私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

Win-Winの賭け事?

2011-05-25 13:43:28 | インポート
 ウイン・ウインという言葉は、「ランダムハウス」では、“形容詞:《米行政俗》(政策などが)どこからも非難されようのない、無難な、安全な;(交渉などで)双方とも満足のいく”と出ていますから、「どちらに転んでも勝ちになるような賭け事」という意味のつもりのタイトルは間違いでしょうが、このまま話を進めます。
 オバマ大統領は5月19日に中東政策に関して四十数分間彼一流の名文句たっぷりの講演を行い、パレスチナとイスラエルの和平交渉について「(イスラエルが占領地を拡大した)1967年の第3次中東戦争以前の境界線に基づくべきだ」と述べて、イスラエルに占領地からの撤退を求める意志を表明しました。これはオバマ大統領がパレスチナ人側の苦衷に理解を示し、これまでの米国の対イスラエル政策を変更する英断であるとして、日本では高く評価されました。20日、この“ビッグ”ニュースがテレビや新聞で大きく報道された時、私は直ちに賭けをしたのです。「オバマ大統領の講演で撤退が実現することは絶対にない」という賭けです。この予言が外れたら、私の負けですが、パレスチナ人たちの苦難が終る目処が立つだけでも大変喜ばしく、大きな祝祭に値します。そうなれば、私の予言の当り外れなど、どうでもよい事になります。しかし、私が賭けに勝った場合にも,何か良いことがあり得るか? 一つの条件が満たされれば、それはあり得ると私は考えます。オバマ大統領の名演説に感動した人々が、今度のオバマ発言の字句内容をしっかりと記憶に刻み付けて、これから起ることの観察を続ける、というのがその条件です。では人々がしっかり眼を開いて観察を続ければ何が見えてくるか? それはオバマ大統領その人です。この人物が見えてない人々が多すぎます。このブログを時々覗いて下さる方々にも、ここで披瀝されているオバマ観が度を過ごして否定的で、バランスの取れた良識に欠けると考えておられる向きが多いようです。世のアメリカ通のオバマ論評を信頼する限り、オバマは見えてきません。ではどうすれば真実が見えてくるか。それは自分自身で、動かない事実の数々をピックアップして、それを並べてみることです。今度のオバマ大統領の中東政策講演はその良い演習問題を提供しています。5月19日、オバマ大統領は1967年の第3次中東戦争で占領した地域からの撤退をイスラエルに要求しました。これが出発点、第一の事実です。翌5月20日、オバマ大統領はホワイトハウスでイスラエルのネタニヤフ首相と会談、ネタニヤフ首相は撤退の要求を即座に拒絶、これが第二の事実です。三番目の観測時点は5月22日にオバマ大統領がワシントンの甚大な影響力で知られるイスラエル系ロビー団体「AIPAC」の集会に出かけて行って行なった講演で、その中でオバマ大統領は「パレスチナとイスラエルの和平交渉は1967年の第3次中東戦争以前の境界線に基づいて出発すべきだが、現在の現地の人口動態的現実に従って、交渉を通じて、お互いに合意の上で土地の交換をして、開戦前の国境とは異なる国境で合意すればよい」とAIPAC メンバーに告げました。くだいて言えば、「まあパレスチナ側と話し合ってイスラエルのお好きなように国境をお決めになったらいいのですよ」というメッセージに限りなく近いのです。“the new demographic realities on the ground”とか“with mutually agreed swaps”というオバマ大統領の言葉が、イスラエル側には全くスイートなものであり、パレスチナ側には如何に絶望的なものであるか、これは、AIPACでのオバマ大統領の発言内容をごく簡潔にしか伝えない短い新聞記事から読み取るのは至難の業ですが。続いて5月24日、ネタニヤフ首相は米国国会に招かれて、占領地に建設したイスラエル人入植地からは絶対に撤退しないことなどを明言して議員たちの起立拍手喝采を浴びました。オバマ大統領はこれまで少なくとも新しい入植者住宅の建設は中止すべきだと言い続けてきたのですが、5月19日の講演の直前にも千数百戸の新しい入植者住宅の建設をイスラエル政府は認可しました。この5日間の事態の展開を見て、オバマ大統領がネタニヤフ首相にすっかり嘗められていると取るか、展開の全構図がオバマ大統領も先刻ご承知の仕組まれたシャレードと考えるか。
 上の5月19日,20日,22日、24日の四つの観測時点を結んで、イスラエルとパレスチナの和平交渉の将来をどう占いますか? ご自分でしっかり判断して下さい。私の判断は冒頭で既に申し上げました。もし目の前の事態に何らかのメリットがあるとすれば、まだオバマ大統領がよく見えていない人々が、自分自身の観察を通じて、今度こそバラク・オバマという政治家をはっきりと見据える絶好のチャンスを与えているということです。
