明治33年に炭坑として開坑する
幾多の変遷の後
昭和46年まで石炭の採掘を
行っていた
櫓の高さ50.2m
立坑の深さ735.4m
内径6.4mと東洋一を誇っていたそうだ
それが今
鉄骨や滑車が錆び付いたまま
地上に聳え
建屋も朽ちてみるも無惨
痛ましい
無常感この上なし
建屋の後方のボタ山には
樹木が生えて
紅葉が真っ盛り
廃石炭の集積した
三角形のボタ山は面影がない
祇園精舎の鐘の声
沙羅双樹の花の色・・・
ただ春の世の夢の如しだ
国道237号から274号の
日高山麓を抜けて夕張まで走る
薄らと雪化粧の山々を背景に
紅葉は今が旬とばかり
樹海ロードを快適にドライブ
到着した夕張滝の上公園は
コロナ関係なく大勢の人だかり
夕張川に面し堆積岩が斜めに傾斜して
そこへ激流
地球が動いてる様子が劇的にわかり
刺激的だ
紅葉が渓谷に映え
吊り橋からの景観はドラマチックで
人々は群れをなして二つの橋を周遊
紅葉狩りの魅力に取り憑かれる
入り口付近には大正時代建設の
赤煉瓦造りの水力発電所が
今も稼働して
紅葉と相まって川に映える
人々は満足の笑みを浮かべ
ひとときの秋を
満喫しているようだった
国道237号で帯広方面に走れば
沙流川にかかる二風谷ダムがあり
広々とした二風谷湖が現れる
ここが目指す二風谷コタンだ
茅葺のチセ(住まい)が建ち並び
アイヌのふるさとへ来たような
錯覚になる
チセを観ながら
二風谷アイヌ文化博物館へ入る
町立の博物館で
アイヌ民族の民具がずらりと並び
その標本資料は種類と数が凄い
アイヌの生活文化が一目瞭然
白老の国立アイヌ民族博物館より
古いせいか静かに濃縮した空間だ
狩る、採る、織る、縫う、
彫る、祈る、歌う、踊る・・・
大自然と共生しその知恵と
精神文化が
手にとるようにわかり
沙流川流域の息づく生活を
想像して
充実感に満たされた
白老に最近オープンした
国立アイヌ民族博物館に
ネットで申し込んだら
偶然にも空きがあり縄文時代に
こだわっている者としては
これは行かなければと
早速行くことにした
さすが国のやる仕事
コストをかけ
ゲートを過ぎれば
突然帽子をかぶったような
屋根の壁面が眼前に現れて
博物館へ誘われる
立派だ
駐車場は満杯
コロナ禍から解放され人々は
列を作り開場時間を待つ
三密は今は昔のようだ
ウポポイ(民族共生象徴空間)の
尊敬しあう共生空間が
るる説明展示
人間こうあるべしと
素晴らしい
二階にあがればロビーから
ポロト湖周辺の展望が
ウポポイを象徴して圧巻だ
じっくり時間をかけて観たいが
人々が多くて落ち着かない
またの機会にと外へ出る
ポロト湖を中心にコタン広場あり
数々のチセ(住居)あり
体験交流ホールあり
学習ホールあり
盛り沢山で疲れて来た
とても1日では回り切れない
幸いな事にここから静内方面の
平取町にも
アイヌがあったなと思い出し
気分転換で1時間半
北海道らしい平原を
ドライブしながら向かった
紅葉を愛でるため久しぶりに
支笏湖へ向かった
今朝の天気予報は今年初めての
雪が降るとの事で心配しながら
なんとかなると走り出した
案の定札幌は晴れていたのに
山間部はみぞれ混じりの雪
紅葉もしっとり濡れ
カーブの連続と登り下りで
皆さんスピードを抑え
慎重に運転の為数珠繋ぎ
天気予報見事にあたった
時々薄日が射すが
雲の移ろいが
恵庭岳、フッブシ岳、樽前岳に
かかり
支笏湖ブルーの湖と紅葉との対比で
日頃見られない景色
圧巻だった
久しぶりの支笏湖も来てみれば
有料道路はなくなり
