6丁目のつぶやき

歩く、登る、耕す、聴く、造る、採る、乗る、見る、の写真ブログ徒然草

曳家の弘前城

2022-07-01 | 

以前、弘前城へ行った時
石垣がはらんで
やばいと思いながら観ていたが
城を曳家してから石垣を修復、
耐震補強して2025年に元へ戻すとの事

その後曳家のニュースが
話題になっていたが
現存木造天守がどうなったのか
興味もあり
津軽縄文遺跡のついでに
雨の中向かった

今回で4度目の弘前城見学
いつもは追手門から二の丸を経て
下乗橋から天守だったが
今回は北城門から丑寅櫓を経て
鷹丘橋を渡って本丸へと・・・
 
お堀の水は透って樹木の影が
映り情緒ある
 
 
 
 
本丸広場には石垣隅にあたる
石が陳列してあったが
出角の土に埋もれる部分が2mもあり
その大きさに驚いた
これを元に戻して積み直し
石垣完成し本丸を戻す
 
 
熊本城では地震で崩れたのは
現代に改修した部分だそうで
昔の礎石の上にかろうじて
城が載った
写真が刺激的だった事を
思い出したが
ここでは
崩れない様な仕事を
して次に城を・・・
 
城内部には鉄骨が
既存木造を縫って
上階まで伸び
耐震補強が施してあったが
外部の窓は昔ながらのぽつ窓でなく
連窓窓になり現代調で
風情を欠いていた
工程上やむを得ないからか・・・
 
 
広場から
曇って岩手山は見えなかったが
裾野の雄大な眺めは
絶景に違いなかった
 
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郡山城の今

2021-12-18 | 

広島駅から単線の芸備線は
各駅停車のワンマン電車
すれ違いの電車待ちで
運転士さんに郡山城下車駅を聞いたが
自装のiPadで調べてくれ
吉田口駅が近いと・・・

地方鉄道ののんびりした気分を
味わいながら吉田口駅で下車
電車の前を運転士に挨拶して横切る

降りた人は我一人
駅員も居なく
タクシー会社の連絡先が
バス時刻表の下に小さく書いてある

携帯で呼んだらおばさんのだみ声で
 
15分後に行くから
駅前で待つようにと
 
誰もいないバス停にまもなく
小さな小型タクシーが来た
 
おばさん運転手曰く
 
ここは日曜日はバスが無い
平日マイクロバスが
家庭まで行くのだと・・・
 
郡山城跡に行くと言って
時々ここから乗せるが
皆さん間違って来てるみたいです
 
と嬉しそうに・・・
私もその一人になってしまった
 
安芸高田市からバスが
広島市まで何本も出ているので
帰りはそこからと・・・
親切に教えてくれて
安芸高田市歴史民族博物館まで
お喋りしながら退屈しなかった
 
ザックを博物館にあずけ
郡山城跡案内図をもらい
そこから海抜325mの山城へ
久しぶりの空身の登山気分
 
元就火葬場や毛利一族墓所を経て
三の丸、二の丸、本丸跡地の石碑を
見て想像 上から見ると峰が
蜘蛛のように本丸に向かって履い
そこへ堀切を造り
天然の要害堅固だったのだろう
 
 
 
 
築城は15世紀後半らしいが
元就が郡山全山を城郭化したのは
16世紀中頃だそうで
戦国時代最大級の山城だった
堀切の跡も崩れてよくわからない
 
往復三時間の外回り一周ではあったが
どこも石垣は崩れて青く苔むし
城の跡は窺い知れない
 
 
 
 
名将元就の三矢の訓と百万一心の
石碑は木陰にたち
堀切はあちこちに微かに残り
注意しないと見落す
 
 
巨大な城だった面影は
400年間の時が朽ちさせ
自然林に埋没して無常だ
 
 
日本100名城のひとつと言うが
戦国時代の城を考えれば
規模の大きさと毛利家の名声で
100名城かも・・・
 
 
 
 
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広島城の立地位置

2021-12-07 | 

以前
広島へ出張した際は
幅の広い橋が多くその上を
路面電車が頻繁に走って
近代都市に生まれ変わる様子が
質、量、共に札幌に比し高く
歴史のある地域は文化も含め
違うなぁと感激して
広島城はサラッと観ただけだった

