私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

ネルソン・マンデラと自由憲章(1)

2013-12-20 22:35:58 | インポート
 南アフリカのネルソン・マンデラが12月5日自宅で家族に見守られて亡くなりました。享年95歳。南アフリカの最大都市ヨハネスブルクのサッカー競技場で、12月10日、追悼式が営まれました。西日本新聞(ヨハネスブルク共同通信)の記事を引用します。「降りしきる雨の中、会場のサッカー競技場には、数万人の国民と約100の国や国際機関の首脳級が列席。追悼式典としては空前の規模となり、人種間の融和と和解を説いたマンデラ氏の大きさをあらためて示した。」もう少し引用。「式典開始直後、競技場に集まった人々がマンデラ氏をたたえる歌を大声で歌い、踊った。大型スクリーンには、マンデラ氏の前妻ウィニーさんが悲痛な表情を浮かべる様子が映し出された。黒人男性エリアス・マイナメさん(61)は「われわれの文化では、葬儀での雨は、偉大な人物が亡くなったことの証し。マンデラ氏は自由をもたらしただけではなく和解の大切さをおしえてくれた」と言葉に力を込めた。マンデラ氏と共に人種隔離撤廃に尽力したノーベル平和賞受賞者のツツ元大主教が「並外れた人物」だったと祈りをささげ、式典は終わった。」
 豪華に演出されたこの式典には、米国からオバマ大統領夫妻、クリントン前大統領夫妻、それにブッシュ、カーターを加えて4人の歴代大統領、英国はキャメロン現首相にブラウン、ブレア、メイジャーの三人の前首相、フランスはオランド大統領にサルコジ前大統領、招待がどのように発せられたかは知る由もありませんが、これらの面々を見るだけでも、南アフリカと米英仏との関係の密接さが浮き彫りになります。そして、如何に追悼の場とは言え、彼らが口にした故人への仰々しい讃辞の偽善性には嘔吐を催すばかりです。なかでもオバマ大統領の弔辞は偽善性というような弱い形容詞をこえる恐るべきものです。そこに盛られた言辞、その巧みなレトリックの狙うところを正確に読み取る必要があります。そのためには、1990年ネルソン・マンデラが27年半の獄中生活から開放されて程なくの時に下した決断が南アフリの黒人にどのような結果をもたらしたかをはっきりと見据えなければなりません。マンデラのまことに英雄的な努力と決断によって南アフリの黒人は制度としての人種隔離(アパルトヘイト)政策の廃止と投票権を入手し、1994年、獲得した投票権を行使して全人種選挙でマンデラを大統領とする黒人主導政府の樹立を遂げました。しかし、それからの20年間に、一般黒人大衆の社会的生活状況は人種アパルトヘイトの形式的消滅を除けば、何ら顕著な向上がないばかりか、むしろ悪化した面さえあります。これはマスコミが如何に事実を曲げようとしてもどうにもならない裸の事実です。アパルトヘイトという言葉は「隔離」を意味します。人種アパルトヘイトが階級アパルトヘイトに変わっただけだという声があるのは真にもっともです。
 このブログの2013年8月9日付けの記事『シリア、ブラジル、エクアドル、キューバ(3)』に私は次のように書きました。
********************
2012年8月16日、南アフリカのヨハネスブルグの北西に位置するマリカーナの英国資本プラチナ鉱山(世界第三位)で労働者のストライキが発生し、その制圧に警官隊が発砲して約40人が射殺され、約80人が負傷、約200人が逮捕されました。死者の多くは背中に銃弾を受けていたそうです。動画もあります。Marikana Massacre と呼ばれています。南アフリカの黒人市民大量虐殺事件といえば、シャープビル虐殺事件(Sharpeville Massacre)が有名です。1960年3月21日、時の政府のアパルトヘイト政策の廃止を求めてデモを起した数千人の黒人群衆に向かって警官隊が容赦なく発砲し、70人の死者、200人の負傷者が出ました。これは南アフリカの歴史的転換点となった事件です。日本語ウィキペディアの記事の一部を引用します。:
■南アフリカは1960年代から1980年代にかけて強固なアパルトヘイト政策を敷いた。他方、国内では人種平等を求める黒人系のアフリカ民族会議 (ANC) による民族解放運動が進み、ゲリラ戦が行われた。1960年のシャープビル虐殺事件をきっかけに、1961年にはイギリスから人種主義政策に対する非難を受けたため、英連邦から脱退し、立憲君主制に代えて共和制を採用して新たに国名を南アフリカ共和国と定めた。一方で日本人は白人ではないにも関わらず白人であるかのように扱われる名誉白人として認められ、日本は南アフリカ政府や南アフリカ企業と深い繋がりを持つことになった。■
この二つの民衆大虐殺事件、シャープビル大虐殺(1960年)とマリカーナ大虐殺(2012年)、を隔てる半世紀の間に南アフリカは劇的な変貌を遂げます。この変貌の象徴的人物はネルソン・マンデラその人です。反アパルトヘイト闘争の指導者マンデラは1964年国家反逆罪で終身刑に処され、悪名高いロベン島監獄に投じられますが、1990年に釈放されました。1994年4月には、南ア史上初の全人種参加選挙が実施され、マンデラ率いるANCが勝利して、彼は大統領に就任します。ここで軽率な英語を使えば、“The rest is history”、ネルソン・マンデラという稀有の黒人英雄の力で、長年続いて来たアパルトヘイト政策が破砕され、目出たし目出たしのお話、これが私を含めて世界中の“お目出度い人々”の頭の中に植え付けられた人種平等の国南アフリカの物語、ネルソン・マンデラ物語であります。
