日本の建物づくりを支えてきた技術-40・・・・まとめ・5:多雨・多湿・地震・台風とともに(2)

2009-06-02 23:15:56 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[文言改訂、註記追加 6月3日 9.53][註記追加 同9.58]

先に(今年の2月)、現存最古の住居遺構の一つである「古井家」の架構が、「貫」を重用した架構であること、そしてその「貫」の使い方は、現在一般に考えられている「貫工法」とはまったく異なることを紹介しました(下註)。

   註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-23の付録・・『古井家』の・・」

すなわち、現在一般に、「貫工法」というと『「貫+壁」で架構を維持する工法』と考えますが、「古井家」では「貫」だけで架構を維持しているのです。

別の言い方をすると、「壁」は任意に、随意、随時、取付けたり外したりできる、「壁」の有無によって、架構の維持は左右されない、ということです。
これは、原理的には、「浄土寺・浄土堂」、つまり「大仏様」の考え方とまったく同じと言ってよいでしょう。

   註 「浄土堂」の「壁」の仕様については、先回触れました。
      「日本の建物づくりを支えてきた技術-39」

そこで今回は、「古井家」の架構が、壁の協力なしで軸組だけで維持されていることを詳しく見るために「古井家住宅修理工事報告書」を参考に、先回は触れなかった「古井家」の「壁」について、具体的に見てみたいと思います。
図版・写真はすべて同「報告書」からの転載で、上掲「変遷図」は、原図に加筆しています。

   註 図版が見えにくいときは、恐縮ですが、拡大してください。

「古井家」の解体修理は、1970年(昭和45年)に始まり、翌1971年に竣工しています。
「古井家」の建屋は、室町時代末に建てられたと推定され、建物は、そのころから同じ場所に建っています。
敷地は、上掲写真のように(写真は南側から見た集落の全景と「古井家」の所在です)、西側に迫る山並みの裾を開いた場所で、敷地の東半分が盛土で造成されています。
上の写真は、1970年当時、つまり修理前の状況と、修理後:竣工時の写真で、北東から見た背面全景です。写真の石垣は、盛土の擁壁です。

修理開始時点、上掲写真のように壁も剥落し、棟も下っています。
この最大な原因は、盛土で造成された地面の沈下によるもので、また、建屋周囲の地面のかさ上げによって排水も悪くなり、屋根のいわば姑息な修理による雨漏りなども重なって、かなりの柱は根腐れし、場所によると地盤沈下にともない軸組が変形して座屈・折損している柱もありました。明治以降の修理はかなり姑息な仕事であったようです。


「修理工事報告書」には、解体修理にあたり行われた詳細な調査の報告が載っています。
度重なる改造などで、当初の姿の想定には、相当の苦労があったようです。
その一つが、柱間が、開口装置なのか、壁なのか、いかなる仕様の壁なのか・・の判定です。
その判定は、部材に残された痕跡から判断します。調査者が、相当仕事を知っていないと判断が難しい。

そのあたりの様子が分るように、「報告書」の中から、「おもて」と「うら」の部屋境(図の「五通り」の「ち」通りより西側)の柱間についての「考察」の部分を、そのまま上に転載しました。
図版上編集はしてありますが、文言、図は報告書記載のままです。

   註 [註記追加 6月3日 9.58]
      調査・工事の監督は、当時文化庁に居られた鈴木嘉吉氏。
      工事主任・報告書執筆(本文・図面・写真)は持田武夫氏。
      写真のうち、竣工(修理後)は八幡扶桑氏(姫路市)。

また、「報告書」には、壁の仕様についての記載がありますので、その部分だけ別途写したのが、上掲の「説明」です(緑色文字の図版)。
ただ、壁の厚さなどは、載っていません。
外部「大壁」は、修理前、竣工時の平面図や、上掲「考察」部分の挿図などから判断して、4~4.5寸(12~13.5cm)程度ではないでしょうか。
上屋柱は約16.5cm(5.5寸)角ほど、下屋柱は約12.7cm(4.2寸)角ほどですから、「真壁」部の厚さは当然柱寸法よりは小さく、上掲の「考察」から判断すると、かなり薄いようです。柱材はクリです。

なお、上屋の「梁」は、柱よりやや小さく16cm×11.5cm(5.3寸×3.8寸)、上屋の「桁」は14cm×11.5cm(4.6寸×3.8寸)、「牛梁」(五通りで上屋梁の上に桁行方向に載り棟束を受ける)は約12cm×19cm(3.95寸×6.3寸)です。材料は主としてスギ、一部ツガ、ヒノキ。
全体の架構の様子は、お手数ですが、前記註の記事に載せた写真などを参照ください。

