[文字、記述修正:5月25日9.50AM]
島崎家は、300年近く、時々の暮しの様態に応じ、改造を行い暮し続けられてきた建物である。
それが可能であった理由の一つとして、「当初の空間の設定が妥当であった」ことを挙げた。
上掲の図の上段の2図は、当初の空間構成:用途によるゾーン分け:を梁桁伏図上に示した図と当初平面(図の向きが昨日の図、および下段の図と異なり恐縮)。
註 A:主に作業を行うゾーン、炊事も含む。
比較的親しい人の出入り可。
B:食事をはじめ家族が過ごすゾーン、軽作業もなされる。
親しい人の出入り可。
C:就寝などきわめて私的な、あるいは神聖なゾーン。
出入りは限定される。
D:接客専用のゾーン。
これは、3月15日の「住居の原型」のゾーン分けにDを加えたもの。
明治以前までの改造では、このゾーン分けを逸脱しての改造はなされていないことに注目してよい。
つまり、当初のゾーン分けの規模が適切であったため、ゾーン内の暮し方の変化への対応(間仕切の追加など)は、すべてそのゾーン内で処理されているのである。もしも、当初の空間設定が十分でなかったならば、他のゾーンへの「侵食」などもあったはずである。
註 各ゾーン区分の適切な規模とその適切な配置、
これが、永く使い続けることができる建物づくりの
基本要件:基本設計の要件:であると言ってよい。
さらに、架構が1間グリッドの格子梁を基本としていることが、改造を容易にしているのである。
下段は、幕末から明治にかけての改造(柱を抜いて差鴨居を入れる改造)を示している。
たまたま解体中の「島崎家」を訪れたとき、ある柱(それがどこであったのかは覚えていないのだが)の左右に取付く材のアンバランスに違和感を感じたことを覚えている。
あまりにも巨大な差鴨居が片側にだけ取付き、柱が折れそうに思えたからである。なぜこんなことを・・、と不思議に思った。
この点について、「修理工事報告書」の筆者(調査者でもある)は、報告書中で次のように述べている。
「・・なぜこれらの柱を抜取らなければならないのか、その理由を考えると
第一に間口を広くして各室を続部屋として使用できるようにしたことであり、
第二には巨材を入れて見栄を競ったものとみられる。
だが、最もな理由は、前者であると考えられ、これは明治十二年の当家八代
の光尚の結婚披露のためとみなければならない。このときの婚姻は幕藩体制
解体後の、近代社会になって最初の祝儀であった。・・」
私見だが、それまでの士農工商の順位が崩れ、庶民のそれまで鬱積していた「欲望」が突出したのではないだろうか。このころ、各地の商家:町家や富裕な農家で、その地位を「巨材」「銘木」などで具現化しようとする建物づくりが続出し(高山・吉島家、塩尻・堀内家など)、それが後の「民家像」をつくりだしてしまった原因だと私は考えている。
しかし、そのような建物づくり:《差別化目的の建物づくり》は建物づくりの本道ではないだろう。
普通に考えるならば、建物をつくるのに、わざわざ材料を遠方から取り寄せたりするわけがなく、手近で得られる材料を上手に使って建物をつくろうとするのがあたりまえである。もちろん、無駄な労力を要するようなつくりにもしないだろう。
ましてや、「使う材料を人に見せること」などを目的に建物をつくるわけもない。
「島崎家」は、そのような《差別化目的》の住まいづくりとは縁のない本当の意味の住まいづくり、つまり、住まいをつくる基本を示している好例だと私は考えている。
なお、かなりの数がある文化財建造物の修理工事報告書の中で、私の知っているかぎりでは、「島崎家修理工事報告書」は、「旧西川家修理工事報告書(滋賀県)」とともに、非常に内容の濃い、つまり調査・考察の行き届いた報告書なのではないか、と私は思っている(「旧西川家」は、「近江商人」の町の一つ、近江八幡市にある商家である。「近江商人」とは何か、いずれ触れてみたい)。
教えていただきました。
Many Thanks.
ご自愛ください。
建物が一番多いのではないでしょうか。
長野県北部は雪が積もる地域なのに、
なぜこんなに勾配が緩いのか。
しかも、石を置いたら雪と一緒に
落ちてしまうではないかと、素人
ながら心配してしまいます。
金沢の古老によると、石は多少
ずれることはあっても、
雪が引きずって落ちることは
無い。とのことでした。
素人がメンテナンスできるというのが
この屋根の強みだと思います。
板葺きは、土地柄、得やすい材料、緩い勾配の屋根は風対策ではないか、と思っています。
塩尻のあたりから穂高、諏訪、佐久に多く見かけますが、どこも風が強いところ(秩父の奥にもあったように思います・・・)。
行ったことはありませんが、スイスなどのアルプスの斜面に建つ建物にも緩い勾配・石置き板葺き屋根があります。風の強そうな地域です。
石置き屋根の建物が残っています。
都市計画区域内のはずなのに、
やっぱり金沢はすごいなぁと思います。
洛中洛外図に描かれている
町屋の屋根には、縦横整然と並べた
置き石に、格子状に組んだ竹で
転び止めとしていました。
中世では京都の町屋でも普通に
石置き屋根で葺かれていたようです。
石で押さえるから勾配が緩いのかも?それとも緩い勾配の方がよいので石置きで済ませた?ニワトリとタマゴの関係?
そういえば、瓦葺、茅葺、桧皮葺以外の屋根は、あまり知られてない、というか資料がないですね。板葺宮というのがあったと思いますが、屋根はどんなものだった?法隆寺金堂などの裳階の方式でしょうか。
あの板葺きは、板が庶民には貴重品で無理、そうかといって杮を多層葺くわけにもゆかず、僅かに葺いて石で押さえた、とうことなのでしょうか。
もっとも山国、特にソマの近くでは普通だったでしょうね。