私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

コンラッドの「三部作」

2006-05-24 09:43:45 | インポート
 『闇の奥』は当時イギリスで人気の月刊雑誌「マガ」(ブラックウッズ・エディンバラ・マガジン)の1899年2、3、4月号の三回にわけて連載されました。1902年には『青春』、『闇の奥』、『つなぎ縄の端』の三作を一冊の本にまとめて『一つの物語:それと他の二つのストーリー』というタイトルで出版されました。この本の1917年版に付けられた「著者のノート」は大変興味深いものです。それから7年後の1924年コンラッドは66歳8ヶ月の生涯を終えます。「ノート」の冒頭に「この本の三つのストーリーは芸術的に何の統一性もない。同じ頃に書かれたという事で結ばれているだけだ」とあります。次にはコンラッドお気に入りの語り部マーロウについて味のあるコメントが与えられ、三つの作品の解説が続きますが、『つなぎ縄の端』だけはやや継子扱いで「これからもう二度と読むことはあるまい」と結んでいます。1902年頃のコンラッドの手紙にはこの「三部作」の本を“見るのも嫌だ”と書いてあるそうです。
 実は、この三部作のまとめ方がコンラッドにとって不本意なものであったことは専門家の間では周知の事実のようです。彼としては、『つなぎ縄の端』ではなく『ロード・ジム』を入れて、『青春』、『闇の奥』、『ロード・ジム』を三部作として組みたかったのです。1900年5月19日付けのメルドラム(ブラックウッズ社の編集者)宛の手紙に「It (Lord Jim) has not been planned to stand alone. H of D was meant in my mind as a foil, and Youth was supposed to give the note.」とあります。コンラッドにとってこの三作は密接に関連していて芸術的あるいは思想的に一体のものであったようです。『ロード・ジム』執筆中の彼はブラックウッド氏に次のように頼み込んでもいました。(1899年12月26日付け):「Lord Jim would have hardly the length and certainly has not the substance to stand alone; and the three tales, each being inspired by a similar moral idea ( or is it only one of my optical delusions?) will make (in that sense) a homogeneous book.」 
 以前(5月3日)にも引用した1963年出版のヘイ(Eloise Knapp Hay)の『ジョセフ・コンラッドの政治的小説』の中でヘイさんが「どんな意味で『闇の奥』が『ロード・ジム』の引き立て役( a foil )なのか余りよく分からない」と書いているのを読んで、私にはよく分かると思いました。この不遜な思いは 2003年の Conradiana に出た William Nelles の論考『Youth, Heart of Darkness, and Lord Jim: Reading Conrad’s Trilogy』を読んだ後も変わっていません。ただ、数日中にカナダに戻りますので、落ち着いてから議論の続きを書き込むことにします。 
藤永 茂 (2006年5月23日)
      


