私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

アンネの日記

2014-03-19 08:40:42 | 日記・エッセイ・コラム
 アンネ・フランクというオランダの少女は私の物の考え方に大きな影を落としました。いま手許にあるアンネの日記は1952年に米国のポケット・ブック社が出版した英訳本『Anne Frank: The Diary of a Young Girl』で、値段は25セントでした。エレノア・ルーズベルトの一頁ほどの紹介文がついています。オランダ語の元のタイトルの解説もあり、それによると原書は『Het Achterhuis (ヘット アヘターハウス)』というタイトルで、Hetは定冠詞、Achterは「うしろの」、huisは家、本のタイトルは“the house behind(裏側の家)”を意味します。観光旅行などでオランダのアムステルダムを訪れて、「アンネの家」を見物なさった方々はこのタイトルの意味がすぐにお分かりでしょう。私はアンネの家に三度も行きました。それに関連して、生涯忘れることの出来ない強烈な経験をしました。拙著『おいぼれ犬と新しい芸』(岩波現代選書、1984年)の中の古い文章をリサイクルさせて頂きます。:
■ その頃(私註;1970年)日本で評判になっていた書物に、イザヤ・ベンダサン著の『日本人とユダヤ人』というのがあった。読んでみると、たしかに面白く教えられることも多かったが、一方では、ひっかかるところも少なくなかった。「少々、苦情を!」という章にそのよい例がある。
目には目を、歯には歯を この言葉はほとんどすべての日本人に知られ、そして知っている人はすべて「撲られたら撲り返せ」の意味にとる。ひどい人は、復讐の公認もしくは奨励とする。この点では、かの高名な『天声人語』氏も、造反闘士も、町のオニイチャンも差はない。しかしこの言葉は、そういう意味ではないのである。旧約聖書は日本語に訳されているのだから、ちょっとそこを開いてくれればだれだってわかるのにと思うし、高名な知識人が、まさか原典にあたらず孫引きをやったとは思えないが、まことに不思議である・・・」。
 旧約聖書でこの言葉が見える三つの個所が訳出されていて、それから、この言葉のもとの意味を教えられ、私は驚きもし感心もした。ここではレビ記24章17~21節を写す。
「だれでも、人を撃ち殺した者は、必ず殺されなければならない。獣を撃ち殺した者は、獣をもってその獣を償わなければならない。もし人が隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたように自分にされなければならない。すなわち、骨折には骨折、目には目、歯には歯をもって、人に傷を負わせたように、自分にもされなければならない。獣を撃ち殺した者はそれを償い、人を撃ち殺した者は殺されなければならない。・・・」。
 この引用だけからは悪意のある解釈が可能かもしれないが、ベンダサンの言う通り、目には目、歯には歯を、という言葉の本来の意味は、損害を与えたら正しく損害賠償せよ、ということであると思われる。しかし、私の知る限りでは、この言葉は、日本だけではなく、カナダでも、撲られたら撲り返せという意味に使われている。いったい、カナダ人は原典の意味を知っているのだろうか、知らないのだろうか。私の好奇心は次第にふくらんで、とうとう、ある日、一般化学のクラスの学生たちに聞いてみたのである。「目には目を、歯には歯を、と言う言葉の意味を君たちは知っているか?」教室内には笑い声が流れ、一人の学生が「やれやれ、この東洋人の教師は、こんなよく知られた英語の表現も知らないのか」といった調子で、「それは、目をやられたら相手の目をつぶす、歯を折られたら折り返す、ということだ」と教えてくれた。私は、待ってましたとばかりに「旧約聖書にある本来の意味は、それとは違うのを君たちは知っているか」とやり返した。すると、クラス全体がシーンと静まり返ってしまったのである。その無知をわらったつもりだった東洋人教師から、逆に、聖書の読み方が足らん、と切り返される始末になった。私は「旧約聖書の出エジプト記21章、レビ記24章、申命記19章を読んでみたまえ」と言い渡すと、スヌーピーのような涼しい顔をして化学の講義に戻ったが、内心では嗜虐的な快感を楽しんでいたことを告白しておこう。
 ところが、講義をすませて部屋にもどって一息ついたところに、ドアをノックして入って来た一人の学生があった。ひきしまった美しい顔立ちは、鋭い知性と野性的な要素の奇妙な混合と見えた。「私はパレスチナ人です。私はあの言葉の原典での意味を知っていました。クラスの中のユダヤ人たちも知っていたと思います。しかし、彼らは何も言えなかったのです。あなたは、イスラエル軍がレバノン国内のパレスチナ難民に対して行なっていることをどうお考えですか。その難民で生れ育ったパレスチナ人の若者が、思いつめた挙句に、決死の反撃をイスラエルに与えるたびに、イスラエル軍が、どのような残忍さでパレスチナ難民におそいかかるか、あなたはご存じですか?」私は当惑した。この青年は、旧約に記されている意味に違反した目には目を、歯には歯を、を実行しているのは、まさにイスラエルではないか、と私に言わせたいのだ。しかし、パレスチナ問題について、はっきりした判断を下すだけの見識を私は持ちあわせていない。それを口実にして、私は、とうとう言葉を濁してその青年の期待にそわなかった。しかし、彼は、失望の色も見せず、また話しに来ると言って、立ち去った。
