日本の建物づくりでは、「壁」は「自由な」存在だった・余録

2010-08-02 17:17:59 | 「壁」は「自由」な存在だった
[追補 5日 9.07]

昔懐かしい暑さの夏が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。
かなりバテ気味になっていますが、少しは涼しい話題をと思い、清々しい建物を紹介いたします。

かなり前に、神奈川県・川崎の生田緑地の「日本民家園」に保存されている「広瀬家」を簡単に紹介しました。
「広瀬家」は、元は山梨県の塩山(えんざん)にあった17世紀後半の建設と考えられている農家ですが、茅葺の「切妻屋根」で(茅葺の切妻は、例が少ない)、「棟持柱」で棟木を支えているのが特徴の建物です。
四周は土塗り真壁で覆われ、出入口は大戸だけ、あと下地窓が少々ある程度。
これは、寒冷の地で暮すためです。

   註 甲府盆地の東北部には、秩父山系からの笛吹川(ふえふきがわ)が深い谷を刻んでいます。
      笛吹川は盆地中央部で、西北からの釜無川(かまなしがわ)と合流、富士川となります。
      甲府盆地は、四周の山から流れ出る水の遊水地だったわけ。
      この笛吹川の両側の斜面、丘陵は、現在一面のブドウ畑。
      かつて、養蚕が盛んだった頃、桑畑だったところ。その一角が塩山、勝沼です。
      「広瀬家」は、笛吹川の支流をさらに遡った標高600mほどの高地にありました。
      大菩薩峠の麓です。冬季はかなりの寒冷の地です。
      蛇足
      桑とブドウなどの果樹は同じ土質の地を好むようです。
      私の住む近くにも果樹産地がありますが、そこも元は養蚕が盛んだった。

今回、次回の「伝統を語るまえに」の配付資料で「広瀬家」を取り上げようと考え、諸資料を見直して、あらためてその「架構の妙」に感動しました。
そこで、その「妙」を紹介させていただこうと考えたわけです。

下の写真は、民家園に復元された「広瀬家」の全景(南~東面)です。つまり、建設当初(1600年代の後半)の姿です。



塩山にあったとき(つまり、移築前、1960年代後半頃)の姿は、これとは大分違い、開口部が大きく設けられています。



こういう外観の建物は、今でも塩山、勝沼から雁坂峠(かりさかとうげ)へ向う街道筋にたくさん残っていて(ただし、ほとんどは瓦葺きの建物)、甲州の「突き上げ屋根」と呼ばれています(雁坂峠を越えると秩父です)。
養蚕が盛んだった頃、切妻の屋根の中ほどを突き上げて、中2階、ときには3階もつくり、蚕室にしたのです。

下は、建設当初と移築前の平面図です。
はじめに建設当初:民家園にある復元した建屋の平面図。基準柱間は1間:6尺のようです。



次に移築前:当初の建屋に何回かの改造を加えた結果:の平面のスケッチ。
間口×奥行は、当初と変りはありません。

   

当然、「突き出し」のための細工はされていますが、当初の架構の「骨格」には大きな変化はありません。
当初の骨格、つまり、復元建物の桁行、梁行断面図は下図のとおりです。
なお、平面図、断面図は、ほぼ同一縮尺です。



   

図で橙色に塗った柱が「棟持柱」です。

使われている木材は、大半がクリで、太い材にはクリに似た堅木が使われています。
いずれも広葉樹で、直ではありません。
材寸は、柱の太いもので8寸5分角程度、細いもので5寸角程度で、すべて不ぞろいです。

この建物は、一見すると素朴で稚拙のように見えますが、そうではありません。実によく考えられているのです。

この建物の架構は、すべて「仕口」だけで組立てられています。
すなわち、梁・桁などの横材は、すべて柱と柱の間に納まり、「継手」で継ぐということはしてありません。「貫」も、外周の壁下地の部分を除き、同様です。
具体的には、横材は「側柱」の上、「上屋柱」(「梁行断面図」で黄色に塗った柱)の上には、「折置」で取付き、
「柱」の中途へ「梁」が取付く場合は「枘差し・鼻栓打ち」、
「桁行断面図」の中央部の「桁」のように「梁」に載る場合は「渡り腮(あご)」で架けています。
「枘差し・鼻栓打ち」も「渡り腮(あご)」も、細工は簡単で、しかも確実な方法。現在の建築法令でも文句が言えない。

このようにするため、「棟持柱」への取付きでは、「梁行断面図」で分るように、材料の「曲り」を巧みに使って、左右の「梁」の取付き位置に段差を付けています(全体としてはほぼ水平になります)。
また、「繋梁」と「差鴨居」の取付き位置にも段差を付けています。

これらの納め方を見ると、事前に、使用する材料のクセをすべて読み取って使用位置を決める、つまり、架構全体の構想を緻密に描いている、ことが分ります。そうしなければつくり得ないつくり、なのです。これにはあらためて驚嘆しました。

このように隅から隅まで十全に「計算されている」ため、現場で部材を組上げたとき、つまり、屋根も壁も未だつくられていない上棟時、架構はびくともせずに自立するはずです。
言ってみれば、工人冥利につきる建物。