退職後
日本100名城にチャレンジしていて
広島城は是非とも見なければと・・・

原爆資料館で広島市の
強烈な惨状を見て
壊滅的な被爆から立ち直り
近代都市へ変わったのを驚きながら
広島城へ・・・
 
 
毛利元就の孫輝元が
秀吉の聚楽第、大阪城を見学して築城し
関ヶ原の合戦後萩に移され
福島正則が入城 洪水で破損し
修築許可の不備で
芸備を没収され
代わって浅野長晟が統治
廃藩置県まで250年間
治めたと
そして8月6日の原爆で全て焼き野原に・・・
 
太田川と京橋川に挟まれた三角州に
内堀、中堀、外堀の三重堀の広大な敷地が
内堀のみ残して埋め立て
かって毛利輝元の築いた平城の
面影は消え失せた
今は復元の二の丸、本丸だけで
寂しい限りだ
 
 
内堀の御門橋を渡り
真新しい表御門をくぐり
復元された二の丸
 
この門は馬だしの機能も兼ね
構内に被曝したユーカリの木が
大きく育ち
植物は強いと驚いた
 
再建された天守閣は外観だけ似せた
鉄筋コンクリート構造だが
エレベーターは無く
五層全高39mの華麗な姿を
四方から観られる
 
 
天守閣から望むお堀は眼下に大きな内堀
そして原爆の傷をのこした石垣と
復旧した現代石垣と紅葉の対比
どうしても原爆が頭から離れなかった
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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七戸城跡(柏葉城)

2021-10-11 | 

国道4号線を八戸に向かって
走っていたら七戸城跡の表示があった

これは行かなければと七戸町の
街中をぐるぐる回り
聞けばこの柏葉公園
二台しか駐車できないとのこと
やっと止め立ち寄った
 
鎌倉末期から南北朝初期
七戸南部氏の居城に
九戸政実の乱で政実につき滅亡
その後三戸南部氏の直轄地にと・・・
平山城である
神社の横へ解説看板があった
 
土塁、水濠、空堀等
本丸跡と五つの外郭跡が残り
今は大きな公園と神社に
なって現在にいたる
 
周囲のはずれに
土塁と堀がかすかに城跡を想起させる
 
800年は経っている杉の大木が
今も生き続ける証人で
いにしえを全て知り尽くして
圧巻であった
 
 
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浪岡城跡

2021-10-06 | 

ナビにも載ってない浪岡城

国道7号線から道の駅小牧野で
浪岡城跡は何処かと
地元の女性に訪ねたら

マスク越しに津軽弁で
よく聞き取れず親切にも
高台の場所まで連れて行かれ
道路のいくつかの信号を
右左と方向を
教えてくれたが・・・
 
ともかく教えられた方向だけは
間違うことなく行け
また近くの人に聞き直して
やっとたどり着いたが
 
資料館はコロナ禍で臨時休館
周囲には誰もいなく
勝手に広大な敷地を見て
約一時間ハイキング
 
1500年間浪岡氏の居城で
天正年間に落城
曲輪は二重堀で当時の面影は残る
中世城郭がここにあったのだなと
想像するしかなかった
 
 
今は浪岡城跡公園となり
小リンゴの木に
1㎝ほどの小さなリンゴが鈴なり
食べてみたらリンゴの味がした
 
 
ここは桜の咲く頃
遠く岩木山が真っ白に聳える
絶景地となるに違いない
 
外れの樹齢800年の大銀杏が
当時から観ていた歴史の証人
土堀と土塁だけの
手付かず原野と見間違う
浪岡城遺跡だった
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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7号線をまたぐ堀越城跡

2021-10-05 | 

青森市に向かって国道7号線を
走っていたら堀越城跡の表示が
突然目に入った

これは見なければと
急遽立ち寄った
 
雲ひとつなく
早朝の津軽平野は岩木山を抱き
土豪が眼前に飛び込む
周囲は誰も居ない
 
 
津軽藩初代藩主津軽為信最後の居城
弘前城へ居城を移すまでの17年間
津軽の中心として機能していたと・・・
 
 
曲輪内を7号線が分断して
惜しい
城跡は基礎石だけだが
不思議と昔の面影を
彷彿させ南北朝時代の
楯(館)として築いたらしい
 
 
詳細は不明と
島津藩勢力の行方に興味をはせた
 
それにしても土嚢が
幾重にもかさなるが
大軍が攻めて来たら
直ぐに陥落してしまうのではと
思うほど緊張感はない
平城で当時は
この防御策でよかったと・・・
 
詳しく知りたいと
遠くに聳える
立派な茅葺の建物を訪れると
ここが資料館で
江戸末期に建てた津軽の豪農民家を
移築したものだが
残念ながらここも休館
 
 
コロナ禍
飲食店や酒販売はダメだとしても
資料館などは三密も守られ
人も少ないしルールさえ守れば
良さそうなものだが
公的なものは押し並べて
どこも一律に臨時休館
なんか細かい配慮が欠けてる
ような気もするが・・・
 