 このブログの2011年4月4日の記事で、アミリ・バラカ(旧姓リロイ・ジョーンズ)が遂にオバマ大統領を見限ったことを報告しました。彼は1934年の生まれで76歳、詩人、作家、ジャズなどの音楽評論家、それにラジカルな黒人思想家、運動家として、アメリカでは有名な人物です。これまでオバマ大統領を熱心に支持してきました。今またアメリカの言論界を賑わしているのは、同じくオバマ大統領の支持者として知られた高名な黒人思想家であるコーネル・ウェストもまた公然と反旗を翻したことです。ウェストはプリンストン大学教授、同じく同大学の黒人女性教授メリサ・ハリス-ペリー(Melissa Harris?Perry)が古くから進歩的雑誌と見なされてきた『Nation』に一文を投じて、ウェストの寝返りを言葉きびしく非難しました。これでオバマ大統領を見限るか支持するかで黒人エリート知識層はますます混乱し、いわば壊滅状態になりつつあります。皆さんのオバマ大統領の評価にもそろそろ再検討の必要が迫っているのではありますまいか?
 私自身は早くからオバマ氏を言葉巧みなコン・アーティストと見る立場を取ってきました。このブログの新しい読者のご参考までに、2009年11月11日付けの記事を以下に転載します。:
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オバマ大統領、医療保険制度、ホンジュラス、コロンビア
 ・・・・・・・・・・・・・・・。 体力が落ちて、まともな記事を書くことが出来ませんが、オバマ大統領が来日したときの日本人一般の歓迎ぶりを想像すると、吐き気が催してきます。彼が稀代の「コンフィデンス・マン」、コン・マンであるという、私の信念は揺らぐどころか、ますます強くなっています。_ そこで、アメリカ専門のしっかりした学者の方々に、是非、お願いしたいことがあります。最大の国内問題である医療保険制度は間もなく大統領が法案に署名することになりますが、これまでに至る経過を、選挙戦以前の時点から今日にわたって、詳細に辿って、それを一般の日本人に分かりやすく記述し、説明して頂きたいのです。アメリカの医療保険制度について、アメリカの大多数、特に低収入階層の人々が求めた「単一支払い者制度(single-payer system)」、つまり日本やカナダや英国の制度に似た医療保険制度の政府一元化を、2006年の一時点でオバマその人も支持すると(選挙の票集めのために)明言していたのですが、大統領就任確定の頃から、単一支払い者制度を主張する声を、一貫して閉め出そうとした過程、関係閣僚の人事、議会でのノラリクラリ作戦、・・・、こうしたことを、くわしく辿ってほしいのです。その後ろに一貫して見えるのは、オバマ政権の医療保険業界との密接な関係です。アメリカでは、保険会社から医療費支払いを断られて死ぬ人が一日平均約百人は居ると考えられています。また、個人の破産の人数では医療保険に加入していないために高額の医療費を支払うことを強いられての破産が最高です。今度、オバマ政権の「チェンジ」の成功例として、大いに宣伝されるにちがいない新しい医療保険制度の本質は、医療保険業界側の、僅かばかりの、計算づくの譲歩に過ぎないと、私は考えます。これまでの制度の恐るべき欠陥から生じた死者や破産者の数が少しは減るでしょう。しかし、これまで酷い犠牲を強いられてきた低所得者層の不満は、決して解消しないと思います。それは、1年か2年のうちにはっきりするでしょう。ただ、私がここで問題としているのは、新しい医療保険制度の内容や効果そのものではありません。それが法案として長い時間をかけて審議され、署名されるまでのオバマ・チームの巧妙なノラリクラリ作戦の方に注目してほしいのです。結局のところ、オバマ政権が、当初から狙っていたものを見事に手に入れた、そのやり方です。私が、オバマ・チームを、稀代のコン・マン・チーム、詐欺師集団と呼ぶ理由はそこにあります。始めは、いつもなかなか良いことを言うのです。しかし、本当に達成したいことは別に決めているのです。_ ホンジュラスについても全く同じです。いや、オバマ政権のラテン・アメリカ政策についても、というべきでしょう。予期したとおり、アメリカはみごとにセラヤ大統領を失脚させることに成功しました。はじめオバマ・チームは、「武力で現大統領を追い出すなんて、そんな乱暴は許されない」などと、まことしやかなことを言っていたのです。専門の学者先生の方々に、ことの始まりから終わりまでの、オバマ・チームの狡猾極まるノラリクラリぶりを、われわれ日本の大衆のために、白日のもとに晒してくださるようお願いしたいのです。左翼的見解/右翼的見解といったことに関係ありません。事実を並べて、整理して下さればよいのです。コロンビアについても同じです。この国はいつの間にかアメリカの軍事的属領になってしまったようです。_ オバマ大統領の世界非核化宣言も、「広島、長崎を訪れることを名誉に思うだって、なかなか良いこと言うじゃない!」と日本人をうならせる始めのステージにあります。しかし、ヒロシマ・ナガサキといえば、パールハーバーと返してくるアメリカの心から、非核、反核の一体なにが期待できるでしょうか。私は、広島、長崎の人々、日本人全体が、この史上稀に見る大コン・マンに信頼(コンフィデンス)を置いて、後になってから、「ああ、やられた」と後悔することがないように、祈ってやみません。
藤永 茂 (2009年11月11日)
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 上のブログに書いたことを今読み返して、訂正しなければと思う事は何もありません。危惧を募らせている事柄は多々あります。その一例は、日本のテレビや新聞雑誌にしきりに見られるアメリカの医療保険会社の物凄い売り込み作戦です。オバマ大統領をすっかり丸め込んだ巨大業界ですから。いざとなるとなかなか払いが渋いのです。いつの日か日本でも大やけどをする人が出ないといいのですが。