 しかし、昨年8月に起きたマリカーナ大虐殺は、我々お目出度い人間たちの南アフリカ認識がどこかで根本的に誤っていることを明らかに示しました。50年を隔てて、又々、同じことが起こってしまったからです。私たちの認識の誤りを最も端的に言ってしまえば、「アパルトヘイトは死んでなんかいない。健在だ」ということです。そして、おそらく更に重大な問題は「我々の多くは、マスコミにすっかりやられっぱなしの、情けないほどの愚民だ」ということです。私もネルソン・マンデラの自伝をむさぼり読み、ぞっこん惚れ込んで、彼こそ20世紀最高の偉人だと考えたものでした。ネルソン・マンデラが歴史に残る偉大な人物であることは否定の余地がありません。しかし、彼が現実にしたこと、させられたこと、は冷静に見つめ直す必要があります。マンデラその人と「マンデラ現象」は、或る意味で、別途に考えるべきことであります。
********************
上の「彼が現実にしたこと、させられたこと」という文章の意味をはっきりさせるためには、先ず、1955年にANCが掲げた「自由憲章(Freedom Charter)」なるものの内容と歴史を理解する必要があります。幸い、これについて分かりやすく説明した文献の一つを、優れた訳業を通じて、我々は読むことが出来ます。:
---------------------
ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン(上)』(幾島幸子・村上由見子訳、岩波書店,2011年):第10章「鎖につながれた民主主義の誕生」
---------------------
本書については、このブログの2011年9月21日の記事『ショック・ドクトリン』で言及しました。ネルソン・マンデラあるいは南アフリカに興味をお持ちの方は是非この第10章全体をお読み下さい。今回のブログで私が取り上げようとしている点がその冒頭に言及されているので訳文を少し引用します。:
「一九九〇年一月、七十一歳のネルソン・マンデラは刑務所の独房で机に向かい、支持者に向けた覚書を書いていた。獄中にいた二七年間のほとんどを、ケープタウン沖に浮かぶロベン島にある刑務所で過ごした彼は、その間にアパルトヘイト国家南アフリカの経済改革にかける自らの決意が鈍ったのではないか、という疑念に答えようとしていた。そこにはこう書かれていた。「鉱山、銀行および独占企業の国営化はアフリカ民族会議(ANC)の政策であり、この点に関してわれわれの見解が変化したり修正されたりすることはありえない。・・・・・・」(引用終り)
この部分、私のこれからの論議に深く関わりますので、念のため原文を示し、中ほどの所を幾島・村上訳より少し逐語的に訳出します。:
「In January 1990, Nelson Mandela, age seventy-one, sat down in his prison compound to write a note to his supporters outside. It was meant to settle a debate over whether twenty-seven years behind bars, most of it spent on Robben Island off the coast of Cape Town, had weakened the leader’s commitment to the economic transformation of South Africa’s apartheid state. The note was only two sentences long, and it decisively put the matter to rest: “The nationalization of mines, banks and monopoly industries is the policy of the ANC, and the change or modification of our views in this regard is inconceivable. ‥‥‥」
<・・・それは、27年間獄中にあり、そのほとんどをケープタウン沖に浮かぶロベン島にある刑務所で過ごしたことが、南アフリカのアパルトヘイト国家の経済改革に対する指導者マンデラの決意を弱めることになったかどうかについての論議にはっきりけじめをつけようとしたものであった。その覚書はたった二つの文だけの短さだったが、それは決定的に事を決着させた。・・・>
 マンデラがこの短い覚書を書いた2週間後の1990年2月11日、アパルトヘイト政権のデ・クラーク大統領によって刑務所から釈放され、外で待っていた支持者たちから熱狂的に迎えられましたが、その釈放の前に、事後の来るべき政権的変化についてデ・クラーク政権とそれに加えて米欧側が重要な計算と身構えを行なったことは想像に難くありません。それを考慮に入れて、マンデラの覚書を読む必要があります。
 この場合、かなめとなる文書がANCの基本理念として1955年に掲げられた「自由憲章(Freedom Charter)」です。全文(英語版)は次のサイトで読めます。

