6丁目のつぶやき

歩く、登る、耕す、聴く、造る、採る、乗る、見る、の写真ブログ徒然草

石舞台古墳を最後に

2007-11-27 | 旅行
レンタルサイクルでゆっくり飛鳥の史跡めぐりとしゃれたが
生憎土砂降りの雨 そんな訳で自動車であたふたと
高松塚古墳壁画館と石無台古墳を見て今回二週間の百名山4山+アロファの長旅は終わり
一路舞鶴港へひた走り 強風の中フェリーは大揺れでした

明日よりまた一週間出張のためお休みをいただきます

写真は高松塚古墳壁画館禁止なので、石舞台古墳だけで失礼


上円下方墳で長さ19.1m高さ7.7m重さ2300トンの石塞がそのまま露出して、なんで上部の土が無くなったか不明? 築造7世紀の初め 蘇我馬子の墓らしい 飛鳥のロマンですね
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薬師寺

2007-11-26 | 建築
西岡常一著「木に学べ」が小生の愛読書 法隆寺や薬師寺の棟梁だが 
おしくも平成7年に亡くなった

宮大工だから社寺建築以外はやらない
仏に仕える身は儲けてはいけない
仕事のないときは畑を耕して生活した聖人君子だ

若い頃、東塔は何度も見学したが
棟梁によって再建した西塔は初めて
奈良に来たなら何はなくとも
憧れの薬師寺を拝見しなくては

東塔 数度の災害と兵火に見舞われたがこの塔のみ残った 
法隆寺と並んで1300年の木造建築だ 
樹齢1300年以上の檜を使ったから現在までもったと西岡先生は言っていた
後ろの回廊は現代に復元したもので様子がすっかり変わっていた

西塔 基壇が東塔より一尺高くなっており、500年後ぐらいに
沈んで東塔と同じ高さになるんだと 
樹齢1300年の檜は残念ながら日本には
無くなって台湾で見つけてきた代物 棟梁の意気込みが伝わる
三層裳こしに連子窓がついて創建当時に復元され
新しくきらびやかではあるが何故か魂が篭っているようで
東塔より感じるものが多いのは身びいきか 


金堂 これも再建されたものだが西沢先生は
本尊を守るのにコンクリート、防火シャッターを
つけるつけないの大論争したそうだ
コンクリートなど300年しか持たないのにねぇ

若い坊さんが「人間はおごり、怒り、ねたみを持っている
この三つを持たないようになれれば仏様になれるから精進しよう」 と
熱っぽく笑わせながら説いていた 
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松坂城跡

2007-11-25 | 

松坂城跡

    松風騒ぐ 丘の上
     古城よ独り 何偲ぶ
       栄華の夢を 胸に追い
       ああ 仰げば侘し 天守閣

     崩れしままの 石垣に
     哀れを誘う 病葉や
        矢弾のあとの ここかしこ
        ああ 往古を語る 大手門

昔、三橋美知也が日本の哀愁感を切々と歌っていたが
此処はこの歌詞がそっくりあてはまるような城跡だ
城そのものがなく、入場料もなく観光客もいなく
ひっそり落ち着いてだからこそ哀れをさそう 

名築城家 蒲生氏郷が天正16年に築城した
三層の天守閣であったそうだ
不思議なのは昔強風らしいがいつ倒壊したのか
設計図やスケッチ図、覚書もまったくなく
したがって再建のしようがなく現在に至ったことだ 


本丸上段より見た天守台址 裏側の天守台に登る崩れかかった石段が妙に心に残る

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天誅倉

2007-11-24 | 建築
道に迷いながら竜神温泉にたどり着いた
日本三大美人湯と言うが無色透明の純重曹泉で肌がすべすべになる

付近を散歩しても山間の中、目ぼしいものはなし
通りに天誅倉 (てんちゅうそう)への案内あり、建物の外観が気に入り
徒歩20分ほど、暗くなりかけた山間を行くことにした 