一年を通して通行できるように
雪崩防止柵が完備され
観光化が図れたようだ
周りの山々は薄黄味色に変り始め
暑かった夏は急に朝晩涼しく
畑作業もやり易くなった
我がほっとけ農場も枝豆の葉や
雑草のエノコログサも
黄金色に様変わり
食用菊月山が一斉に咲き始め
同じくもってのほかも
まもなく紫色に・・・
もう秋だ
コスモスが黄色い月山とコンビで
風になびき
鰯雲が空に映え気持ちが良い
黄色に咲いた月山を
一輪一輪摘んで
花びらをむしり
熱湯で湯がき
酢の物で
おひたしで食べる季節の到来
やがて紫色のもってのほかも
咲いてあたりは秋一色の中
手をかじこませながら
摘むぐ
こうして今年も
コロナ禍に関係なく
確実に秋がきて
畑作業も無くなり
すぐに雪景色だ
冷凍で保存し一年中
おひたしとしての一品が
食卓を黄色と紫色に彩る
我が家の必需品だ
二ッ森貝塚から小川原湖を横にみて
青い森鉄道沿いに南下
長七谷地貝塚に向かったが
道案内表示もなく
スーパーや付近の人に聞いても
小首を傾げるばかり
最寄りの青い森鉄道白石駅に行って
聞いてもわからず
若い女性の駅員が時間をかけ
パソコンから
地図をプリントしてくれた
それをもとにようやくたどり着いたが
工業団地内の中に草原があり
道路脇に立て看板が
無造作に建って何も無い
立て看板には
魚骨や貝殻の堆積された
写真断面と
釣り針、モリ、加工具
煮炊きに使用したせん底土器等
多數出土してハマグリ等
現在の八戸で生息してなく
当時は暖かかったようだと
書いてあったが・・・
弾力性のある草原を勝手に歩き
貝塚がどこにあったか
想像できなかった
前にも行った南北朝時代の根城脇の
八戸市博物館へ行けば
出土品の資料があるのではと
久しぶりに
行ってみたら臨時休館
世界遺産と言っても地元では
あまり認知されていなく
思うに北東北はどこへ行っても
まだ発見されて無い
三内丸山級の縄文遺跡が
あるのでは・・・
と思ったけど太平洋側は
大陸と離れて人の往来は少なく
発展しなかったかどうか?
国道4号線を八戸に向かって
走っていたら七戸城跡の表示があった
これは行かなければと七戸町の
街中をぐるぐる回り
聞けばこの柏葉公園
二台しか駐車できないとのこと
やっと止め立ち寄った
鎌倉末期から南北朝初期
七戸南部氏の居城に
九戸政実の乱で政実につき滅亡
その後三戸南部氏の直轄地にと・・・
平山城である
神社の横へ解説看板があった
土塁、水濠、空堀等
本丸跡と五つの外郭跡が残り
今は大きな公園と神社に
なって現在にいたる
周囲のはずれに
土塁と堀がかすかに城跡を想起させる
800年は経っている杉の大木が
今も生き続ける証人で
いにしえを全て知り尽くして
圧巻であった
二つ森貝塚史跡公園は何処かと
七戸の地元スーパー、駅員、
田圃に面した農耕器具メーカー、
近くの通りすがりの人に
聞いても小首を傾げるばかり
一面黄金色の田んぼが続き
携帯ナビでなんとかたどり着いたが
現地は閉鎖
解説表示看板をもとに
公園内を勝手に歩き始めた
氷河期の終わり極地の氷が溶け始め
海水が上昇して
小川原湖周辺は内湾となり
太平洋に続く
段丘上に縄文人が
1500年間継続して住み着いたと・・・
大規模な拠点集落跡だ
多数の竪穴式住居、貯蔵穴、道路遺構
そして動物遺体、骨角器類が見つかり
村全体を想像すると面白いが・・・
外人が多いのか立て札は横文字で
世界遺産として
わからない訳ではないが
観光会社だけが潤うのでなく
地元の誇りと思うような
PRを望みたいが?