 それからしばらくして、その青年はまた私の部屋にやって来た。エドモントンのパレスチナ人の集会で、日本人のパレスチナ問題観について話をしてくれ、という。私はあらためて、自分の無知を述べ辞退しようとしたが、「イスラエル側は世界中に強力な情宣組織を持ち、多額の資金を費やして活動しているが、パレスチナ側はまるでみじめな状態にある。あなたがわれわれの会合に出席して、その存在を認めてくれるだけでもよい」ということであった。当日、会場に行ってみると、かなりの老人から小学校の子供までとりまぜて40人ほどが集まっていた。心にもない迎合的な話をするよりも、私自身のパレスチナ問題に対する無知をさらけ出した方がましであろうと考えて、およそ次のような話をした。「私は、終戦後アンネ・フランクの日記を読んで感激し、1964年に初めてアムステルダムを訪れる機会ができた時に、まずアンネ・フランクの家を訪れた。その後もう一度ひとりで訪れたが、三度目に家内を連れてアンネの家を見物した時、イスラエルはこの家を国家的な情宣活動の重要拠点として利用しているのではないか、という疑念が私の心をかすめた。アンネがいま生きていたら、イスラエル軍がパレスチナ難民に対して行なっていることに、おそらく、まゆをひそめるのではあるまいか。・・・」。
 わたしの話に対する貧しい拍手が終わるのも待たずに、一人の大柄の男が立ち上がって、声を荒立てて私に食ってかかった。「三度目になって、やっとアンネの家のカラクリに気がつくなんて、あんたの間抜けさ加減にはあいた口がふさがらない。イスラエル側の宣伝にまんまと乗せられる、あんたのような人間ばかりだから、われわれの苦難が果てしもなく続くのだ。ミスター・フジナガ、あんたは、パレスチナ人が、これまでどんな苦しみを受けてきたか、具体的にどれだけ知っているか? 知っていることがあったら、いま、われわれの前で言ってみてくれ!」私は、その大男の見幕の激しさに圧倒されて、言葉もつげずに立ち往生してしまった。
 その時、壁に近い後部席で、一人の女性が静かに立ち上がった。50歳前後の質素な身なりの女性であった。「自分たちだけが、ひどい苦難に遭ったかのように、他の人々に押しつけるのはやめようではありませんか。日本人が『われわれこそ原爆の火で一瞬に数万人を惨殺された唯一の民族だ』と言い返してきたら、私たちは何と答えたらよいのですか。失われたひとつひとつの命の尊さは、それがアウシュヴィッツであっても、ヒロシマであっても、イスラエル空軍の銃爆撃を浴びるパレスチナ難民であっても同じです。われわれこそが一番苦しんできたのだ、とは決して言ってはならないのです」。 その時の感動は、今も、私の胸に新しい。■
このやや稚拙な文章を書いてから、また三十余年が流れましたが、この女性の言葉は私の中でその重みを増すばかりです。
 2月後半から3月にかけて、東京都内の図書館や書店で「アンネの日記」やそれに関連する図書三百冊以上が破られた事件が国内外で波紋を呼びました。私もその報道を追い、アンネ・フランクに関係するWikipedia の記事などを読み漁りました。そこで出会った事件の多くについては、おぼろげながら、私の記憶にも余韻が残っていましたが、一つだけ、私の記憶にははっきりと残っている事柄で、それについての議論の記録が見当たらなかったことがあります。それは「アンネの日記」の文章の中で強い感銘を受けた個所の一つで、上掲の英訳本では233頁にある次の文章についてです。:
■ It’s really a wonder that I haven’t dropped all my ideals, because they seem so absurd and impossible to carry out. Yet I keep them, because in spite of everything I still believe that people are really good at heart. (私の理想のすべてはまるで馬鹿げていて成し遂げるのは不可能と思えるのに、私がそれらを捨ててしまっていないのはとても不思議なことだ。でもやっぱり私は理想を抱き続ける。何故なら、いろいろな事があったけれど、私は、今もなお、誰しも心の奥底では善人なのだと信じているからだ。)■
この13歳の少女の絶望の深さと、それにも拘らず、人間への信頼を持ち続けようとする健気さ、それは今の私にとって貴重な励ましです。ところが、私の記憶に誤りはないと信じますが、ひと頃、アンネ・フランクのことが芝居になり、映画化された時、“people are really good at heart”は甘すぎる、その“people”に一部のドイツ人は含まれるべきではない、といった意見が表明されたことがありました。言ってみれば、これは絶対悪の問題です。そして、さらにその奥には、ナチ・ホロコーストが他との比較を許さない絶対悪であるという主張が含まれていました。「アンネの日記」について、我々がみんなで考えなければいけない問題の一つがここにあります。識者の発言を期待します。
 四十余年前に、講演の壇上で立ち往生した私を救ってくれたパレスチナ人のおばさんはもう亡くなったことでしょうが、パレスチナ人の苦難は、あの頃よりもなお悲劇性を増して、今もなお続いています。あの静かな佇まいの女性は「ナチスがユダヤ人にしたこともユダヤ人がパレスチナ人にしていることも、同じように悪い」とはっきり言いながらも、アンネと同じように、人間への信頼を持ち続けて死んで行ったように思えて仕方がありません。

藤永 茂 (2014年3月19日)