6丁目のつぶやき

歩く、登る、耕す、聴く、造る、採る、乗る、見る、の写真ブログ徒然草

佐原のうなぎ

2019-12-29 | 食品

何か食べたいものはと聞かれれば
即座にビールとうなぎ

 
若いころ日本橋、京橋、八丁堀あたりの
木造家屋の店で
あたりに芳ばしいにおいを放つ
うなぎ屋が何軒かあった
たまらなくなり友人と目を合わせ
仕事帰りに自然に足が向かったものだ
 
まずビール グビイグビイ
そして
具は多くは必要としない
うなぎの肝串などあれば最高でまたグビィグビィグビィ
 
仕上げはあったかご飯に
秘伝のタレがうまく絡みあった
うな丼で充分
 
満腹感バッチリ
この世の幸せ満足度100パァ
明日への活力もりもり
安上がりの最高のひと時の千鳥足
てな具合の青春だった
 
昨今のウナギ事情は
ビル内の狭い店でこじんまりと
たいそう高価で
庶民には高嶺の花
しかも養殖ものや中国製が主流と・・・
世知辛い世の中になったもんだ
 
この先 うなぎは食べられるのか
なんて思っていたが
小江戸佐原は
不思議と鰻屋が多い
店前に生きたうなぎが
ビニール袋に詰められて
暴れていた
 
 
昼時評判の店は行列
他にも数件あると
小江戸佐原 江戸情緒豊かな川沿いの
庶民的な店構え
炭火焼うなぎ屋へ飛び込んだ
 
 
 
昼時なのに客は居なく
閑古鳥が泣いていた
 
うな重は高級感があり高いと
思ったがうな丼と値段は同じ
 
 
もともと
天丼、カツ丼、中華丼、豚丼等々の
丼物は昔から手軽にすぐ食べられ
おいしさに失敗はない
ご飯とタレのハーモニーで
かっ込む感じが
空腹感を即座に満たし
大好物だ
 
庶民の味は丼でなければと
頑固一徹こだわって
値段も同じならと
うな丼を頼んだ
 
待たされている間に店内を
見渡せば
幅広いぶ厚い立派な欅のテーブルとこ上がり
 
 
暫くして待望の
こんがり焼けた大きなうなぎが
お椀にはみ出て
うな丼らしいと思ったが
人のいない店ではなんか寂寞感があり
値段を考えると高揚感あまりない
 
一口うなぎをほうばり
タレも少なからず多からず
うまっ‼
 
肝吸いを静かにすすり
自家製のお新香をかみしめ
余韻に浸った
 
鰻食ったと満腹の後は
御主人と鰻談義
 
私  うなぎ高価になったねぇ 
 
店主 乱獲があり消費も増え
   うなぎが足りなくなって
   庶民の味でなくなった
    昨今
   国産鰻は3割であとは台湾ものだが
   中国ものは全てスーパーなどの
   加工品となり
   この状態はこのまま続く 
 
私     佐原はうなぎ屋さんが多い様だけど!
   昔うなぎがとれたの? 
 
店主 佐原はうなぎが
   捕れた訳ではない
   醤油屋が多かったから
   うなぎはタレにあるんだよ
 
    醤油がない外国には
    うなぎ文化はないよ‼️
 
   今は醤油屋も少なくなり
            うなぎも高く
     先はないと思う と嘆く
 
安いうな丼が
食べられなくなるなんて
世の中も終わりか?
 
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下総の水郷地帯

2019-12-26 | 風景

 

幼少時利根川源流に育ったが
谷川岳の雪解け水の中で唇を紫色にして
水泳や
川魚を獲ったりして
時々石にはりついて暖を取り
日の暮れるまで遊び狂った

この水が
海にたどり着くまで
いろいろな出会いがあって・・・・
どういう経路で流れていくのか
想像たくましく思ったものだ

水郷下総の霞ヶ浦、鹿島、潮来、佐原、の地図を見て
沼が多く
大湿地地帯を形成しているのは
利根川が日本で2番目の長さで大量の水が
起因しているのではと・・・・

行ってみたい思いを強くして
鹿島神宮詣でのついでに足を延ばした

実際に見てみると
鹿島臨海鉄道、JR鹿島線は大部分が湿地のため高架線
車窓から観る景色は
どこまでも広がる水郷と
田畑それを横切る直線道路
利根川は湖水沼のように
どんより濁った水面が漂い
水平線の彼方へ途方もなく伸びる
 
 
下流水域の広大さが
関東平野と相まって
実感できたが
昨今の台風15号 19号の様な豪雨になれば
河川反乱して大災害になるんだろうなぁと
心配になってきた
 
二酸化ガスによる地球温暖化が
原因らしいが
革新的な自然エネルギーとか
大容量蓄電池とか
人間の知恵でなんとかならないものか
このままでは
災害はまたやってくる
他人事ではないなぁと実感した