藤永 茂 (2011年5月25日)



ダニエル・バレンボイムの声

2011-05-18 10:27:06 | 日記・エッセイ・コラム
 ビンラディンの死の影におおわれて見えなくなってしまったリビアのことでお伝えしたい事が沢山あるのですが、たまたま覗いてみたNorman Finkelstein のHPで、思いがけなくバレンボイムの心まことに和む声に接して、みなさんにも紹介したくなりました。

http://www.normanfinkelstein.com/a-toast-to-mr-barenboim/

とても良いインタビュー記事なので、全原文を下に掲げます。
 バレンボイムは、古典音楽愛好家ならば誰でも知っている名前ですし、2003年にはシカゴ交響楽団を連れて来日していますから、彼の指揮ぶりをご覧になった方々も多いでしょう。ピアニスト、指揮者として立派な音楽家です。ユダヤ人のバレンボイムはパレスチナ人のエドワード・サイードと肝胆相照らす親しい間柄でした。エルサレム生まれのサイード(1935年~2003年)は『オリエンタリズム』や『文化と帝国主義』の本で日本でも広く知られていると思います。アメリカに渡ってプリンストン大学に学び、博士号はハーバードで取得し、コロンビア大学で英文学と比較文学の教授の位置にありましたが、2003年9月25日、白血病で63年の生涯を閉じました。晩年は特にパレスチナ問題について人間的良心と知性に基づいた発言を勇敢に続けて、多くの友人と多くの敵を作りました。私が彼から与えられた宿題(もちろん個人的にではありません)を、私はまだ抱え込んだままです。コンラッドの小説『闇の奥』の勉強をしているうちに、サイードがコンラッドに強い関心を持ち、小説家として高く評価していることを知りました。コンラッドの『闇の奥』の思想的な内容について既にネガティブな評価を心の中で暖めていた私は、いささか意外でもあり失望もしたのですが、サイードに対する私の尊敬の念は強いものでしたから、特に文学の理解という点では、もしサイードがコンラッドを高く評価しているのなら、低い点しか与えない私の判断に間違いがあると考えざるを得ませんでした。つまり、私にはコンラッドの文学が読めていないということです。未だに小説家としてのコンラッドの偉大さが分からないという意味で、サイードから出された宿題を私はまだ済ませていません。
 バレンボイムにも私はずっと以前から好意を持っていますが、バレンボイムとサイードの共著『Parallels and Paradoxes』(Vantage, 2004)を読んでなおさら二人が好きになりました。おまけに、「追悼:エドワード・サイード」と題するバレンボイムの文章が付いていて、これが何と2003年10月29日に私の住む福岡で書かれているのです。丁度、福岡でバレンボイムの率いるシカゴ交響楽団の演奏が夕方7時から行なわれた日でした。4頁の文章ですが、これだけでもこの本の値段(約千円)の半分の値打ちはあります。
 それによると、サイードの死の三ヶ月前、彼の要請でバレンボイムはバッハの平均率クラヴィア曲集から第1巻第8番の変ホ短調前奏曲をニューヨークのサイードの自宅で弾きました。サイード自身、プロ並みにピアノが弾け、グレン・グールドの熱烈なファンであったそうです。彼の忌日9月25日はグールドの誕生の日です。ここ数日、この変ホ短調前奏曲をグールド、リヒテル、アンドラス・シッフ、フリードリッヒ・グルダの演奏で繰り返し聴いています。リヒテルに最も惹かれますが、グールドから聞こえてくるのがピュアなバッハかも、と思う瞬間もあります。私のような者が、平均率曲集の中の曲の品定めをしても意味はありませが、この変ホ短調前奏曲はとりわけ胸の奥までしみわたる音楽です。福岡でこの文章を書いたバレンボイムの胸の中でもこの音楽が鎮魂の曲として鳴っていたに違いありません。
 インタービューの中で、バレンボイムが最も驚かされたのは、大きな野外監獄といわれるカザ地区に12もの大学が運営されていて,150万の人口の85%は30歳以下の若さであり、ガザは知識欲に燃える若者たちで溢れていた事だとバレンボイムは言っています。 ドイツに住み、昔からパレスチナの事に強い関心を持っているバレンボイムでさえ、この事実を知らなかったのですから、今の仰々しいマスコミが私たちに与えている情報が如何に偏向したものであるかが分かります。バレンボイムはこの若者たちにこそパレスチナの未来があると考えます。「いまから10年たてば、この、極めて豊かな知識を持ち高い教養を身につけた世代が多数派になる」と下にある通りです。
 私たちもガザのこと、パレスチナ人たちのことをもっと良く知らなければなりません。今回の大震災慰問の使者としてズービン・メータの訪日があれだけ盛んに報道され、感謝された一方で、バレンボイムのガザでの演奏会のニュースが事実上無視される理由にも思いを致さなければなりません。
 ちなみに、英語を読むのが苦にならない方は、この演奏会のことを詳しく報じたニューヨークタイムズの記事も読んでみて下さい。