赤く染まった
リンゴ畑を横に見ながら
自動車ナビがなければここには
到底行き着かなかったような
狭い農道をクネクネ回り
たどり着いた資料館は
小学校の廃校を利用した
質素なもので
かつコロナ禍で休館
そこから約1.7km
山中を登った山頂付近に
資料館があるがここも臨時休業
メンテのおじさん達は
草刈りに余念なく
この人たちのおかげで
山に埋没した
遺跡が見られる
そこから歩いて10分
人はいない誰かを待っているような
ストーンサークルが・・・
ストーンサークルが見事に現出し
この川原石をこんな山中に
どこから持って来たか
何故一部が垂直に立っているのか
祭祀場遺跡か
等々紀元前2000年前の
古代のロマンに浸る
付近に多数の自生栗の木があり
地元のおばさんが栗を拾っていた
地上にあるものは
虫がついているから
落ちてきたものを拾うと良いと
自分で拾ったものをどう言う訳か
全て袋ごとくれた
東北の人は余ったものはみんなで
分かち合う精神と言うか
共生と言うか
狩猟時代に戻ったような
不思議な遺跡だ
新幹線が開通した後
JRから独立した
青い森鉄道で浅虫温泉へ
行った事があった
旅館の女将が新幹線が開通したため
素通りして
お客さんが途絶え
開通などしなければとぼやいていたが・・・
今回、コロナ禍
飛び入りで予約したため
駅から離れた
飛び入りで予約したため
駅から離れた
絶景を売り物にしている
観光ホテルに宿泊できた
観光ホテルに宿泊できた
昔宿泊した駅前の繁華街あたりを
なつかしく散策したが
なつかしく散策したが
皆コロナ禍で休館
旅客の浴衣姿も見えず
閑古鳥が鳴いていた
閑古鳥が鳴いていた
足湯や温泉たまごそして
棟方志功のゆかりの宿等
以前と変わってはないが
元気がない
屋根の形から想像して
多分遊郭であろう
今にも壊れそうな建築を興味深くみて
人は皆無の駅前繁華街を去った
浅虫温泉は本当にさみしい風情であった
浪岡城跡
2021-10-06 | 城
ナビにも載ってない浪岡城
国道7号線から道の駅小牧野で
浪岡城跡は何処かと
地元の女性に訪ねたら
マスク越しに津軽弁で
よく聞き取れず親切にも
高台の場所まで連れて行かれ
道路のいくつかの信号を
右左と方向を
右左と方向を
教えてくれたが・・・
ともかく教えられた方向だけは
間違うことなく行け
また近くの人に聞き直して
やっとたどり着いたが
資料館はコロナ禍で臨時休館
周囲には誰もいなく
勝手に広大な敷地を見て
約一時間ハイキング
1500年間浪岡氏の居城で
天正年間に落城
曲輪は二重堀で当時の面影は残る
中世城郭がここにあったのだなと
想像するしかなかった
今は浪岡城跡公園となり
小リンゴの木に
1㎝ほどの小さなリンゴが鈴なり
食べてみたらリンゴの味がした
ここは桜の咲く頃
遠く岩木山が真っ白に聳える
絶景地となるに違いない
外れの樹齢800年の大銀杏が
当時から観ていた歴史の証人
土堀と土塁だけの
手付かず原野と見間違う
浪岡城遺跡だった
青森市に向かって国道7号線を
走っていたら堀越城跡の表示が
突然目に入った
これは見なければと
急遽立ち寄った
雲ひとつなく
早朝の津軽平野は岩木山を抱き
土豪が眼前に飛び込む
周囲は誰も居ない
津軽藩初代藩主津軽為信最後の居城
弘前城へ居城を移すまでの17年間
津軽の中心として機能していたと・・・
曲輪内を7号線が分断して
惜しい
城跡は基礎石だけだが