 
自国の利益ばかり優先する政治家が
世界各国でなんと多くなったことか
政治に夢がなくなったねぇ
 


川の流れのように 
 
 ♫ 空が黄昏に染まるだけ
 ♫ 雪解けを待ちながら
穏やかにこの身をまかせるわけにはいかないご時世だ
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芭蕉の逗留した鹿島根本寺詣

2019-12-23 | 旅行

 

親の死に目に親を罵倒した
臨済宗根本寺の奇人仏頂和尚が
芭蕉に
月見に来ないかと・・・
 
仏頂和尚を尊敬していた芭蕉は
鹿島神宮の参拝も兼ね
奥の細道の出発する2年前(1687年)に訪れた
 
奥の細道を辿っている者としては
鹿島神宮を参拝するかたわら
鹿島根本寺にも行ってみたくなり
観光案内所や民宿のおばさんに
道筋を聞いたが小首を傾げ要領を得ない
パンフレットも無く
Googleマップで
探し当て
朝早く閑静なほそ道をくねくね
歩いて
やっと
誰もいない樹木に囲まれた
素朴質素小さな寺に
たどり着いた
 
 
 
庭の左中央に
大きな新しいピカピカ石碑が
最近建立された様だが・・・
 
 
 
芭蕉は
 
月はやし梢は雨を持ちながら
  寺にてまこと顔なる月見かな
 
私には想像力がなく
この句と今の寺との情景が
ちよつと違和感を覚えた
 
この辺は
鹿島神宮と鹿島アントラーズ
一辺倒で
芭蕉の鹿島紀行について
何か勉強できるかと期待したが・・・
 
芭蕉、門人の曽良、宗波と
ここでどう過ごしたのかと
想像めぐらしながら
元来た道を引き返した
 
 
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早朝の鹿島神宮

2019-12-19 | 旅行

閉鎖間近の神宮は
参拝客が大鳥居を背にして
あわただしく帰路を急いでいる様だ

あたりは
提灯が神々しく灯り
神々も闇のなかに消えて
静寂が戻る
 
 
何も見えなくなったので
明日の早朝来ることにして
慌てて引き返した
 
翌朝は神宮の東側から
橙色の太陽が昇り始め
関東で最も古い神宮に
陽が煌々と射し始め
紀元前660年創建から
いろいろあった
長い歴史をこの光は
じっと見守ってきたのだろう
 
 
大鳥居をくぐり抜けて 
勝負や縁結びにご利益あると言われている桜門 奥宮 奥参道
 
 
 
地震を抑える要石
 
浄化の御手洗池と
 
 
千古の歴史を現代に伝えて
うやうやしくそれぞれの社で
幅広い御利益を期待して
ニ礼二拍一礼 深々と頭を下げ
境内の森林浴を楽しみながら
ゆっくり散歩
芭蕉の句碑をみて
 
 
大鳥居を後にした
 
 
 
鹿島出身の剣豪
塚原卜伝のPR看板が境内に
あちこちあったが?
奥参道がテレビロケ地だったようで
霊験あらたかな神宮には・・・
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六甲山ハイキング

2019-12-16 | 旅行

神戸三ノ宮で飛行機に乗るまで
半日余裕ができ
六甲山へ行ってみる

阪急電車、バスは通勤通学時刻で超満員
そんな中ザックを背負って
図々しく乗り込み
久しぶりに通勤時刻を味わった

乗らなければ良かったと
後悔したがどうにか
ケーブルカーまでたどり着き
 
こちらは朝早いせいか
観光客もいなく
マイケーブルカーとなる

斜度22度の急坂を
紅葉埋もれる
木立を潜って走る
 


頂上から見下ろせば
紅葉した山の直下に
神戸市街の高層群が
もやっておぼろげ
その向こうに
陽が海面に煌めいていた

そこからハイキングを兼ねて
有馬ロープウェイまで
山道を散策
 
 
眼下の
麗かな神戸の街景色に
あの平成7年に起きた
神戸大震災があったとは
とても思えない
 
 
 
 
不気味に雲のあいまから
大都会に
陽が照り射し
あの地震は何だったんだろう
人間の生命力は凄いなぁと・・・
 
有意義な半日でした
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石垣だらけの津山城(鶴山公園)

2019-12-12 | 

岡山からJR津山線
快速列車で山々の終わりかけた
紅葉を観ながら
山間の津山駅に下車

駅前は人影が少なく
観光案内所も見当たらず遠くの山に
それらしき城を見出した

今にも降りそうな空模様の中
歩き始め徒歩15分

出雲街道に接して
標高41mの小山にシンボリックな備中櫓が
天守の様に見えてきた

 



一二三段と呼ばれる高石垣が重なり
石垣のオンパレード
枡形虎口があちこち
川に面して防禦が実に複雑で
戦国時代の城造りに
知恵を絞ったに違いない



江戸時代初期の傑作
兎も角石垣石垣石垣の
平山城で日本百名城だ

信州川中島の戦いで功のあった
信長の小性だった盛蘭丸の弟
森忠政が津山城生みの親
美濃から美作18万8千500石に封じられ
その後元禄10年嫡子がいなく
廃城 城を松平家に明け渡し
以後大政奉還まで172年間
津山城を守り続けた

