日本の建物づくりを支えてきた技術-17・・・・継手・仕口の発展(2)

2008-11-28 11:29:46 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

先々回、鎌倉時代初頭に建てられた「東大寺開山堂(かいざんどう)」の、現在とまったく変らない洗練された工作の「目違い付鎌継ぎ(めちがいつき・かまつぎ)」を紹介しました。
そして、先回は「鎌継ぎ」は、古代:奈良時代の建物にすでに使われていたとして、「法隆寺金堂」の「裳階(もこし)」の「台輪(だいわ)」の「角鎌継ぎ:古代鎌」の例を挙げました。

今回は、法隆寺の「東院 伝法堂」、同じく「東室(ひがしむろ)」に使われている「鎌継ぎ」の例を挙げます。
図面は以前にも紹介した図ですが、今回のために編集しなおしてあります。
上から一段目、二段目の図は「奈良六大寺大観 法隆寺一」から転載・編集。
以下三段は、写真も含め、「文化財建造物伝統技法集成」から転載・編集したものです。
最下段は、「構造用教材」(日本建築学会 編)からの転載・編集です。

「伝法堂」では、「頭貫」は「合欠き(あいがき)・釘留め」、「丸桁(がんぎょう)」は「肘木」上で「鎌継ぎ」で継いでいます。いずれも「継手」の位置は、柱の真上:芯です。
「軸組詳細図」で分るように、外観では柱芯位置に「継目」の線が見えるだけです。この「線」は、「鎌継ぎ」の「首」の付け根にあたり、「鎌」の部分は、芯位置よりもずれています(「継手詳細図」も参照)。
これは、「東室」の「桁」の「継手(角鎌継ぎ)」も同様で、この場合には、「継手」の上に「繋虹梁(つなぎ・こうりょう)」が「渡腮(わたりあご)」で架けられています。

最下段の現在の軸組工法のモデルでは(この本は教科書ですから、「模範」としてのモデル、と言ってよいと思います)、「継手」は柱位置から外にあります。
様子から判断して、よくて「鎌継ぎ」、もしかすると「蟻継ぎ」かもしれません(B を見ると「蟻」のように見えます)。
実際、私も、学校で習ったとおり、梁・桁の「継手」は、柱芯からある程度跳ねだした位置に設けるものだ、とずっと思っていました。

しかし、古代、中世の、そして近世の例を見ても、梁・桁にはそういう例は見かけず、柱直上に「継手」があります。梁・桁の「鎌継ぎ」を、柱芯からずれた位置に設ける例は見かけません(「棟木」や「母屋」桁などではあるようです)。もちろん「蟻継ぎ」も見かけません。

なぜ昔の人は「鎌継ぎ」を柱の真上に置いたのでしょうか。
これには「鎌継ぎ」という継手の特性が関係しているものと思えます。

「鎌継ぎ」は、基本的に、同じ役割を担う二つの部材を繋ぐための「継手」で、部材を材の長手方向(普通、「軸方向」と言います)の力で引張ってもはずれないようにすることが目的です(そして、「構造用教材」のA、Bのように、継がれる2材の断面が異なる例も、まず見かけません)。
例えば軒の桁の場合、「継手」の位置がどうあれ、数本の柱の上を「鎌継ぎ」で継いだ桁が架けられていれば、柱間が上方で開くことを止められます。
釘留めなしの「合欠き」で継がれていたならば、そうはゆきません。

中国直伝の「頭貫」は、当初、柱頭に彫られた孔に落し込むだけだったり、「合欠き」だけだったようですが(下註記事参照)、後に釘で留めたり、「太枘(だぼ)」で留めたり、あるいは「合欠き」の端部を「鉤型」にして相互を引っ掛けるようになりますが、それは「継手」部分が簡単に離れてしまうことを避けるための工夫です(「鉤型」にした「合欠き」については、あらためて触れるつもりです)。

   註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-7の補足」

「鎌継ぎ」は、以上のように、「軸方向」の力に対しては、一定程度、状態を維持することができます。しかし、かなり強い力をかければ、「鎌」の部分が飛んでしまうことが起き得ます。

「鎌継ぎ」で継いだ桁材を、柱と柱の間に架け(「継手」が柱の真上にない場合です)、物を載せる、つまり、柱と柱の間で「鎌継ぎ」で継いだ桁に、「継手」上方からの垂直方向の力をかけたらどうなるか。
明らかに、「継手」箇所で、「への字」型に曲がる、つまり、折れてしまうことが容易に想像できると思います。「継手」がはずれるか、あるいは破損してしまうからです。写真の d のような状態が簡単に生じるのです。
もちろん、「継手」部を下から突き上げても、「継手」は簡単にはずれます。