http://www.nytimes.com/2011/05/05/arts/music/daniel-barenboim-the-israeli-conductor-in-gaza.html?pagewanted=1&_r=1/

イスラエルの新聞「ポスト」に答えたバレンボイムの言葉とNYTの記事の間の温度差というか語り口の違いというか、実に興味津々です。NYTの記事には稀釈されたヒ素のような毒が含まれています。バレンボイムを驚かせ、嬉しがらせた、パレスチナの若者たちの知的な質の高さなどについてはNYTの記事からは何も感じ取る事ができません。総人口150万、東京都の半分ほどの広さのガザ地区に12もある大学とは、特定の政治的イデオロギーや愛国心教育ではなく、学問らしい学問を若者たちに教えようとする大人たちの熱意と、学問らしい学問を学びたいと思う若者たちの向学心が一緒になって出来上がった、いわば,寺子屋的な大学なのであろう,というのが私の想像です。

A toast to Mr Barenboim (バレンボイムさんを讃えて乾杯を)

Barenboim: It's worth having a dialogue with Gazans
05.06.2011
Famed Argentinean-Israeli conductor tells ‘Post’ about his recent, unprecedented UN-sponsored concert in the Gaza Strip.

Argentinean-Israeli conductor Daniel Barenboim, together with 26 European musicians, gave a concert in Gaza last Tuesday, entering the Strip from Egypt, and returned to his home in Berlin at the same night.

The unprecedented concert, arranged by the United Nations, featured his so-called ‘Orchestra for Gaza’ playing Mozart’s Eine Kleine Nachtmusik and 40th Symphony to an audience of several hundred in Gaza City. Speaking at the event, Barenboim expressed support for the justness of the Palestinian cause, but said it could only be weakened by the use of violence , sentiments he repeated in an interview with The Jerusalem Post.

Barenboim, 68, has been an outspoken critic of successive Israeli governments policies regarding the Palestinians, and accepted honorary Palestinian citizenship after playing a concert in Ramallah three years ago. He spoke to the Post by telephone from Germany soon after his return from Gaza.

Excerpts:

Why did you go to Gaza to play?

I’ve wanted to go to Gaza for a long time. I have had quite a lot of experience with music education in the West Bank. I was in Ramallah, in Jenin, in Nablus, and of course in Jerusalem. Gaza has always fascinated me because of the curiosity of the situation: it is a part of Palestinian territory and yet it is separated. And I always was very unhappy about the blockade, because I don’t believe that anybody has the right to distribute collective guilt.
But I’m not a political personality, so I wanted to see whether I could go to Gaza and de-politicize all the discussion. And I’m very happy that I succeeded. I was invited by the United Nations and a Palestinian NGO in Gaza. I did not have any contacts with any politicians. I really came to play music for the people of Gaza. They deserve a gesture of solidarity for the conditions of life they have had for quite a long time now.

I was amazed, because I found a civil society which is very much awake and very well informed. I also found a great contrast between the number of unfinished buildings on one hand - because the cement which is required was not allowed to get through - and the fact that Gaza, with its one and a half million people, 85% of whom are under 30, has 12 universities.

I met children, pupils of the music conservatory in Gaza, and I met many young people from these universities and I thought this is the future -- they will influence the future of Palestine and the future of Israel. These are people who are so thirsty for knowledge, for the study of everything that has to do with history and human culture. Ten years from now, the young generation will be the majority, extremely well informed and extremely cultured. And these are the people that [we] will need to deal with.