うらめしい
 

 
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男鹿半島 脇本城跡

2020-10-26 | 
戦国時代末期の大規模な山城
脇本城跡を見たく
男鹿半島へ
 

秋田駅四番ホーム発車
男鹿線ナマハゲラインは
各駅停車のワンマン電車
ボックス席でない対面座席の
綺麗な新車だった

 


脇本駅は無人駅
降りる人は誰もいない
脇本城跡までの経路地図が
無造作に置いてある
 
歩こうか迷ったが
現地も山城で大分歩くので
タクシーに乗り
日本海に面した男鹿半島の
付け根にある丘陵の案内所まで10分で
着いた
 
戦国時代安藤愛季が
本拠とした山城脇本城跡
案内所に着いたら
ここも人はおらず
そこから海抜100m上の曲輪へ
登り始めた
 
 
海側の絶壁に長さ250mの築地塀
幾つもの山を削っての曲輪
仕切り土塁、堀切、空堀、虎口
井戸跡等当時の様子を思い浮かべ
歩く事2時間
 
 
 
 
 
 
東西約1.8km南北約2.0km
面積150ヘクタール
雄大なスケールで山城を堪能
これだけの城を造るのには
多くの人の従事と権力の行使があり
北国の僻地で
色々なドラマがあったのではと
思いながらの
あっという間の山城跡だった
 
 
帰りは脇本駅まで徒歩で45分
途中道に迷い洋装屋の女主人に
駅までの道筋を聞いたところ
笑みを浮かべ道まで出て来て
畑道で行く近道を丁寧に
教えてくれた
 
礼を言って歩き出し
見返したら
まだ確かめる様に見送っていた
 
田舎にはそぐわない
すらっとした衣装で
口紅の鮮やかな綺麗な人だなぁと・・・
 
笑顔が心地良く
あとで考えるとそうだこれが
秋田美人だと納得でした
 
 
 
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身近に感じた根城

2020-09-05 | 

日本100名城
建武元年(1334)に
甲斐国の武士南部師行が
この地に赴き
北奥羽の支配拠点として
根城を築いた

発掘調査により
本丸他七つの曲輪が判明した
 
南北朝時代
北奥羽に
崖地と空堀で土豪を成したらしい
 
 
復元された本殿は寄せ棟造りの
京都風の雅な風情で
天井は高く
大きな部屋が連なる
床は全て板敷
鍛治工房、納屋、厩等が
本殿及び寝所の直ぐそばにあり
通常の城配置と違い
役所の様な家屋で
庶民的だ
 
 
 
八戸博物館が併設して
中を覗くと
考古展示では根城南部氏の系図
があり八戸藩2万石誕生の歴史が
面白い
 
司馬遼太郎は街道をゆくで
今は八戸は青森県となっているが
昔は南部藩で
南部衆と津軽衆は今も仲が悪い
今でも結婚などは許さない
風習があるらしく
どうも気質が全然違うらしい
 
一方南部藩の盛岡8万石と
八戸藩2万石も江戸時代分家させられ
ここも南部藩同士仲が悪いと
人文地理的に書いていたが
そう言う気配が八戸には
今も続いているらしいと・・・
 
南部藩の中世の時代、安土桃山時代と
そして現代までの生活の
ありように
思いを馳せ時間を楽しんだ
 
兎も角もう一度訪れ
関西関東の豊かな土壌と違って
寒冷地であるが故の貧農漁業の生活
宮沢賢治、石川啄木等々の
偉人を輩出したその環境
比較的権力臭のない南部衆の人達
等々興味があり深掘りしてみたい
 
 
 
 
 
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土塁の佐倉城

2020-01-16 | 

千葉県内の日本100名城は
佐倉城だけ

室町時代の関東は
一国おしなべて野なり と
なんかの本で読んだ
勿論畑も無く人もいない大湿地地帯
こんな所に何故城を作ったのか?
 