コメント

小説はまず小説として読むこと

2006-05-17 20:11:08 | 日記・エッセイ・コラム
前回(5月10日)の誤訳のことをまだ考えています。あまりにもアチェベ的に読んで来たので、ついマーロウ/コンラッドに意地の悪い解釈に傾いてしまったことが誤訳を生んだのだと思います。コンラッドが世界の小説家に与えた影響はとても大きなものです。J.H.Stape 編集の『THE CAMBRIDGE COMPANION TO JOSEPH CONRAD』の中のジーン・ムーアの「コンラッドの影響」によくまとめられています。アンドレ・ジード、サマセット・モーム、スコット・フィッゼラルド、エルネスト・ヘミングウェイ、ウィリアム・フォークナー、グラハム・グリーン、マルコム・ローリー、イタロ・カルヴィーノなどなど。ロマン・ギャリー(1914-1980)という不思議な魅力を持った作家がいました。リトアニア生れ、ポーランド育ち、14歳の時フランスへ。外交官としても活躍しましたが、フランスの文学賞ゴンクール賞を初めは実名で、次にはエミール・アジャーという偽名で二度も受賞しました。ルール違反だそうです。映画『史上最大の作戦』の脚本家の一人でもあります。ゴンクール賞受賞第一作『天国の根』はアフリカを舞台にした小説ですが、コンラッドの影響丸見えの作品です。そのギャリーは「彼(コンラッド)が疑いもなくイギリス最大の小説家であることについて彼を未だに許していない」と書いたそうです。またアルゼンチンの大作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスは小説家としてのコンラッドをドストエフスキーより高く買っていたといいます。そうそう、T.S.エリオットの名も忘れる事はできません。
 フォークナーはその小説の読みにくさ分からなさにも係わらず心惹かれる作家です。批評家の解説を読むとコンラッドとの接点も理解出来ます。私としては、フォークナーの『八月の光』にとりわけ親しみを感じて、人間としてのフォークナーにも敬意を抱きたくなりますが、そうした感じをコンラッドに持つ事が出来ません。カミユがフォークナーを敬愛していたのは確かですが、コンラッドについては私と同じような感じを持っていたのではないかと思います。グラハム・グリーンは『In Search of a Character』の中の「コンゴ日記」に「自分にのしかかってきた彼(コンラッド)の影響が余りにも強く,余りにも破壊的であったので、1932年頃から彼のものは読むのをやめてしまった」と書いています。『闇の奥』再読の感想として、「コンラッドの『闇の奥』はやはり優れた作品だが、いま読んでみると、欠陥が見える。筆遣い、言葉遣いが物語の状況に対して大げさに過ぎる。クルツは一度として本当に息づく存在にはなっていない。コンラッドが自分自身の人生の一つのエピソードを取り上げ、“文学”のために、それが担える以上の大きな意義を与えようとでもしたかのようだ」と記しています。このグリーンの「コンゴ日記」は明らかにコンラッドの「コンゴ日記」になぞらえて書かれたものですが、コンラッド自身は、コンゴの『闇の奥』で、クルツが象徴する「ヨーロッパ人の生の恐怖」を体験したわけではなかったことが彼の日記から読み取れます。
  ルイ・フェルディナン・セリーヌの『夜の果てへの旅』と『闇の奥』との連なりはその題名からして明らかです。セリーヌはサルトルが「我々がすべて忘れ去られた後にもセリーヌは残る」と言ったほどの異色の大作家ですが、小説『夜の果てへの旅』の主人公バルダミュは、何処か出来るだけ遠い所に行って一財産築くことを願って、マルセイユから船に乗ってアフリカに向かいます。マーロウ/コンラッドそっくりです。ところが、ポルトガルの海岸を後にして南下し、船内の気温が上がるにつれて、船内の様子が変わって来ます。「その頃からだ、白人種の嘆かわしい本性が皮膚の表面に現われだしたのは、奴らのむき出しの本性が、挑発され、解き放たれ、ついには戦場そっくりに、なりふりかまわず、さらけだされたのだ。・・・寒気と労働が僕らをおさえつけなくなり、束縛を片時でもゆるめれば、たちまち白人の本性はむきだしだ、・・・」(生田、大槻訳)つまり、アフリカに向かうヨーロッパの白人たちはその残忍な本性をむき出しにするのに、アフリカの原始を、アフリカという触媒を何ら必要としないのです。上の“戦場”とはバルダミュが身をもって経験した第一次世界大戦の地獄を意味します。この点がセリーヌの『夜の果てへの旅』とコンラッドの『闇の奥』の顕著な違いです。
 『闇の奥』が世に出たヴィクトリア朝時代のイギリスの人々がこの小説をどう読んだのか、興味を惹かれます。アチェベの黒人の立場からの『闇の奥』批判とほぼ時を同じくして、フェミニスト陣営からはこの小説で女性が馬鹿にされているという批判の声が上がりました。しかし20世紀初頭のイギリスの読者はクルツの婚約者の淑女にふさわしい清楚でしかも毅然とした佇まいに心を惹かれたのだそうです。そう知った上で、読み直すと、前回誤訳を訂正した部分も,次に指摘する部分もクルツの婚約者を好意的に描いてあります:“・・・ echo of his magnificent eloquence thrown to me from a soul as translucently pure as a cliff of crystal.” 「水晶の絶壁のように純粋で清澄な魂から、彼の無類の雄弁のこだまが僕に投げ返されて来るのを・・・」(藤永185)。
ここで「水晶の絶壁のように純粋で清澄な魂」とはクルツの婚約者のことだと思います。
 なお、次回のテーマにもつながりますが、ムーアの論考の締めくくりにコンラッドの『ロード・ジム』が取り上げられていて、そこでマーロウがジムを「我々のひとり」(one of us)と呼ぶがその「我々」とはすべての人間を含み、コンラッドは「人類はひとつ」という考えを逸早く唱えた先駆者だという評価を与えています。この極めて好意的なコンラッド評価を皆さんはどう思われますか?

