
 そして、二階建ての都市住居で用いられたのは、商家:町家で発展した「差鴨居」方式の二階建てではなく、書院造のつくりかたを二階建てに用いた「胴差+床梁」方式であった。
 実は、これらは書院造の系譜上にあるといっても、かつての書院造のような背丈の高い建物ではなく、いわば農家や商家同様のスケールに縮小した建物であったことに注目する必要があるだろう。
 なぜなら、かつて農家や商家が柱間を跳ばすにあたって悩んだ背丈の低い建物の架構の強度について、考える必要があったはずだからである。
 しかし、その点についての考慮がなされないまま、ただ方式・型式だけ、書院造が援用されたのである。

 後に触れるが、これが明治以降、地震に弱い住居建築:木造建築:を増やしてしまった最大の原因と言ってよく、いわゆる「在来工法」は、その《救済策》として《考案》されたのである。

 一方、農家や商家では、明治以降も「差鴨居方式」が見られ、現在でも、農家住宅には利用例が多い(もっとも《見栄》のため使用が多いが・・)。

 図、写真は下記図書による。平面図、断面図は、筆者加筆。
 外観、「おもて」の写真:至文堂刊「日本の美術№60 民家」
 「にわ」の写真:小学館刊「ブック オブ ブックス 日本の美術37 民家」
 平面図、断面図、架構改造分解図:学研刊「日本の民家3 農家Ⅲ」 

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