There is something that I find very short sighted among a lot of politicians in the Israeli government at the moment. It immediately reacted negatively to the awakening of the young people of Egypt, and it reacted negatively to the reconciliation of Fatah and Hamas. When you take a new step, a step in a new direction, everything can go wrong [at first]. I’m very well aware of that. But you have to salute that something new and positive is happening. If you think about how you can live with it, you actually increase the chances that it will not go bad, it will go good. For Israel it is much better to have the Palestinians speak in one voice, not with two faces.

Who was in the audience?

Ordinary people -- many young people, children, young people with children.

What was the concert program?

It was influenced solely by practical considerations. A smallish orchestra -- 26 musicians. Not a huge place -- the Archeological Museum. And a small stage. So we played two works by Mozart.

How did the musicians react when you invited them?

With the utmost enthusiasm. Not one of them said, “Oh I don’t know, I have to think of it.” All said they were ready to come, obviously without being paid and these are top musicians, members of Berlin Staatskapelle, Berlin Philharmonic, the Vienna Philharmonic, Orchestre de Paris and La Scala. Five top European orchestras. Mine was a message of solidarity with the civil society, not a political gesture. And it was not only mine. It was an all-European message, which was a part of a UN mission. I was a messenger of peace of the secretary-general of the UN.

What expectations do you have of the outcome of this concert?

I hope that music activity will grow in Gaza. I hope that I will be able to go there again and give more concerts. I hope there will be a revival of interest in classical European music in Gaza. For now I see that the civil society in Gaza understood that there are many people in the world who care about them and think about them.

And from Israel?

I don’t know how well informed they are. I, for example, was not aware of the 12 universities. I did not know that there is such a thirst for knowledge. So maybe this will bring some people in Israel to think that this is a people worth having a dialogue with. Again, I’m speaking on the civil level and not the political level. I was not on a political mission and therefore I do not expect any political results.

The Palestinians have a right to a state of their own and to self-determination. We have to [allow] them to understand that we realize that our conflict is not a political conflict between two nations, which fight about borders or water, but it is a conflict between two peoples, which are convinced that they have a right to live in the same small piece of earth. Our destinies are inextricably linked.

I told the Palestinians in Gaza that I believe that the ambition of the Palestinian people to have the right to self-determination and an independent state is a very just cause. But in order for the just cause to be realized, it must avoid any kind of violence. Because the use of violence for the just cause only weakens it.

Can musical education change the social situation in this region? In Gaza and Israel?

Yes, I hope so. Look at Venezuela, where music education changed the lives of hundreds of thousands of young people, who are now having a normal life. Music also enriches lives. The reason that music is not widespread anymore is not because it is made for the few. It is made for everybody. But we simply do not take enough care of music education for children and young people. If we did, many more people would be active in music and there would be more listeners too.

藤永 茂 (2011年5月18日)



オサマ・ビン・ラディンの死

2011-05-11 13:58:34 | 日記・エッセイ・コラム
 オサマ・ビン・ラディンが「ジェロニモ作戦」と名付けられたCIA主導の殺害作戦によって殺されたというニューズで、アメリカ全土に歓声が沸き上がりました。ホワイトハウスの前とニューヨークのタイムズスクェアで無数の若者たちが“USA! USA! USA!” と叫んで熱狂する様子に目を凝らしながら、アメリカという国の恐ろしさに肝が凍てつく思いがしました。さらに、オバマ大統領の声明(長さ約9分)を聞き、その全原文を読んだのですが、アメリカこそが地上最大のTERRORであることを確認せざるを得ませんでした。アメリカ好きの日本人には二つの種類があると思います。第一のグループは、自分の利害とアメリカの利害とが一致していて、それを意識している人たち、第二のグループは、個人的利害とは関係なく、ただ何とはなしにアメリカに親しみを持つ、あるいはアメリカが格好よく見える人たちです。個人的に親しい良きアメリカ人がいる場合も多いでしょう。第一のグループの人たちは、いわば確信犯ですから、どうしようもありません。しかし、第二のグループの人たちには、個人的なレベルではなく、今や絶対的な強大さを誇るアメリカという国家、人間集団としてのアメリカ人をしっかりと見据えて頂きたいと思います。私たちはアメリカの歴史を余りにも知らなさ過ぎます。
 まずオバマ大統領の声明の最後のところを読んでみましょう。