では、このような柱と柱の間に「継手」:「鎌継ぎ」がある「桁」に、真横から水平方向の力をかけたらどうなるでしょうか。
この場合も、力がある程度を越えれば、多分、首の部分が折れ、「継手」は簡単に破損してしまうことが想像できます。

つまり、「鎌継ぎ」は、『「軸方向」の力に対しては一定程度状態を維持する働きのある「継手」であるけれども、上下や横など、部材に直交する方向の力には弱い』という特性がある継手なのです。

そして、往年の工人たちは、この特性をよく承知していたからこそ、「鎌継ぎ」は、大きな力を受けることが少ない場面で使い、さらにその際、「柱の真上に継手を設け」、なおかつ、『柱と、あるいは梁と、そしてあるいは柱、梁・桁を、一体にからませて、「継手」部に大きな力がかからないようにする方法』を考え出したのです。こういう考え方は、先の註の「頭貫」の納め方の変遷にも現われています。

個別に見てみましょう。

「伝法堂」の場合、「丸桁」は「肘木」で受けられています。「継手」は「肘木」の真ん中です。柱と柱の間で「丸桁」に下向きの垂直方向の力がかかったとき(簡単に言えば、「丸桁」に重さがかかったとき)、どうなるか。
「肘木」がなかったら、「継手」は簡単にはずれます。「肘木」がない場合、柱~柱の間の「丸桁」の中央部を上から押さえると(重さをかけると)、中央部が下がり、それとともに両端、つまり柱に乗っている部分は上がろうとします。別な言い方をすれば、両端:柱の上では、水平ではなくなる、つまり、「継手」がはずれる方向に動くということです。
「肘木」があると、そういうことは起きにくくなります。言ってみれば「肘木」は「副え木(そえぎ)」あるいは「方杖(ほうづえ)」の役をはたしているのです。

「東室」の場合、図の右側の材が先に柱にセットされます(下になるので「下木」と言います。大工さんは「したっき」と言うようです)。柱と「下木」は「太枘(だぼ)」で固定されるようになっています。
次いで、そこへ左側の材(上になるので「上木」:「うわっき」と言います)を落し込むと、「鎌」で左右の材はつながります。
さらに、その「継手」の部分に、「虹梁」が架けられます。
よく見ると、左側の材(「上木」)の「鎌」には、「虹梁」が載る部分に「虹梁」の幅の「欠き込み」が刻まれています(図の黄色に塗った部分)。「継手」の上に「渡腮(わたりあご)」の加工を施してあるのです。そこに「虹梁」が架けられると、「桁」と「虹梁」とは噛み合って動かなくなります。

その結果、「桁」は単に「柱」の上に載っているのではなく、そして「虹梁」が単に「桁」に架かっているのでもなく、「柱」~「桁」~「虹梁」が、ちょっとした「継手」上の刻み:「欠き込み」があるだけで、見事に一体に組まれてしまうのです。
これは、見事、と言わざるを得ない工夫です。

いずれにしろ、これらは、何度も書いてきたことですが、机上で生まれたものでもなく、「理論」から生まれたものでもなく、「現場」で生まれた、「現場」だからこそ生まれ得た工夫なのです。

   註 なお、桁などを「蟻継ぎ」で継いだ例は、かつての工法では
      「母屋」などでさえ、見かけないようです。
      「蟻」は「蟻掛け」など、「仕口」としての利用例が多いのかも
      しれません。


それでは、これら古代の工作と、現在推奨されている工法での「継手」を比較してみましょう(上掲のモデル図参照)。

図のA、Bの箇所で、桁に「軸方向」の強い力がかかるとどうなるでしょうか。おそらく、容易に「継手」ははずれるか破損すると思われます。
また、「垂直方向」の力がかかれば、「継手」は簡単にはずれ、あるいは破損します。また、「水平方向」の力でも、簡単に破損するでしょう。

このやりかたは、
「筋かい」が入っているから、「継手」部分には、そのような力はかからない、と考えているのかもしれません。
けれども、A、Bとも、近くに「筋かい」がありますから、場合によると、「筋かい」を経て、桁を押上げるような力がかかり、そうなれば「継手」ははずれ、「継手」部で「への字」に折れることが容易に想像できます。

こうしてみると、私には、古代の工人たちの工夫の方が、合理的で単純明快、数等優れているように思えるのです。
いったいなぜ、何を根拠に、モデル図のような「工法」が推奨されるようになってしまったのでしょうか。まことに不思議です。

ことによると、第二次大戦後の物資不足の時代の、得られる材を寄せ集めてつくらざるを得なかった時代のつくりかたが根にあるのかもしれません(下註参照)。

   註 「桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介・・・・建築史家の語る-3」


次回に補足

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