しかしながら、現在の、《木造建物は「(耐力)壁」を設けることによって自立するのだ》という「理論」が染み付いてしまった目には、この建物の場合も、外周の「壁」が効能を発揮していると見てしまうのではないでしょうか。「古井家」をそのように見てしまうのと同じです。

けれども、移築時点で、この建物の外周は改造を加えられ、当初の壁は一部を残すだけの状態になっていました。開口部が大きくとられるようになったからです。
   「広瀬家」の外周の土塗り壁の仕様は、以下のようです。
     「貫」に「縦小舞」を縄でからげ、それに「横小舞」をからげる。
     「横小舞」は柱から浮いている(小舞穴を設けていない)。
     足元は、後入れの「地覆」で納める(「土台」は用いていない)。

実際には、建設時からおよそ300年、建物は、現地で、当初の骨格をほぼ残したまま、健在だった。
それは、この建物の架構が、暮しの変化があっても骨格を変える必要がなく(そのまま使いこなせ)、その間の歳月の負荷に十分に耐えるだけのものであったこと、を示しています。
この建物も、架構がよく考えられていて、「壁は自由に扱える存在だった」のです。


私たちは「(耐力)壁」のシガラミから脱け出す必要がある、とあらためて思います。
そのためには、頭から「先入観」を取去らなければなりません。
頭の中の「店卸し」です。
使いものにならない、要らなくなったものが溜まってしまっているかもしれません。



暑い日が続いています。
家混みの都会でも、かつては、「開けっぴろげ」の建屋があたりまえでした。風さえ通せば、数等暮しやすいからです。
幸い、私の暮す場所では、今でもそれが可能です。夜半になると、寒い、と感じるときさえあります。

今の都会では無理かもしれません。家混みの程度が違うからです。
そしてまた、我が家を涼しくして外気を熱することに精を出している以上、それは「高望み」だからです。

追補 [追補 5日 9.07]
遠藤 新 氏が、日本の住まいの特色について、もっと端的に言えば、日本の建物の「壁」について語っている一文を、以前に紹介したことを思い出しました(下記①)。
そこでは、耐震と称して架構の一部を補強する「風潮」「考え方」を不権衡として戒めています。
9月が近付き、「耐震」が騒がれる時節が来ます。あの関東大地震当日に竣工式を行なった旧帝国ホテルは被災していません。その点についての一文も紹介してあります。あらためてお読みいただけると幸いです(下記②)。

① http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/471c0ea7a47bf05a1a50e60da5fd87e0
② http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/cbf1e115da1b4bfb40b88266eccb245d

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3 コメント

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御大の意見は分かりますが。 (天婆~さん)
2010-08-05 09:06:29
>しかしながら、現在の、《木造建物は「(耐力)壁」を設けることによって自立するのだ》
>という「理論」が染み付いてしまった目には、この建物の場合も
>外周の「壁」が効能を発揮していると見てしまうのではないでしょうか。

>この建物の架構が、暮しの変化があっても骨格を変える必要がなく
>(そのまま使いこなせ)、その間の歳月の負荷に十分に耐えるだけのものであったこと、を示しています。
>この建物も、架構がよく考えられていて、「壁は自由に扱える存在だった」のです。

>私たちは「(耐力)壁」のシガラミから脱け出す必要がある
>とあらためて思います。
そのためには、頭から「先入観」を取去らなければなりません。

>今の都会では無理かもしれません。家混みの程度が違うからです。
>そしてまた、我が家を涼しくして外気を熱することに精を出している以上、それは「高望み」だからです。


苦悩しながら建築基準法と向き合うしかないのが現状です。

御大の言わんとする事も分からないでは無いのですが
法治国家である以上は・・・

ただ今回の伝統工法の委員会がリニューアルしたので
どう動くか、見ものですが・・・

京都の先生方が、どの様にまとめて法整備するか・・・です。
返信する
裸の王様 (筆者)
2010-08-05 15:53:17
「おかしいこと」が分っている以上、口に出すべきだ、と私は思います。
それとも、法治国だから、黙っているのでしょうか。
私は、「私たちは裸の王様であってはならない」と思うのです。


誤解のないようにあえて言えば、私は「無法の奨め」を言っているのではありません。
「法」は「何を論拠に」成り立っているのか、また、「何を論拠」に整備するのか、その「論拠」が問題だ、ということを書いてきているつもりです。
論理的にもscietificにも筋の通らない「論拠」の下の「法」とは、いったい何か、ということです。

設計者が「確認」の現場が苦労していることは百も承知です。
しかし、「施工」の現場で、はたして苦労しているのだろうか、と常々思っています。
「設計=法令に適合させること」になっているように思えるからです。

裸の王様にならないように、本当のことを知るように努めたい、それが私の願いです。
返信する
蛇足 (筆者)
2010-08-05 20:32:15
裸の王様
いいことだけを知らされていて本当のことを知らない人のたとえ(「新明解国語辞典」)。
本当のことを知っていながら言わない人は、何と呼べばいいのでしょう?
返信する

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