#America can do whatever we set our mind to. That is the story of our history, whether it’s the pursuit of prosperity for our people, or the struggle for equality for all our citizens; our commitment to stand up for our values abroad, and our sacrifices to make the world a safer place. Let us remember that we can do these things not just because of wealth or power, but because of who we are: one nation, under God, indivisible, with liberty and justice for all.#
<翻訳>アメリカはやろうと心に決めたことはそれが何であろうと必ず成し遂げる。これこそが我が歴史のストーリー、それが我が国民のための繁栄の追求であれ、我が全市民の平等のための闘争であれ,ストーリーは同じだ。国外でも、我々が掲げる価値のために献身的に立ち上がり、世界をより安全な場所とするために犠牲を払う。よく覚えておくようにしよう、これらのことを実行することが出来るのは、ただ我々の富と力の故ではなく、我々が、神のもと、すべての人間の自由と公平を求める不可分一体の国家を成しているからなのだ。(終り)

 これは、2012年を意識した、実に,実に見事な選挙演説です。嘘だと思ったら、ぜひ講演の全文を読んで下さい。例のオバマ節に充ち満ちています。ブッシュ政権の戦争一本槍の政策に反対していた筈のオバマ大統領候補は、今回のビン・ラディン殺害声明の中ほどで、大統領就任直後に、CIA長官にビン・ラディンを殺害または逮捕するよう指令したと自慢しています。実は、2007年7月、すでに大統領の座に照準を合わせた彼がビン・ラディンについて次のような発言をしているのです。:

# The first thing I’d support is his capture, which is something this administration has proved incapable of achieving. I would then, as president, order a trial that observed international standards of due process. At that point, do I think that somebody who killed 3,000 Americans qualifies as someone who has perpetrated heinous crime, and would qualify for the death penalty.#
<翻訳>まず第一に事を進めたいのは彼の逮捕であり、これがブッシュ政権には出来ないことがはっきりしてしまった。次にやることは、私が大統領なら、然るべき手順の国際的基準に従った裁判を命令することだ。それに就いて、私は、三千人のアメリカ人を殺した者は極悪非道の罪を犯した人間として死刑に値するものと確かに考える。(終り)

 今回の殺害事件の詳細な真相は永久に闇の中に没したままでしょう。しかし、オサマ・ビン・ラディンとその妻が銃器を携えていなかったことは確かと思われます。逮捕は可能であった筈ですが、今さら稀代のコンマン大統領の前言をとやかく言っても何の意味もありますまい。しかし、声明の始めからすぐの所にある、いかにもオバマらしい「お涙頂戴」の科白だけは、どうしても許すことは出来ません。:

#And yet we know that the worst images are those that were unseen to the world. The empty seat at the dinner table. Children who were forced to grow up without their mother or their father. Parents who would never know the feeling of their child’s embrace. Nearly 3,000 citizens taken from us, leaving a gaping hole in our hearts.#
<翻訳>だがしかし、9/11にまつわる最悪のイメージは、世界の誰の目にも見えなかったものだ。夕餉の食卓の空いた席。母も父もなく育つことを強いられた子供たち。子供たちから抱きしめられる情感を決して知ることのない親たち。我々から奪い去られた三千人に近い市民たち、それは我々の胸にぽっかりと大きな穴を残している。(終り)

 アメリカ歴代の大統領の誰一人として、このような科白を口にするのを許される者はいません。9/11以後に限るとしても、何万,何十万の家族が、アメリカの不法軍事侵略行為によって、無残に殺戮破壊されています。田舎の婚礼式場が遠隔操縦による無人の暗殺ロボット機の空からのミサイル攻撃の標的になり、老若男女数十人が犠牲になったこともありました。その中にタリバンが居たか居なかったか、そんな事は最早問題ではありません。無人の暗殺ロボット機の使用は“アメリカン・ボーイズ”の命を失わないためにオバマ大統領が特に力を入れている政策です。
 はじめに引用したオバマ大統領の言葉に戻ります。「アメリカがやると決めたことは必ずやる」とあります。この豪語を真に受けることにすると、アメリカの歴史に照らせば、独立宣言や憲法で唱い上げた“liberty and justice for all”の約束は、もともと、やる気のなかった嘘の約束であったと結論せざるをえません。米国史上最高の名演説として知られるマーチン・ルーサー・キング牧師の『私には夢がある』の本当のメッセージを大多数のアメリカ人も日本人も弁えていません。あの講演の本旨は“I have a dream”の名文句が登場する後半部にあるのではなく、自由と平等についてアメリカが200年間も約束に違反していることを抗議した前半にあるのです。キング牧師のあの講演から、また50年が経ちました。アメリカは未だにその約束を果たしていません。この歴史的事実は、もともと、やる気がなかったことをはっきりと示しています。医療保険制度の欠陥の故に、一日二百数十人の貧乏な人たちが亡くなっている国(米国看護士協会の正式の数字です)で、何が“liberty and justice for all”でしょう。
 オサマ・ビン・ラディンの殺害はオペレーション・ジェロニモの下、アパッチ・ヘリコプターによる襲撃で達成されました。全米が歓喜に沸き立つ中、アメリカ先住民たちはこれに激しい抗議の声を挙げました。何故だかお分かりですか?

