[註記追加 15日 8.39]
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/84/35f36b305672941e0c9ab1ee42423ebf.jpg?random=4a9d95e06f73ca57ccb9ab534ac10ee6)
これは、先回の「龍吟庵 方丈(りょうぎんあん ほうじょう)」と同じ塔頭(たっちゅう)の建物。京都・大徳寺の塔頭「大仙院 本堂」です(大徳寺には、20を越える塔頭があります)。ここでは「方丈」ではなく「本堂」と呼ぶようです。
「大仙院」は、大徳寺の塔頭の中では最古と言われ、「龍吟庵」より85年ほど経った1513年に建立されたことが分っています。
次の図が平面図です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/98/5322c21893fbbc936519cad5daef4e50.jpg?random=41d5fda9efa45fc60e07a88240628f5a)
この建物も、平面図を見ていただければ分りますが、壁と言える壁は、建物北側の仏壇が安置される室:「真前」の北側の幅1間半の壁だけ。この壁は仏壇の背面ですから、なくすわけにはゆかないのです。
この建物の基準柱間は6尺5寸。柱寸法は、広縁外側を除き、5寸弱角です。
ただ、「室中」の正面の柱間は1間半。
「龍吟庵」にしろ「大仙院」にしろ、なぜ、ほとんどの外壁、間仕切を建具にするのか。
これは、後の客殿も書院造も、そして武家の住居にも、商家の住居にも、もちろん農家の住居にも言えることですが、
「開けられるような状況ならば、開けられる所はすべて開けたい」
これが、当時の人びと、それは上層階級、一般を問わない、すべての人びとの「願望」だったのです。
「開けられる」状況とはどういう状況か。
大分前に触れましたが、それは、「屋敷」を囲うことのできる、そういう状況。
塀なり垣なりによって囲まれた空間が確保できれば、あるいは、ここは自分(たち)だけの空間と思えるような空間・場所が確保できたと思えれば、「建屋」だけが居所ではなくなり、その囲まれた空間すべてが「住まい」:「自分の居所」となる。そうできるような状況です。
そして、そういう状況下では、「建屋のすべてを開けっぴろげにする」ことが「願望」だった。
なぜなら、そうすることが、今の用語で言えば、最高の「空気調和:エア・コンディショニング」だったからです。暮しやすい環境確保のための最高の手だてだった。
だから、そうできるように懸命になって工夫した。そうしても、建屋が自立できるように工夫した。
だから、そういう建屋が、数百年も健在なのです。
註 このあたりのことについては、いろいろな所で触れてきました。
たとえば、建物づくりの原型:住居とは何か:については
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/4144be4e6c9410282a4cae463e3d42a3
これは3年前の記事です。
「屋根がある所だけが住まいではない」、ということについては
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/96fa99810f1b340e57b5b01db1b38e7b [註記追加 15日 8.39]
この建物の断面図は以下のとおりです。
今回は、編集する手間を省いてしまったので、平面図、桁行断面図、梁行断面図の縮尺がそれぞれ異なります。恐縮ですが、棒尺を参考にご覧ください。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/db/17e2bbb95bb93db836d03a6dcb1697a4.jpg?random=fa275f1d9489875b6703f6164776728e)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/0b/e185e1bbdc418e5f7390b7a62c68fdb5.jpg?random=7f072ca5bcc656b4c857b4ef42470de4)
「龍吟庵」よりは、85年分少ないだけで、当然大地震に遭っています。
では、なぜ、このような開けっぴろげの建屋が500年近く、健在であり得たのか。
もちろん、何回も修理をしていますが、一度として、倒壊寸前というような状態にはなったことはありません。そういう記録はないのです。
健在である、というのは厳然たる「事実」です。
なぜ、開けっぴろげで健在であり得たのか、「龍吟庵」と並べて考えてみませんか。頭に刻み込まれてしまっている《知見》を一旦棚上げにして・・・。商店だって、定期的に「店卸し」をするのですから・・・。
なお、大徳寺の塔頭は、すべて開けっぴろげの建屋です。
