先日の箱根行き、私は久々にパウル・シュミット氏の碑を見ました。で、パウル・シュミットって誰?・・・
パウル・シュミットの大研究・1 お母さんのライカという記事があります。
パウル・シュミット氏と後ろは駒ケ岳。
ワイドレンズで撮ったため小さく写っていますが、海賊船の後ろの山の形は比べても変わりありません。(当たり前:笑)
碑の写真。
枠はありますが説明パネルは無く、周りの垣根も有りませんが同じです。後ろの木が太くなっているでしょうか。
今の駅伝ミュージアム。
変わりありません。
トリミングしてエンハンスしてみました。文字ね・・・埋めてあるんだ。RESTAURANTの文字の部分はEKIDEN CAFEの看板で隠れています。
自分の記憶に自信がないのです。門というかこのギザギザした壁は覚えている・・・と言いたいけど強い自分が無いです。(笑) バブル前夜まであったと思いたい。(爆)
シュミットさんの話ははじめ、写真工業本誌に載っていると思っていました。でも、本が出てきません。結局教えてもらったのですが、別冊でした。それではいくら探しても見つからないわけです。
いい話です。簡単に言ってしまうと、シュミットさんの下で(いわゆるシュミット商会で当時のシュミット商店)働いたことのある女性が、0型ライカが復刻される時(この時その女性は95歳)にそれを買うというお話です。なぜ復刻の0型が欲しいのかというと、シュミット商店に勤めていた時に0型を所有していて、戦時中疎開先で食糧を手に入れるために手放してしまったので、再度手にしたいということです。
シュミットさんがどんな人かというのは私も資料でしか知りませんが、ライカを日本に紹介した、1896年(明治29年)にライカの代理店を設立した人として写真業界では有名です。(だけじゃない)
で、箱根と何がどう繋がるのかといえば、要はシュミットさんが1906年(明治39年)に外国人としては初めて芦ノ湖湖畔に別荘を建てたということです。そしてその跡地は箱根駅伝の往路ゴール地点脇で箱根駅伝ミュージアムとなっているのです。
この本が出たのが2002年(平成14年)、女性は95歳とあり、となると1907年(明治40年)生まれ。0型ライカは1923~24年(大正12~13年)の製造(試作機)と言われているので、女性は16~17歳。記事中にも当時このカメラを持っていたのか尋ねるところがありますが、明確な返事はなかったとあります。この女性が入社した頃の写真があり、1926年(昭和元年)のもので女学校を出てすぐの頃で20前だったとあるので、0型ライカでは整合性を欠きます。記事にはお給料をためて買ったとあるので新品だとしたらⅠ型(いわゆるA型)でしょうかね。
ま、そんな細かいことはともかく、大昔(今でいうと粗方100年前)にシュミット商店に勤めてライカを買っていた。0型ライカが復刻される時(2001年)に再度ライカを買おうという素晴らしいお話でした。
おまけ
15年前に同じ本に載っているパノミゴンについて書いていました。