藤永 茂 (2011年5月11日)



ものを考える一兵卒(a soldier of ideas)(2)

2011-05-04 10:40:24 | 日記・エッセイ・コラム
 学園紛争の最中の1968年、私はカナダに移住しましたが、その年カナダではモントリオール大学の法学部準教授であったピエール・トゥルードー(Pierre Trudeau)が政治の舞台に華々しく登場して時代の寵児となり、若者の間でトゥルードーマニアとよばれる社会現象が起りました。マニア現象として、勿論、オバママニアと相通じる馬鹿馬鹿しい面はありましたが、眼に見えて高度の知的能力を持つ政治家として、オバマにつきまとうコン・アーティストの影はトゥルードーには全くありませんでした。管首相が「不幸を最小にする」というモットーを掲げた時、私はすぐトゥルードーを思い出しました。トゥルードーが掲げた目標は「Just Society」の実現でした。大袈裟に「正義の社会」などと訳しては少し意味がずれます。「公平な社会」あるいは「まじめにやっている人間がひどい目にあわない社会」といった感じでしょう。「不幸を最小にする」ということからも遠くありません。実際、トゥルードーはこの線に沿う幾つもの法律を制定し政策を実行しました。マイケル・ムーアがオーバーに褒め上げたカナダの医療保険制度をカナダ全土にわたる制度として確立したのもトゥルードーです。
 1969年12月下旬、ジョン・レノンと奥さんのヨーコが彼らの『世界平和の旅』の道すがら、カナダの首都オタワにやってきて、トゥルードーと面会することになりました。はじめは10分ほどの予定だったのですが、結局ジョンとヨーコの二人は50分間も一国の元首トゥルードーと歓談したのでした。ジョン・レノンは“Trudeau is a beautiful person. If all politicians were like Pierre Trudeau, there would be world peace.”という言葉を残しました。
 1976年1月26日から3日間、トゥルードーはキューバを公式訪問しました。当時、世界は東と西の陣営に分かれ、カストロとトゥルードーは帰属を異にしていたのですが、最後の日、大群衆に囲まれた屋外のステージにカストロと並んで立ったトゥルードーは立派なスペイン語で "Long live Cuba and the Cuban people! Long live Prime Minister Fidel Castro! Long live Cuban-Canadian friendship!" と言い放ったのです。勇気のいる発言でした。(YouTubeの Viva Cuba: Fidel Castro and Pierre Trudeau で 視聴できます。)二人の間の,政治的でない、人間としての真の友情はこうして始まりました。政界から引退後、トゥルードーは何度もキューバを訪れました。2000年10月2日、モントリオールで行なわれたトゥルードーの葬儀では74歳のカストロは柩を肩でかつぐ運び手に加わりました。
 バーバラ・ウォーターズ(1929年生)といえば、アメリカのTVジャーナリズムの歴史的な大姐御といった存在で、インターヴューした世界の有名人のリストは目を見張るものがあります。1977年6月、彼女はキューバに行ってカストロに会いました。インターヴューの様子は,適当に編集されてABCテレビで放映されたのですが、編集する前の完全なテキストが『Seven Days』という月2回発行の雑誌に(1977年12月)掲載されました。前年1976年のカストロ/トゥルードーの組み合わせと同じくらいカストロ/ウォーターズの組み合わせは注目に値したものでしたし、実際に放映されたプログラムの印象は自由陣営の女性論客の代表が共産主義独裁政治家に鋭く迫るという印象を与えるように編集潤色されていたことを問題にした『Seven Days』の編集者Dave Dellinger (この名前も私の年代の人間にはとても懐かしいはずです)が、わざわざインターヴューの完全テキストを世に出したのでした。そこには、なんとも形容し難い魅力に満ちたカストロの声が鳴り響いていました。その魅力がタフなインターヴュアーであったはずのウォーターズを虜にしてしまった様子さえ読み取れる内容でした。事実、アメリカ国内ではウォーターズはカストロに丸め込まれたという非難が次第に浮上することになりました。この会見から25年後の2002年10月、彼女は再びカストロを訪れます。その時の様子はYouTube 上で見ることが出来ます。彼女はしきりにカストロの弱みに鋭く切り込む振りを見せますが、この二人の間に一種の親愛の情が飛び交っているのを感じるのは難しくありません。カストロというのはそんな不思議な人物なのでしょう。
 私の次のカストロ体験は田中三郎著『フィデル・カストロ「世界の無限の悲惨を背負う人」』という驚くべき本を読んだことでした。私が常々敬愛する一友人の勧めで読んだこの本については以前にも書いたことがあります。著者は3年3ヶ月(1996年11月末~2000年3月)キューバ大使を務め、その間、数十回、カストロと言葉を交わし、日本帰国後3年を費やして、この文字通りの聖人伝(hagiography)をしたためました。ハギアグラフィという言葉は,今はネガティブな意味で使われるのが普通です。伝記の対象をひたすら褒め上げる執筆行為の裏に卑しい打算が張りついていることがよくあるからです。しかし、田中三郎さんの場合、そうした計算の影は微塵もありません。末尾は