ここは別名鶴山公園
日本桜の名所100選
今は紅葉が終わり千本の桜幹
が目立つが
春の満開時には城の石垣と
併せて
さぞかし美しい
日本情緒豊かな風景となるに違いない

 

  しきしまの大和心をひと問わば
        朝日に匂う山桜花かな


それを観にまた行なければ‼️

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西国大名を監視する為の福山城

2019-12-08 | 

 

広島県福山市に
毛利氏ら西国大名監視のため
大坂の陣から5年経ち
幕府が資金援助と現物供与までして
最前線に築いた



徳川譜代の水野氏5代
松平氏1代阿部氏10代と廃藩置県まで
西国大名に睨みを利かし
明治6年廃城
そして戦災により焼失
鉄筋コンクリート造で復元

以上の知識をもって
快晴の福山駅に着いた
新幹線駅前から徒歩1分
目の前の石垣を登れば
豪壮な筋鉄御門


潜れば
天守閣が聳える真正面にでる



五重六階の天守閣、伏見櫓(重要文化財)御湯殿、月見櫓、筋鉄御門等々
数々の建築物が風格を表して
目を見張る

折しも天守閣での博物館
徳川家康と歴代将軍ゆかりの名宝展
が開かれており
刀、甲冑、烏帽子、陶器、木器、
櫛、簪、衣類等々
偉大な権力をつぶさに魅せられ
その時代の武士の様子が
わかって興味深かった

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幻の今治城

2019-12-06 | 

高松城、中津城とならんで
日本三大海城の一つ
今治駅から海側へ徒歩20分

関ヶ原の戦いで戦功のあった藤堂高虎
に伊予半国20万石を領し
この今治に
築城名人高虎が輪郭式海城として
「吹上の浜」と呼ばれた砂丘に築城 

脆弱な砂浜の上に重い石垣を巡らした

今治城は瀬戸内海を睨んで防御していたのに違いない


 


しかし天守があったかどうかは
未だにはっきりしていない
敷地内に天守の遺構が無いことや
あっても6年間で
丹羽亀山城に移築されたとか
実際北隅櫓が
天守の役目を果たしていたとか

現在は模擬天守が北隅に建っている
 


土橋をわたって高麗門をくぐり
枡形虎口から鉄御門を経て二の丸
天守に上り
脆弱な砂丘の上によくこの石垣と城を
造ったものだと
昔の人の知恵に脱帽
 


山里櫓内に陳列してある
一族の精緻な作りの古美術に感銘を受け
最近再建された赤松の匂いがする
長い木造武具櫓を防禦する立場で歩き
なるほどと頷き
 
 
 
城から
遠く見える四国本州を結ぶ
今治尾道ルートの大橋
しまなみ街道が
現代を象徴して
感慨深く眺め
今治城を後にした
 
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木造で再建した大洲城

2019-12-03 | 

大洲城は
駅から循環バスに乗って
細い道を迂回しながら
通り過ぎたのではと不安に

なりながらたどり着けば

眼前に新築の城が聳えて
立派過ぎて
かなり浮いているかなぁと・・・



14世紀前半に建てられ
それを近世城郭に改造し
慶長年間に天守を築き
明治21年に廃城令で取り壊され
平成16年木造で肱川を堀にして
威風堂々と木造で再建し
新たによみがえった



檜の匂いがプンプンして
吹き抜けの木組が迫力あり
建築基準法違反で有るが
非常灯や隠しカメラ等々苦心して設置
建前はともかくとして
特例措置で史実に従って忠実に
造られたことに
敬意を表したい







天守から見る眺望は素晴らしく
小さな家々がこじんまりと拡がり
肱川が防禦の要となっていることが
よくわかる

人は城 人は石垣 人は堀
情けは味方 仇は敵
信玄の名句が当てはまる様な
こじんまりした
大洲市のシンボルに
市民は誇りを持っているだろう

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天守のない湯築城跡

2019-12-01 | 

日本100名城の湯築城跡が
松山市道後公園内にあると聞いて
市電車で行く



公園前で降りて看板はあったが
公園の縁に高さの低い土塁が
城跡らしい





南北朝時代より存在して
丘陵部は71mの小山で

天守の遺構がまったく無く
天守があったか定かでない
下の平地部では
武家屋敷が建ち平山城であった



伊予豪族河野氏が
平安時代から
壇ノ浦の戦い
承久の乱
等々乗り越えて
戦国時代迄の約400年間
にわたって統治していたが
秀吉の四国征伐で小早川軍に降伏
城を開け渡した

廃材は松山城の築城に使われ
堀や土塁のみ残る



松山城を築き廃城となる

ほぼ完全な縄張り
土塁、堀だけ残って
たぶん南北朝時代からの
長い歴史
そして
松山城築城までの前身だから
優れた史跡と言う意味で
日本100名城なんだなぁと・・・

遠くの勝山に見える松山城が
在りし日の湯築城の廃材か・・・
歴史の移り変わりに
古城何をか語らん

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