   註 [註記追加 6月3日 9.53]
      梁、桁、特に梁が細身で済んでいるのは、
      小屋組が最も単純なトラス組:合掌になっているからです。

この調査の報告から分ることは、「古井家」の土塗壁は、「雑木」を「横間渡」と「竪(縦)小舞」に用い、「横小舞」に丸竹を使う方法を採っています。
つまり、現在「小舞壁」の語から想像する壁とはまったく違い、現在のような「貫」は入っていないのです。
上に引用した「イ ち五~ぬ五」の説明にあるように、壁下地と思われる3.5cm×1.8cm(1.15寸×0.6寸)ほどの細身の材を、@36~50cmで取付けてあります。
また、その他の箇所の解説から、「板壁」の場合の板厚も、決して厚くはなさそうです。
ということは、土塗壁も板壁も、「いわゆる構造要素」ではなく、あくまでも「柱間への充填材」の一にすぎないのです。

さらに別の言い方をすれば、「柱間装置」として、「開口装置:建具」と「充填装置:壁」がある、と言うことができるでしょう。
つまり、「古井家」の架構は、あくまでも、「軸組+小屋組」で自立していたのです。これは、まさに「浄土寺・浄土堂」で見てきた方法と考え方が同じです。
そして、だからこそ、400年以上、柱間が壁になったり開口になったり、随意・任意であり得たのです。

架構の主役と考えてよい「貫」(足固貫、内法貫、飛貫、そして小屋貫)のすべての寸法は記載されていませんが、「ち」通りの「五」~「八」間の「内法貫」は11cm×7.4cm(約3.6寸×2.4寸)あり、「八」~「九」間は、同じ材の幅を片側2.4cm細めて上屋柱を貫いて下屋柱に達し、先端を楔で締めています。梁行各通りの上屋柱~下屋柱で同じことを、やっているようです。
全体の様子は、先の註記の記事の写真をご覧ください。

江戸時代以降、地盤も含めて、常に、適切な保守・点検・補修が行なわれていたならば、「古井家」は、おそらく修理時のような状態にはなっていなかったと思われます。
なぜなら、現在の兵庫県神戸市北区山田町には、「古井家」よりも古い建設とされる「箱木家」がありますが、この山田地区には、「箱木家」の他に数戸の「千年家」と呼ばれる住宅がかつて存在していて(なぜそんなに多く残っていたのか、理由は詳らかではありません)、その内の「阪田家」は1962年(昭和37年)焼失するまで健在であったことが「箱木家住宅修理工事報告書」中で伊藤ていじ氏撮影の写真で紹介されています。
保守・点検がしっかりしていれば、「軸組工法」は、長持ちするのです。


いずれにしても、「古井家」は、「柱間装置(開口装置、充填装置)」をすべて取去ると、きわめて簡潔・簡素な「立体」が浮び上るはずです。
そして、これこそが、「日本の環境に適応した軸組工法」のまさに「原型・典型」と言ってよいのではないでしょうか。[文言改訂 6月3日 9.53]

   註 [註記追加 6月3日 9.53]
      そのうちに架構模型をつくってみることにしています。

すなわち、当時:室町時代末:の工人たちは、「立体構造」は丈夫・頑丈であるという「事実」を、身を持って知っていたのです。だからこそ、こんな簡素な架構をつくることができたのです。

それはすなわち、有史以来、多雨多湿・頻発する地震、毎年襲う台風・・・という環境の中で暮す建物づくりを、いろいろと考え続けてきて到達した「答」としての技法だったと考えてよい、と私は思います。
なぜなら、「古井家」にしても「箱木家」にしても(「箱木家」の方が建設年代は古い)、「あたりまえのように」この工法で建屋をつくっているからです(「箱木家」についても、いずれ紹介したいと考えています。「箱木家」はダム工事のため、解体移築保存されています)。

工人たちが、いつごろこの立体化工法にたどりついたのかは分りません。
私の想像では、いわゆる「大仏様」と言われる工法が寺院建築に使われるようになる以前から、すでに一般に使われていたのではないか、と思っています(それについては、以前書いたように思います)。

   註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-20・・・」以降の
      「浄土寺・浄土堂」についての記事参照。

しかし、その後さらにこの「立体構造」化を目指す工法は発達します。
例えば奈良・今井町の「高木家」などでは、壁の下地にすぎなかった「間渡」をも「貫」にすることを考え、「内法貫」「飛貫」をも「用」に使ってしまう方法を考え出すのです。それがたとえば「差鴨居」です。

要するに、いわゆる「伝統工法」とは、わが国の環境に適した架構として、「立体構造」を目指した工法だった、ということなのです。
これを「構造要素」の足し算で考えるのが、いかにおかしいか、間違いであるか、分っていただけるのではないでしょうか。

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