「キューバを離れた今も、フィデル・カストロをはじめとする心優しく、偉大なキューバの人々に接することのできた貴重なキューバの日々に対して、深い感謝の気持ちを抱いている。そして、フィデル・カストロは、ホセ・マルティについて「一粒の種がまかれて、大きな樹に育って日々に成長している」と語っているが、フィデル・カストロという一人の崇高な人のまいた種が日々成長し、その思想と毅い精神の流れが脈々と続いていくことを確信している。」
と結ばれています。これを甘過ぎと評することは容易です。アメリカ人ならば「He is smitten by Castro 」と笑うでしょう。しかし、カストロと出会ってすっかり参ってしまった人の数が多すぎるとは思いませんか? ミルズ、トゥルードー、ウォーターズ、田中三郎、・・・・。私はさらにイニャシオ・ラモネ(Ignacio Ramonet)の名を加えたいと思います。ラモネはフランスのルモンド・ディプロマティック前総編集長で、私が信頼している論客の一人です。2年ほど前、どこかのテレビで彼とフィデル・カストロの対話を視聴しました。たぶんその内容だと思われる本が岩波書店から出ましたが、まだ手に取っていません。2007年のラモネの発言ですが、「カストロ議長をひぼうする立場の人々には悪いが、国際社会のパンテオン(偉人廟)には既にカストロ氏の席が用意されている。社会正義のために戦い、虐げられた人々と連帯した偉人だけがこのパンテオンに招かれる。」
 カストロとカストロのキューバを評価する場合に、見過ごすことの出来ない名前があります。キューバ生まれ、キューバ在住の35歳の女性ブロガー、ヨアニ・サンチェスです。キューバに本格的な関心のある人でこの名前を知らない人はまず居ないでしょう。世界中から膨大なアクセスを誇る彼女のブログ Generación Y (ヘネラシオン・イーグリエガ) は日本語で読めます。数えきれないほどの国際的賞も受賞しています。彼女のカストロ非難、キューバ非難はまことに激烈且つ執拗です。私もこの人とそのブログに興味を持ち続けていますが、2009年の暮れ、ちょっと気の毒なことが起きました。彼女がアメリカとキューバの関係に関する7つの質問をオバマ大統領に送ったところ、その一つ一つに丁寧に答えた大統領からの返書が届けられたのです。内容は彼女のブログで読むことが出来ます。オバマはサンチェスを讃える次のような言葉を贈りました。例のオバマ節が余りにも鼻について翻訳する気になれないので原文のまま掲げておきます。オバマに手放しで褒められたことで私の心の中のサンチェス株の値は急落してしまいました。:
# Your blog provides the world a unique window into the realities of daily life in Cuba. It is telling that the Internet has provided you and other courageous Cuban bloggers with an outlet to express yourself so freely, and I applaud your collective efforts to empower fellow Cubans to express themselves through the use of technology. The government and people of the United States join all of you in looking forward to the day all Cubans can freely express themselves in public without fear and without reprisals. #
さて、いまや世界的セレブとなって大得意のサンチェスさんと、ミルズやトゥルードーやラモネのような、決してナイーブな人間ではないのにカストロが好きになってしまった御仁たちのどちらに信を置くか。それは皆さんの判断に任せましょう。
 最後にまたトゥルードーに戻ります。私が未だに政治家というものの可能性に絶望してしまわないのは、カナダでトゥルードーのやることを至近距離でウォッチ出来たからです。彼はいわゆる「ケベック危機」の際、その去就を問われて、“Just watch me”とマスコミ報道者たちに答えたことで、その傲慢さをひどく叩かれましたが、たしかにウォッチするに値する希有の本物の政治家でした。清廉潔白、正義に徹した君子ではなかったのですが、絶えず真剣に政治家としての思索をつづけ、彼が最善のチョイスと信じるアイディアを実行しました。
 これからも、私の“カストロとのお付き合い”は続きます。私が死ぬまで続くでしょう。いまや「ものを考える一兵卒」となったフィデル・カストロの声に耳を傾け続けるということです。この声が無残な暗殺によって絶えることはもう無さそうですから。

藤永 茂 (2011年5月4日)