日本の建物づくりでは、「壁」は「自由な」存在だった-4・・・・「島崎家」の場合

2010-06-17 11:42:06 | 「壁」は「自由」な存在だった
[文言追加 15.33][カッコ内文言追加 20.33]



これは、長野県塩尻市の東、広丘というところに復元保存されている「本棟造(ほんむね・づくり)」の原型と考えられる重要文化財「島崎家」の南~西面(正面)です。
   註 「本棟造」としては、普通、同じ塩尻市の堀の内にある「堀内家」の豪壮な姿が有名ですが、
      その姿は、見栄えをよくするために、明治になってから改修されたものです。

「島崎家」は、江戸時代中頃、享保年間(1716~1735年)の建設と考えられ、以後、少なくとも約250年(1735年建設として解体修理時までの年数)、代々、時々の暮しに応じて改造・改修を加えて住み続けられてきた建物で、各時代の暮し方を知る記録が残されている点でも貴重な事例です。[カッコ内文言追加 20.33]
その間、建物の基本的な骨格は、まったく変っていません。1987年に解体調査、当初の形に復元されました。

なお、07年にも同じ写真を使って紹介しています(下註)。屋内の写真は今回よりも多く載せています。
   註 http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/b1cceff176f783b66cf4e8c161bb7a55

次の図は復元平面図ですが、今の暮しのために便所などが付け加えられています。
  なお、写真と図面は「重要文化財 島崎家住宅修理工事報告書」からの転載で、図は文字など手を加えてあります。



下の写真は、左が「大戸口」を望む正面、右は「カミザシキ」の縁先。



次は、建物の復元断面図。



柱は4寸3分角。基準柱間は、6尺1分:1821mm。6尺に1分を足すのは、当時の松本平一帯の「慣習」のようだ、とのこと。
その他、材料や仕様は、07年の記事で詳しく触れています。[文言追加 15.33]

そうして仕上がる室内は、下の写真。
左は「オエ」の北東を見たところ、右は同じく「オエ」の南西面、ただし、右の写真は、畳を仮敷した状態。他の箇所については、前掲註の07年の記事をご覧ください。



では、約250年間、どのような変遷をたどったのか、修理工事報告書の調査報告を基に、新たに「間取りの変遷」をつくり直しました。それが下の図です。
この間で変らないのは、梁組。一貫して同じです。

A~Dは、用途を示すゾーン分けです。A~Cについては、http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/4144be4e6c9410282a4cae463e3d42a3での分類に同じです。Dは接客用の空間を指しています(「島崎家」は、村役を務めていたので、武士の訪問があった)。

   註 近在には、接客空間のない(A~Cだけの)6間×8間程度の切妻のつくりが多くあるとのこと。    



  なお、この図の「当初平面図」と、先の「復元平面図」では、北側が異なります。この図が「当初」の姿です。

この変遷図から、間仕切などの変更は、明治・大正頃までは、それぞれのゾーン内での変更が主であることが分ります。

報告書によると、梁組と鴨居:内法から桁・梁までの部分:「小壁」は、この間一貫して変化はありませんが、鴨居:内法下の「壁」は、間取りの変遷図で分るように、開口にしたり、また壁にしたりと、随時、変えられています。

ということは、「壁」は、柱間の「充填材」に過ぎない、ということになります。すなわち、その部分を変更しても、架構は維持されてきた、つまり、この建物の架構は、「壁」に依存していない、ということです。

  なお、「壁」の仕様は、図でDと表記した部分では、縦の間渡し材は割り木、横は女竹、
  縄の代りに蔓性植物を用いた細づくりでていねいな仕事で、壁厚2寸:6cm程度の色土仕上げ。
  それ以外では、小舞に粗朶(そだ)を使い、荒壁のままあるいは漆喰仕上げ。
  1間柱間の中央に、内法貫~梁下端に幅2寸×厚1.5寸の力骨を入れ、
  竹、割り木、粗朶などの間渡し材を、縦は@8~9寸、横は内法貫~梁下端に6本設けている。
  土間まわりの「壁」では、粗朶を直接地面に差し込んである箇所もある(「古井家」「箱木家」と同じ)。
  壁下地に、粗朶は日本各地でかなり使われているようです(竹のない西欧ではあたりまえ)。
  なお、「小壁」部分も、鴨居下の「壁」の変更にともない、改修は何度も行なわれています。

この建物の建つ塩尻のあたりは、日本列島の分水嶺の一。高冷の地です。したがって、「壁」の部分は相対的に多い。そういうつくりが適切な地域です。
しかし、架構自体は、その「壁」に依存していたわけではないことは、先に触れたとおりです。
架構が「壁」に依存する、「壁」が架構維持の「必需品」であるならば、簡単には変更はできません。しかし、頻繁に変更している。
つまり、「壁」は、「自由な存在」だった。
   註 前掲07年の記事では、明治には「見栄え」のために「無理な」改造が行われ、
      危険な状態が生じていたことを紹介しました。
      「堀内家」の改造が行われた頃です。当時「見栄え」がもてはやされたのです。

      当初の工人たちの考えていた「理」が、分らなくなる、継承されない「時代」があるようです。
      「科学全盛」の現在も、そうなのかもしれません。

では、なぜ、この建物は、約250年間、健在だったのでしょう?

07年の先回の記事でもある程度は触れましたが、頭の「店卸し」をして、かつての工人たちの考え方:「理」を、あらためて探って見たいと思います。[文言追加 15.33]

   註 「島崎家」と目と鼻の先に「重要文化財 小松家」がある。これは茅葺き。
      先回の記事で、板葺きの「本棟造」と茅葺きがなぜ併存するか分らない、と書きましたが、
      「報告書」を読み直したところ、「小松家」は、「本棟造」の生まれる前段の姿ではないか、と推察しています。
      私の、読み落としでした。

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