最近何冊か雑誌を読んでいて、話が繋がる事が有るので、ちょっと書き記しておきたいと思います。
基になった本はこれです。
前書きに書いてあるのですが、日本の写真の置かれている状況が良く表れています。それを乗り越えて、良く出版されたものだと思います。
まず、誰がいるのか分からない事。次に、誰によって撮影されたのか分からない事。また、紹介された他にどんな写真が有るか分からない事。とにかく分からない事だらけです。『参照』が出来ません。口伝のみで画(写真)を見ないで話すのは、何とも隔靴掻痒であります。ネットを検索しても著作権のせいか、絵が出ている事は稀です。それでは後世に残らない。後世に残る事は良い事なのか悪い事なのか、何を残すのか、何を捨てるのか、答えは出ないのです。
とりあえず、現代を生きているものとして、他人と話す時に同じ言葉で話したい。共感したい、してもらいたいと思って話す時に、そのものが無い事には話にはならない。こんな時代にYouTubeのようなリファー出来るものが無いのはどうした事なのでしょうか。今撮られた写真を共有するシステムと同様に、昔の写真も、特に写真集を出して世に何かを問うたものは、手軽に参照出来る様にするべきだと思います。
写真はその言葉の定義もされていません。Photographはこの本の前書きにもある通り、『光画』ですが、なぜ『写真』なのか。英語では記憶力の良い人を指して、フォトグラフィカルメモリーを持っていると言ったりします。何となく理解出来ますが、そこには主観があるのか、無いのか。もちろん比喩である事は分かっていますが、翻って写真とは何か考えさせられるのです。
例えば観光名所を撮った写真は写真なのでしょうか? 写真の持つ本質がバーチャルリアリティーにあるとすれば、自分が行けない所に連れて行ってくれる写真は写真です。例えばこの本に出ている今 路子は写真なのでしょうか?これは自分の創作物なりインスタレーションを定着させる為に、写真の技術や特性を利用したものです。
例えば畠山 直哉は写真なのでしょうか? これは一枚では作品にならないものを塊で見せるもので、私は映像のコレクターと呼んでいますが、コンセプトを決めたら、ひたすら絵をコレクションする行為であり、ある種のインスタレーションと思っています。行為そのものは見る事が出来ませんが、膨大な枚数の絵を見る事により、行為を想像するインスタレーションだと言えます。
他にも書けば色々とありますが、記録なのか、表現なのか、いずれにしろ写真が多岐に渡り利用されていると言う事です。この本はその写真の多様性を認め、取り敢えず、こんな人がいたというリファレンスになっています。これから音楽で言う所のアナリーゼをする人も出てくるでしょう。今後、他にもこんな人がいるとか、他にこんな写真があると言った風に幅が広がり、深みが増す事を期待します。
そしてこの本。岩波書店から出ています。そこに、メディアアーティストの岩井俊雄が書いています。詳しくは本を読んで頂きたいのですが、ま、作品を作った時と同じ感覚を、後世に伝える事が出来ない、残す事が出来ない、という事がかいてあります。
どちらも、現代美術の抱える問題だと思われます。写真はまだ、実物(印画)を見る事は出来なくても、印刷物で絵柄を確認出来る事と、カメラさえあれば追体験が出来る事で、かなり他者との共有言語となり得ます。
それも昨今フィルムが無いとか、印画紙が、引伸し機が無いという事態になって来ました。ではこの先デジタルが残るかというと、はなはだ疑問であると・・・。中間物としての(ネガやポジのフィルムと等価という意味で)デジタルは間違いなく残す方向に努力されると思われますが、やはり最後に残るのは容体化されたものであると。紙に限らず何でも良いのですが、コンベンショナルなものとして写真は紙、と定義されるのではないでしょうか。それは印刷物であっても構わないと思います。印刷は他者と情報を共有するのに写真単独よりかなり優れた表現方法だと思います。
翻って、新しい表現を試みる人の心得としては、現代美術は残らない、追体験出来ないものであると、肝に銘じるのが良いのではないかと・・・。残らないもの、追体験出来ないものこそが真の現代美術であると、定義したいと思います。(笑)
実は、岩井さんは子供が通う幼稚園が一緒でした。私はその昔岩井さんのファンでしたが、実際会う事が出来るのはとても嬉しかったです。でも、作品の話はやはり難しいです。ものがあればそれで済む事なのにまさしく隔靴掻痒な話でした。あ、誤解の無い様に付け加えておきますと、別に岩井さんが難しい訳ではありません。とてもオープンマインドなお話好きの方でした。
今、一番分かりやすいのは、三鷹のジブリ美術館にあるゾートロープは岩井さんによるものです。ゾートロープがどういうものかは地球座の中のホームページをどうぞ。