この辺は石がなく
石を一切用いない土塁、空堀、水堀
の連郭式平山城の
近世城郭だ
 
戦国時代の中頃千葉氏築城か?

その後
広大な枯草の中切り開き
北側の印旛沼を外堀に西と南は川を利用し
東側に武家屋敷、町屋、仏閣を配した東を守る要とした
 
 
家康が江戸の東を守るための
前線基地として
土井利勝に佐倉城を築城させ
7年の歳月をかけた
 
歴代城主9人が老中となり
全国最多
なかでも
幕末期の堀田正睦は
日本を開国に導き
攘夷の渦に引き込んだ
 
京成佐倉から徒歩15分
小山を登れば公園内で
この間の台風の影響で
桜の木が倒れその他の倒木で
土塁や空堀が枝で遮られまだ手付かず
城跡の哀れさを倍加している
 
 
 
 
明治以後陸軍の兵舎あとから
天守台の束石が発掘され
一ヶ所に野ざらしになっていたり
陸軍病院が広大な高台にあったが
今は解体され
荒れ放題の敷地化となっていた
 
 
歴史に翻弄されたこの城も
今は公園になり
広場で人だかり
そばに寄ってみれば
初老のおじさんが
可愛い女の子に笑顔で手を取り
竹細工を丁寧に教えていた
 
 
平和な公園でいつまでも続いてほしいと・・・・
 
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石垣だらけの津山城(鶴山公園)

2019-12-12 | 

岡山からJR津山線
快速列車で山々の終わりかけた
紅葉を観ながら
山間の津山駅に下車

駅前は人影が少なく
観光案内所も見当たらず遠くの山に
それらしき城を見出した

今にも降りそうな空模様の中
歩き始め徒歩15分

出雲街道に接して
標高41mの小山にシンボリックな備中櫓が
天守の様に見えてきた

 



一二三段と呼ばれる高石垣が重なり
石垣のオンパレード
枡形虎口があちこち
川に面して防禦が実に複雑で
戦国時代の城造りに
知恵を絞ったに違いない



江戸時代初期の傑作
兎も角石垣石垣石垣の
平山城で日本百名城だ

信州川中島の戦いで功のあった
信長の小性だった盛蘭丸の弟
森忠政が津山城生みの親
美濃から美作18万8千500石に封じられ
その後元禄10年嫡子がいなく
廃城 城を松平家に明け渡し
以後大政奉還まで172年間
津山城を守り続けた

ここは別名鶴山公園
日本桜の名所100選
今は紅葉が終わり千本の桜幹
が目立つが
春の満開時には城の石垣と
併せて
さぞかし美しい
日本情緒豊かな風景となるに違いない

 

  しきしまの大和心をひと問わば
        朝日に匂う山桜花かな


それを観にまた行なければ‼️

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西国大名を監視する為の福山城

2019-12-08 | 

 

広島県福山市に
毛利氏ら西国大名監視のため
大坂の陣から5年経ち
幕府が資金援助と現物供与までして
最前線に築いた



徳川譜代の水野氏5代
松平氏1代阿部氏10代と廃藩置県まで
西国大名に睨みを利かし
明治6年廃城
そして戦災により焼失
鉄筋コンクリート造で復元

以上の知識をもって
快晴の福山駅に着いた
新幹線駅前から徒歩1分
目の前の石垣を登れば
豪壮な筋鉄御門


潜れば
天守閣が聳える真正面にでる



五重六階の天守閣、伏見櫓(重要文化財)御湯殿、月見櫓、筋鉄御門等々
数々の建築物が風格を表して
目を見張る

折しも天守閣での博物館
徳川家康と歴代将軍ゆかりの名宝展
が開かれており
刀、甲冑、烏帽子、陶器、木器、
櫛、簪、衣類等々
偉大な権力をつぶさに魅せられ
その時代の武士の様子が
わかって興味深かった

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幻の今治城

2019-12-06 | 

高松城、中津城とならんで
日本三大海城の一つ
今治駅から海側へ徒歩20分

関ヶ原の戦いで戦功のあった藤堂高虎
に伊予半国20万石を領し
この今治に
築城名人高虎が輪郭式海城として
「吹上の浜」と呼ばれた砂丘に築城 

脆弱な砂浜の上に重い石垣を巡らした

今治城は瀬戸内海を睨んで防御していたのに違いない


 