図は「日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰ」、写真は「原色 日本の美術」(講談社)より。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/84/35f36b305672941e0c9ab1ee42423ebf.jpg?random=4a9d95e06f73ca57ccb9ab534ac10ee6)
これは、先回の「龍吟庵 方丈(りょうぎんあん ほうじょう)」と同じ塔頭(たっちゅう)の建物。京都・大徳寺の塔頭「大仙院 本堂」です(大徳寺には、20を越える塔頭があります)。ここでは「方丈」ではなく「本堂」と呼ぶようです。
「大仙院」は、大徳寺の塔頭の中では最古と言われ、「龍吟庵」より85年ほど経った1513年に建立されたことが分っています。
次の図が平面図です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/98/5322c21893fbbc936519cad5daef4e50.jpg?random=41d5fda9efa45fc60e07a88240628f5a)
この建物も、平面図を見ていただければ分りますが、壁と言える壁は、建物北側の仏壇が安置される室:「真前」の北側の幅1間半の壁だけ。この壁は仏壇の背面ですから、なくすわけにはゆかないのです。
この建物の基準柱間は6尺5寸。柱寸法は、広縁外側を除き、5寸弱角です。
ただ、「室中」の正面の柱間は1間半。
「龍吟庵」にしろ「大仙院」にしろ、なぜ、ほとんどの外壁、間仕切を建具にするのか。
これは、後の客殿も書院造も、そして武家の住居にも、商家の住居にも、もちろん農家の住居にも言えることですが、
「開けられるような状況ならば、開けられる所はすべて開けたい」
これが、当時の人びと、それは上層階級、一般を問わない、すべての人びとの「願望」だったのです。
「開けられる」状況とはどういう状況か。
大分前に触れましたが、それは、「屋敷」を囲うことのできる、そういう状況。
塀なり垣なりによって囲まれた空間が確保できれば、あるいは、ここは自分(たち)だけの空間と思えるような空間・場所が確保できたと思えれば、「建屋」だけが居所ではなくなり、その囲まれた空間すべてが「住まい」:「自分の居所」となる。そうできるような状況です。
そして、そういう状況下では、「建屋のすべてを開けっぴろげにする」ことが「願望」だった。
なぜなら、そうすることが、今の用語で言えば、最高の「空気調和:エア・コンディショニング」だったからです。暮しやすい環境確保のための最高の手だてだった。
だから、そうできるように懸命になって工夫した。そうしても、建屋が自立できるように工夫した。
だから、そういう建屋が、数百年も健在なのです。
註 このあたりのことについては、いろいろな所で触れてきました。
たとえば、建物づくりの原型:住居とは何か:については
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/4144be4e6c9410282a4cae463e3d42a3
これは3年前の記事です。
「屋根がある所だけが住まいではない」、ということについては
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/96fa99810f1b340e57b5b01db1b38e7b [註記追加 15日 8.39]
この建物の断面図は以下のとおりです。
今回は、編集する手間を省いてしまったので、平面図、桁行断面図、梁行断面図の縮尺がそれぞれ異なります。恐縮ですが、棒尺を参考にご覧ください。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/db/17e2bbb95bb93db836d03a6dcb1697a4.jpg?random=fa275f1d9489875b6703f6164776728e)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/0b/e185e1bbdc418e5f7390b7a62c68fdb5.jpg?random=7f072ca5bcc656b4c857b4ef42470de4)
「龍吟庵」よりは、85年分少ないだけで、当然大地震に遭っています。
では、なぜ、このような開けっぴろげの建屋が500年近く、健在であり得たのか。
もちろん、何回も修理をしていますが、一度として、倒壊寸前というような状態にはなったことはありません。そういう記録はないのです。
健在である、というのは厳然たる「事実」です。
なぜ、開けっぴろげで健在であり得たのか、「龍吟庵」と並べて考えてみませんか。頭に刻み込まれてしまっている《知見》を一旦棚上げにして・・・。商店だって、定期的に「店卸し」をするのですから・・・。
なお、大徳寺の塔頭は、すべて開けっぴろげの建屋です。
図は「日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰ」、写真は「原色 日本の美術」(講談社)より。