藤永 茂 (2006年5月17日)


コメント

明らかな読み違いは許されない

2006-05-10 15:18:54 | 日記・エッセイ・コラム
 藤永茂訳『闇の奥』の訳註(42)(藤永214)に明らかに間違ったことを書いてしまいました。「未開でも発育不全でもなければ、私利私欲で汚れてもいない一つの魂」を私は軽率にもマーロウのことだと思ってしまったのですが、森尾由利さんが指摘して下さったように、この「一つの魂」とはマーロウではなく、クルツの婚約者のことに違いありません。これを機会に、原文の次の部分:「…, and he had conquered one soul in the world that was neither rudimentary nor tainted with self-seeking」の旧訳「それに、もう一つ、未開でも発育不全でもなければ、私利私欲で汚れてもいない一つの魂をも征服した」を「それに、彼はすでに、この世で、幼稚でもなければ身勝手さにも汚されていない一つの魂を我がものにしていた」と変更させていただきます。
 何故このような誤りを犯したか、反省しなければなりません。その理由は、私がアチェベ寄りの立場からコンラッドを、そしてマーロウを、見ていることにあると思われます。日本を含めた帝国主義批判、とりわけ、過去と現在のアングロ・サクソンの帝国主義的行動に対する批判が私の気持の中にありますから、その偏向姿勢に引きずられて、思わぬミスを犯す危険性をいつも意識していなければならないと自戒しています。上記のような明白に読み違えと判断される誤りは、翻訳という形で人さまに文学作品を紹介する場合には、翻訳者の思想的立場の如何に係わらず、許されることではありません。拙訳『闇の奥』の読者の方々に、この点について、ご助力をお願いしてやみません。ブログへのコメントを歓迎します。