http://www.nelsonmandela.org/omalley/index.php/site/q/03lv01538/04lv01600/05lv01611/06lv01612.htm

この「自由憲章」をめぐる歴史的展開については上掲のクラインの本に行き届いた解説がありますのでお読み下さい。マンデラの覚書に対応する部分、つまり、鉱山、銀行および独占企業の国営化に関する部分を書き写すと、
The people shall share in the country's wealth!
The national wealth of our country, the heritage of South Africans, shall be restored to the people; The mineral wealth beneath the soil, the Banks and monopoly industry shall be transferred to the ownership of the people as a whole; All other industry and trade shall be controlled to assist the well-being of the people; All people shall have equal rights to trade where they choose, to manufacture and to enter all trades, crafts and professions. ■
となっていて、これは上に引いたマンデラの出獄直前の覚書にそのまま対応しています。続いて土地所有(農地解放)の問題が取り上げられています。:
The land shall be shared among those who work it!
Restrictions of land ownership on a racial basis shall be ended, and all the land re-divided amongst those who work it to banish famine and land hunger; The state shall help the peasants with implements, seed, tractors and dams to save the soil and assist the tillers; Freedom of movement shall be guaranteed to all who work on the land; All shall have the right to occupy land wherever they choose; People shall not be robbed of their cattle, and forced labour and farm prisons shall be abolished.■
ここで先ず注目したいのは、獄中からのマンデラの覚書には農地解放への言及がないことです。これは、彼がこの時点で既に南アフリカでの農地解放実施の望みを捨てていたことを強く示唆していると私は考えます。ナオミ・クラインが説明しているように、大統領になったマンデラは覚書で誓った鉱山、銀行および独占企業の国営化も実行しませんでした。クラインは「今日の南アは、経済改革が政治改革と切り離して行なわれたときに何が起るかを示す、生きた証となっている。政治的には、国民は選挙権と市民的自由、多数決原理を与えられているが、経済的にはブラジルをしのぐ世界最大の経済格差が存在している。」と書いています。「経済格差」というのは曖昧な用語です。底は上がったけれど最上層の富裕さは更に増した結果、格差そのものは拡大したというのなら、少しは救われます。しかし南アの場合は全くそうではありません。一般黒人大衆の生活状況は、マンデラの率いたANCの政権の下で、以前とくらべて向上するどころか、悪化したのです。何故、そして、どのような過程で南アはこのようになってしまったか。繰り返しますが、ナオミ・クラインの著作(幾島・村上翻訳)には詳細で分かりやすい解説が既に2007年の時点で行なわれているのでお読みいただきたい。
 マンデラが亡くなった直後に、南ア事情に詳しいパトリック・ボンド(Patrick Bond)の長い論考が発表されました。その見出しは、

Did He Jump or Was He Pushed?
The Mandela Years in Power

http://www.counterpunch.org/2013/12/06/the-mandela-years-in-power/

です。一行目は「彼は改宗したのか、それとも、強要されたのか?」と訳しておきます。パトリック・ボンドは北アイルランド出身、アイルランドの俗語では、カトリックからプロテスタントに改宗することをジャンプすると言うようです。マンデラは、出獄から4年目の1994年5月、大統領に就任しましたが、その時には、出獄直前に発表した覚書で誓った鉱山、銀行および独占企業の国営化を実行する考えを捨ててしまい、金融や重要産業のプライベタイゼーションという米欧主導の政策を採用しました。覚書で既に言及を避けた農地改革は、勿論、マンデラ政権の政策には含まれていませんでした。これは1955年の「自由憲章(Freedom Charter)」の教条からマンデラが離反してしまったことを意味します。改宗です。
「マンデラ自身が考えを変えてしまったのか、それとも、外からの力に押されて屈したのか?」それが「Did He Jump or Was He Pushed?」の意味です。
この長文の論考の著者ボンドの最終的結論は「Perhaps he did both.(多分、両方だ)」というものです。直裁に言えば、覚書を真に受けた一般黒人大衆をネルソン・マンデラは完全に裏切ったことに他なりません。これをどう考えればよいのか? 次回に私の見解を述べることにします。

藤永 茂 (2013年12月20日)



最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
『ショック・ドクトリン』は南アフリカやソ連崩壊... (海坊主)
2013-12-21 19:55:29
『ショック・ドクトリン』は南アフリカやソ連崩壊後のロシアと東欧諸国、南米諸国で起こった事に共通の構図があり、絶えず同じ過ちを繰り返させられきたことを読者に伝えています。

『政治問題』とは紛うこと無く『経済問題』であり、両者は全く不可分です。しかしながらマスメディアはあたかも両者が別次元の問題であるかのような誘導を私たちに課しています。つまり、私たちが経済問題の根源に目が向かないよう煙幕を張っているのです。『名を捨てて実を取る』という欧米のこの戦法は今のところ常に成功しています。南アフリカもその一つのケースでしたし、現在の日本もしかりです。

「マンデラ氏は変節したのか、それとも圧力に屈したのか」という問いは大変興味深いですが、故マンデラ氏の追悼式に参列した米英の現・元国家指導者の顔ぶれが全てを物語っていると私は思いますし、ツツ元大主教に対しても同様に考えています。

藤永先生のご見解を伺える次回の記事を楽しみに御待ちしております。
返信する

コメントを投稿