尊王譲位派追放 明治維新の先駆けとなった天誅組の志士8人が閉じ込められた
農家の倉だが、由来を聞くと維新の黎明を見ることなく処刑された8人が痛ましい


それにしても倉でありながら材料の質感、屋根の出っ張り、窓の位置、腰板の対比、色合い、美しいねぇ
大工さんのデザインかしら 
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湯の峰温泉

2007-11-23 | 温泉
成務天皇と言ってもいつの時代かわからないけれど
要は相当昔の話
そのころ発見された湯の峰温泉日本最古の温泉だそうだ
熊野詣の湯垢離場として栄えた山峡の素朴ないで湯
湯量は豊富、温泉卵どんどんといった
小生の温泉定義にピッタリ当てはまる 

ちなみに、前にも独断と偏見でブログに出したが 
『理想の温泉五箇条のご誓文』とは

1 湯が地から自噴し、気泡とともにダイレクトに浸かること、
  空気に触れると温泉成分が半減するからねぇ

2 湯量が豊富でなくてはならない。湯舟に身をまかした時、
   パァっとあふれ出るお湯はこの世の贅沢そのものだ。

3 ××ホテルと名のつく温泉ホテルは基本的に銭湯と変わりがなく
  自然と接した雰囲気とはほど遠く敬遠だ。車も入れない人里離れた
  辺ぴなところの露天風呂など最高。

4 入浴料は只をベストと考える。高額な料金は考えただけでも束縛感あり
  リラックスできない。

5 温度はぬるめで男女混浴が好い。歌の台詞にあったかな?

まさに上記五箇条通りの天然温泉100%かけ流しに出っくわした


浴層は底まで槙造り、湯ぶね並々明鏡止水、洗い場もスノコと
間にある黒那智石には酸がこびりついて白く変色 
センス抜群 時が経てば経つほど味がある 


川底に造られたつぼ湯 昔傷ついた落ち武者(小栗半官)がここで癒したそうだ


川岸から90℃の温度で噴出している湯筒 温泉卵もどんどん

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熊野古道 中辺路

2007-11-22 | 登山
熊野古道の代表格は滝尻から熊野本宮大社に至るまでの
約38km中辺路 だそうだ
道中多くの熊野権現の御子神を祀った王子を巡拝しながら
杉木立の自然林を歩きいくつもの峠を越える

今は国道311号が沿うように走り自動車なら
あっと言う間に本宮大社までたどり着く
道中、観光バスから大勢の人達が列をつくり
ガイドさんが大きな声で「道を譲ってください!」
と時間を気にしながらわめいていたが

静かな古道を歩きながら、いにしえの人の思いを
かみしめるなんてわけには行かないね


滝尻王子の社の横から古道は始まる 背後の剣の山は急登 道中胎内くぐり、
乳岩、ネズ王子など経て熊野の霊域に入る


橋折峠からちょっとそれたところに、牛馬童子が馬にまたがった石像が
苔むしたたずんでいた


良く見ると足元には針葉樹の枯葉から這い出た蟹がいた


早朝雨のせいか人はいなく、階段を上り詰めた先に、目指す熊野本宮大社が神々しく
迎えてくれた
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通り峠 風伝峠 丸山千枚田

2007-11-21 | 旅行
熊野古道ではないが通り峠 風伝峠 丸山千枚田は吉野に通じる北山道で自動車でも回れる
風伝峠へは途中通り峠への道を右折し、舗装のない、梢が車体をこするような荒れ果てた道だ
時々、昔の古道だと思うが道路を横切って峠に向かっている
車で来たことの後ろめたさを感じながら
しばらく行くと風が吹き抜けていくような谷間の頂上に出る
峠には茶屋があったが休業していた 

もと来た道を引き返し、さらにつづら折の狭い道を走ると左側に突然約1300枚の棚田が現れる
高低差100mの急斜面に関が原の合戦当時から造られ
手作業で営々と現代に受け継がれている
効率だけではない美しい棚田の温かみを感じて思わず拍手 