しかし天守があったかどうかは
未だにはっきりしていない
敷地内に天守の遺構が無いことや
あっても6年間で
丹羽亀山城に移築されたとか
実際北隅櫓が
天守の役目を果たしていたとか

現在は模擬天守が北隅に建っている
 


土橋をわたって高麗門をくぐり
枡形虎口から鉄御門を経て二の丸
天守に上り
脆弱な砂丘の上によくこの石垣と城を
造ったものだと
昔の人の知恵に脱帽
 


山里櫓内に陳列してある
一族の精緻な作りの古美術に感銘を受け
最近再建された赤松の匂いがする
長い木造武具櫓を防禦する立場で歩き
なるほどと頷き
 
 
 
城から
遠く見える四国本州を結ぶ
今治尾道ルートの大橋
しまなみ街道が
現代を象徴して
感慨深く眺め
今治城を後にした
 
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木造で再建した大洲城

2019-12-03 | 

大洲城は
駅から循環バスに乗って
細い道を迂回しながら
通り過ぎたのではと不安に

なりながらたどり着けば

眼前に新築の城が聳えて
立派過ぎて
かなり浮いているかなぁと・・・



14世紀前半に建てられ
それを近世城郭に改造し
慶長年間に天守を築き
明治21年に廃城令で取り壊され
平成16年木造で肱川を堀にして
威風堂々と木造で再建し
新たによみがえった



檜の匂いがプンプンして
吹き抜けの木組が迫力あり
建築基準法違反で有るが
非常灯や隠しカメラ等々苦心して設置
建前はともかくとして
特例措置で史実に従って忠実に
造られたことに
敬意を表したい







天守から見る眺望は素晴らしく
小さな家々がこじんまりと拡がり
肱川が防禦の要となっていることが
よくわかる

人は城 人は石垣 人は堀
情けは味方 仇は敵
信玄の名句が当てはまる様な
こじんまりした
大洲市のシンボルに
市民は誇りを持っているだろう

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天守のない湯築城跡

2019-12-01 | 

日本100名城の湯築城跡が
松山市道後公園内にあると聞いて
市電車で行く



公園前で降りて看板はあったが
公園の縁に高さの低い土塁が
城跡らしい





南北朝時代より存在して
丘陵部は71mの小山で

天守の遺構がまったく無く
天守があったか定かでない
下の平地部では
武家屋敷が建ち平山城であった



伊予豪族河野氏が
平安時代から
壇ノ浦の戦い
承久の乱
等々乗り越えて
戦国時代迄の約400年間
にわたって統治していたが
秀吉の四国征伐で小早川軍に降伏
城を開け渡した

廃材は松山城の築城に使われ
堀や土塁のみ残る



松山城を築き廃城となる

ほぼ完全な縄張り
土塁、堀だけ残って
たぶん南北朝時代からの
長い歴史
そして
松山城築城までの前身だから
優れた史跡と言う意味で
日本100名城なんだなぁと・・・

遠くの勝山に見える松山城が
在りし日の湯築城の廃材か・・・
歴史の移り変わりに
古城何をか語らん

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洋学盛んな宇和島城

2019-11-29 | 
司馬遼太郎の幕末期活躍した
大村益次郎(村田蔵六)の物語
「花神」を読んで
蔵六が日本初の蒸気船を作るために
松山と高知の中間に位置する
過疎地宇和島藩へ
行くが・・・

当時蘭学は宇和島藩と言って
日本有数の洋学盛んな藩と・・・

古式豊かな優美な城は
南と西が豊後水道の
海に面して
東と北に堀を巡らす
城塞堅固な悌郭式平山城で
藩主の意向が伝わりやすい
こじんまりした縄張りだ







城の名手藤堂高虎が6年の歳月をかけて
平城の近世城郭を築き
江戸時代に伊達政宗の長男秀宗が
入封して明治まで続いた

天守は三重三階の総塗籠式の
狭間も石落としも無い
軍事的要素より
千鳥破風や唐破風のある
装飾性の高い城だった












天守閣には珍しい書院造で
障子と天井があり
住宅としての機能も兼ねていたのか?



城下は南西の海も
堀も全て埋められ
商店街に変わってしまった
当時とはまったく
変わった風景になり
これも現代ならではと・・・

現存12天守の一つのためか
柱も継ぎはぎだらけで
傷ましいが




これがかえって歴史を想起させ
刻まれた年月に魂を感じる 貴重な天守に愛着を感じ
はるばる宇和島まで来た
甲斐があった

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