不思議と昔の面影を
彷彿させ南北朝時代の
楯(館)として築いたらしい
詳細は不明と
島津藩勢力の行方に興味をはせた
それにしても土嚢が
幾重にもかさなるが
大軍が攻めて来たら
直ぐに陥落してしまうのではと
思うほど緊張感はない
平城で当時は
この防御策でよかったと・・・
詳しく知りたいと
遠くに聳える
立派な茅葺の建物を訪れると
ここが資料館で
江戸末期に建てた津軽の豪農民家を
移築したものだが
残念ながらここも休館
コロナ禍
飲食店や酒販売はダメだとしても
資料館などは三密も守られ
人も少ないしルールさえ守れば
良さそうなものだが
公的なものは押し並べて
どこも一律に臨時休館
なんか細かい配慮が欠けてる
ような気もするが・・・
うらめしい
鹿角市に世界遺産大湯環状列石が
あると聞き今回の主目的地へ
胸躍らせレンタカーを走らせた
のどかな広大平地に
円形状の河原石が配置された
円形状の河原石が配置された
ストーンサークルである
万座と野中堂の二つに環状列石があり
中心を結んだ線が夏至の太陽が
沈む方向と一致しているとのこと
太陽崇拝か・・・
この場所が祭祀場だったと・・・
数字を意識した土版や
日常的でない土器等出土
付近には大きな栗の木があり
栗が地面に転がり
一袋拾って持ち帰ったが
狩猟時代も恩恵を
得ていたに違いない
今は熊が現れ敷地に電柵が施され
地主のおばあさんが
リンゴ、ナシ、くりを売りながら
掘削時の状況など
面白おかしく話してくれた
立派な
ここの資料館はなぜか休館でなく
じっくり縄文時代の狩猟生活や
太陽崇拝、祭祀等知識を得て
一人静かに
瞑想に耽った
そして
気候条件が今より2℃高かったため
氷河期の氷が溶け海面が上昇して
生活し易かった等々
紀元前2000年から1500年前の
生き様が声になって聞こえて
くるようだった
快晴、レンタカーを借りて
世界遺産北東北の 是川石器遺跡を訪ねた
八戸郊外までなれない道を迷いながら
たどりつけば
コロナ禍のため資料館は休館
資料館前の広い芝でおばさん達が
草むしりをしていた
遺跡の現場を見たいと
聞いたところ親切に教えてくれたが
地元の方言が混じり半分は
聞き取れなかった
方向はわかったので
行ってみたが
現地は解説プレートが
あるだけの広大な原っぱ
どこを掘ったのかもわからず・・・
農家の老婆に聞いたら
ブルドーザーで
2m掘り返すので私の農地は
遠慮してもらっているとの事
自分の敷地から出た石器が
家にあるから帰りによりなと・・・
ここは多様な施設を伴う貝塚集落で
紀元前1000年から400年頃と
漆塗りの土器、土偶、弓やヤスが
発見され
まだ手付かずな部分があるとの事
丘に上がって全体を見渡せば
海が昔はここまであり
採取、漁労、狩猟と定住した人々の
生活が想像され
いにしえの生活が
手にとる様にわかる
ロマンだ
帰りに老婆の家に寄らせて頂き
多数の石器類他を
見せてもらったが話好きで
一方的に話し
こちらの付け入る余地はなかった
どうやら広い建物に一人住まいで
寂しかったのでは!
ここにも僻地の高齢者問題があるなと!
一戸の御所野遺跡はもっと古い
紀元前2500年から2000年の
遺跡があると聞いて向かったが
山をクネクネどんどん登り
たどり着けは臨時休業
案内板には墓や動物の骨や木の実が
出土したとある
森の中に立派な歩道橋が
馬淵川をまたぎ
上から覗けるようになっていたが
閉鎖で行けず・・・