棚田の中央に巨岩があり、さすがの人間様もどうしようもなかったのだろう


案山子も日本の美しい風景にほのぼの 
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 熊野古道 伊勢路馬越峠

2007-11-19 | 登山
紀北町~尾鷲市の間に
かっての旧熊野街道が檜林とシダ類が覆った中江戸時代より残る

三重 東紀州の伊勢路 馬越峠 は
伊勢から熊野に多くの人が行き来したのだろう
苔むした大きな石畳が磨り減り 道中、夜泣き地蔵、一里塚、茶屋跡などあり
歴史を物語っている 


紀州藩が整備した石畳は朝露に濡れ滑りやすい 
ここを馬とともに登ったなんてロマンですね 


国道42号から尾鷲に向かう標高325mの峠に明治中期まで茶屋があったそうだ
団子が売れたろうね 
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修験道 大峰山八経ケ岳1915m

2007-11-17 | 登山
大峰山は日本でもっとも古い歴史を持っている霊山
と深田先生は言っているが大峰山脈すべてを指しているんだろう
なかでも八経ケ岳 1915m は 
奥深い樹林帯と嶮しい山々をいくつも踏破してたどり着く
「大峰奥駆道」 身も心も鍛えられる道に違いない

朝六時 行者還トンネルの西口を出発
この日は寒冷前線が移動中、北西の冷たい風が頬と両手にささり震えて登った
稜線には「石休場の宿跡」「聖宝の宿跡」など往時を偲ばせる地名があるが
そこで修験道者が寒さにこらえ経文を唱えていた

弥山山頂の天河大弁財天社奥宮 世界遺産「大峰奥駈道」の出会場所


トウヒ、シラビソの原生林が紅く姿を変え、目指す大峰山八経ケ岳が聳える


山頂の東方向に山肌を縫う自動車道が見えたが、おそらく台高山脈の南端にあるのが大台ケ原山だろう
自然破壊だね そこを通った自分も恩恵を受けているが 
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大台ケ原山1695m

2007-11-15 | 登山
三重県、奈良県堺にある大台ケ原山 は山上まで自動車で行けるとあるが
どうしてどうして細い山間道路を何度も曲がり
渓谷を縫って奥深い台高山脈の側面を走る危ないドライブ
その最先端に大駐車場があり強風大雨にも関らず
数台の観光バスからツワー客が
かなきり声を張り上げ降りてくる
奥深い原生林の中苦労して登った深田久弥は
観光化した山に泣いていることだろう


昨日は風と大雨で一日中自動車の中
今朝の6時は待ったかいあって
霧の合間に一丈の光が射し始めた
人もいなく秘境の紅葉が私をしきりに招いていた


大雨が育む原生林の木立からこぼれ日がまばゆく美しい


頂上の手前、原木一本が枯れ 霧の中、きのこがみずみずしい

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室生寺 奥の院御影堂 

2007-11-13 | 建築
室生寺五重等からさらに左側先へ
よっぽど信心深い人か体力のある人以外は
途中で大概 「もう良いよ」 と引き返す
奥の院御影堂 までは
原生林の中、総段数720段 標高差450m 階段を一挙に登る室生山登山だ 


昼なお暗い鬱蒼と立ち並ぶ大杉の合間を石段がぬう


位牌堂の基礎は急峻な頂上にドラマチックに映る


鎌倉時代の重文御影堂 屋根はマキ(棺に使われる耐久性のある木材で稀少高価)
の厚板段葺で他に例なしとのこと
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室生寺五重塔  

2007-11-12 | 建築
奥深い山と渓谷に囲まれた室生山全体に、良くぞ創ってくれた伽藍配置
ここへ来なければ実感はわかない


室生寺五重塔 
他の五重塔に比べ総高16.1mの低い塔が、階段の先にあり 
段を含めると優に30mは越え、高さがより強調され
階段幅も塔の幅を考慮して計算されている
朱塗りの柱と白壁が自然と調和し 凄い 



なだらかな庇、深い軒の出 檜皮葺の屋根の小口 実に見事だ 



平成十年の台風により庇が損傷を受けたが 今は修復され元に戻った 
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女人高野室生寺

2007-11-11 | 建築
若い頃、京都や奈良には古寺を訪ね何度も行ったが
奥深いここまではお金と時間の関係で行けなかった

折に触れ話題にのぼる憧れの室生寺五重塔を
ようやく見るチャンスがありく 女人高野室生寺 を
わくわくしながら訪れた


シーズンオフにもかかわらず朝早くから参拝する人はお年寄りが多い
石段の多さにもめげずもくもくと登っている 



金堂 正面側面とも単層寄棟造りコケラ葺 傾斜地のため石垣を作り
正面入りでなく両脇からのアプローチが
うまく段差を生かしている 
内陣に平安、鎌倉時代の重文、国宝像が並んでいる
都から離れていたために 災禍から免れたのだろう 
良かった良かった 


本堂左脇から待望の五重塔が高木のなかに自然と調和して聳えているではないか 
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芭蕉翁生家の平面

2007-11-09 | 建築
月日は百代の過客にして、行きか年も又旅人なり
舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老いをむかふる物は
日々旅をして旅を梄とす
・・・・

中学一年生のとき
出っ歯とあだ名された女先生がつばを飛ばしながら
「奥の細道の第一章を暗記して来い」と熱ぽっく語っていたが
暗記は出来たものの意味はまったく解からなかった

その後大学では教授自作の解釈本をもとに
日程150余日、行程2千400キロの奥の細道 すべてを
暗記していると思うので間違ったら指摘してくれと
教科書なしで一年間講義されたことが妙に印象に残った

講義は奥の細道以外の話が多かったが
ヒューマンな先生の語り口と
芭蕉の旅を住みかとする思想に
非常に感銘を受けた記憶がある

そんな訳で、伊賀上野に来たからには芭蕉の生まれ育った
芭蕉翁生家 を見なければ先生に申し訳ないと
町中を歩き始めた 

見当はついていたのだが見当たらず
通りがかりの女学生達に声をかけたが
小首を傾げるばかり

すると通りかかった自転車に乗ったおじさんが
ニコニコしながら寄ってきて、俺に任せろと
親切に案内してくれた

地元女学生 奥の細道を学んでないのかよぅお



正面は連子格子でシンプルだが一歩中に入ると
土間が南側に12間もあり
その奥には芭蕉が起居した釣月軒がある

土間は建坪の半分ほどあり、屋内でありながら庭であり
井戸、台所、便所、とその空間が実に見事に配置され
「間」としての効用を発揮している
こう言う空間に育ったからこそ風流の極みを俳句に託すことが出来たのか
ちなみに小生の設計キーワードは「間」なんだけど 勉強になるなぁ


釣月軒土間6帖 畳間6帖だけ まさにわび寂びの境地だ


芭蕉が起居した最小空間の釣月軒 障子を閉めれば小さな高窓が一つ
下界と離れ、物思いにふける絶好の場所に違いない 壁のはかま模様が絶品だ
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伊賀上野城

2007-11-07 | 建築
忍者の里伊賀国 伊賀上野城 は小さな盆地に
慶長13年藤堂高虎が五層大天守閣を作りかけ
慶長17年竣工間じかに暴風雨で倒壊、
大阪夏の陣で豊臣方は滅亡したので城普請は中止

確か松山城も暴風雨で倒壊したとか聞いたが
風対策はどうだったのだろう


高石垣は30mと日本一の高さ 確かに高い
石垣の上から下を望むと目がくらむ


現在の城は昭和10年純木造で再建 白亜三層の端麗な姿だ
なかの柱は合せ柱で筋交いもなく耐震性に疑問があるように思えるが
素人の勘ぐりか
城内に深井戸があり
現在は泥がつまり水がたまっていたが
当時はそこから逃げられるような仕掛けはいかにも忍者発祥の地だ


瓦もかなり痛み落下の危険をはらむ
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