藤永 茂


コメント

エロイーズ・ヘイのコンラッド弁護論

2006-05-03 21:14:33 | 日記・エッセイ・コラム
 コンラッドとその『闇の奥』についてアチェベが爆弾宣言をした1975年は、何と言っても、『闇の奥』の批評解釈史上の最も目覚ましい転回の時点です。この時点の前と後ではコンラッド研究の専門家の語り口も『闇の奥』を教室で教える英文学教師の講義のトーンも違うものになってしまったようです。そのことは北米での大学用教科書の主力であるノートン社発行の『闇の奥』の第二版(1972年!)と第三版(1988年)に含まれている批評論文集を比較すると明瞭に分かります。アチェベ以後には、人種偏見、植民地主義、帝国主義に関するコンラッドの思想的姿勢が盛んに議論されるようになりましたが、アチェベ以前にもコンラッドの政治思想を論じた論考があります。1963年出版のヘイ(Eloise Knapp Hay)の『ジョセフ・コンラッドの政治的小説』はその最も早いものの一つです。これにAvron Fleishman(1967), Robert F. Lee(1969), Bruce Johnson(1971) などが続きますが、ヘイの場合は亡くなる4年前の1992年に一種の回顧論文(Conradiana, vol 24, no. 3, 1992, 167-178) が発表されていて、余計に私の興味をそそります。
 1960年代以前には、『闇の奥』はアフリカ大陸の原始の暗黒に吸い込まれたヨーロッパの白人たちの心理的崩壊のドラマとして、もっぱら、読まれていたのですが、この小説『闇の奥』は、実は、「帝国主義と人種差別主義の激烈な弾劾」なのだが、「こうした公の政策に、たまたまイギリスで生まれたために、かかわり合っているすべての人々を断罪することなしに」コンラッドはこの弾劾を成し遂げた、とヘイは1963年の著作で主張します。これはなかなかの力業を、少し悪く言えば、離れ業を要する仕事です。この力業をやり遂げるために、ヘイは『闇の奥』の主な語り手マーロウと無名一人称のもう一人の語り手、それに作者コンラッドの三人を微妙に、しかし、はっきりと区別して議論を組み立てて行きます。マーロウの言うことを素直に聞いている限り、この語り手がイギリスの植民地経営を称揚していることを否定することは出来ませんから、『闇の奥』がイギリスを含めたヨーロッパ全体がアフリカで犯した帝国主義と人種差別主義の犯罪行為を激烈に告発した小説であるとするには可成りの強弁が必要です。
 アチェベが『闇の奥』の人種差別的筆致をきびしく非難する1975年より10年以上前に、これほど熱の入ったコンラッド弁護論が出現したのは何故か? ヘイは彼女の1992年の論文で「『闇の奥』がアメリカの高校や大学でコンラッドの作品中もっとも人気が出たのは1960年代になってからで、それはアメリカの黒人公民権運動によって促進され、それがまた、文学評論家の間で、コンラッドが人種問題について正確にはどんな立場を取っていたかというミステリーを解明しようとする競争を促した」と述べています。私はポスト・アチェベのコンラッド/『闇の奥』弁護論に、いわゆるポスト・コロニアリズム論の一課題として、深甚な関心を持っていますが、この問題はプレ・アチェベ時代から考えはじめる必要があるようです。1950年代から1960年代にはアフリカで多数の黒人国家が誕生しました。1960年ベルギーから独立したコンゴ民主共和国の初代首相パトリス・ルムンバが惨殺されたのは1961年1月17日でした。1965年2月には米空軍の北ベトナム爆撃が始まります。コンラッド/『闇の奥』弁護論の発生はこの時代背景と深く係わっていると考えられます。これは大きな主題ですから、このブログでもゆっくりと丁寧に取り上げようと思っていますが、今日はただ一つのポイント?しかし結構重要なポイントだけを指摘します。
 ヘイは、また他の多くの『闇の奥』弁護論者も、『闇の奥』の帝国主義批判にはイギリスも含まれるという点にひどくこだわります。その確証として度々引用されるのは次の部分です。
This initiated wraith from the back of Nowhere honoured me with its amazing confidence before it vanished altogether. This was because it could speak English to me. The original Kurtz had been educated partly in England, and?as he was good enough to say himself?his sympathies were in the right place. His mother was half-English, his father was half-French. All Europe contributed to the making of Kurtz; ……
この部分の訳註は(藤永255-256)にありますが、『闇の奥』弁護論者が好んで引用するのは最後の「ヨーロッパすべてがクルツの形成に貢献した」という所に限られます。これが問題なのです。ヨーロッパはイギリスを含むのだから、そして、クルツの母親にはイギリスの血が混ざっているのだから、クルツを批判することはイギリスの帝国主義的行為に対する批判を意味してるというわけです。でもこの論理は大丈夫でしょうか? その前に出てくる「もともとのクルツ(the original Kurtz)」の意味する所を正しく把握しなければなりません。それは文明人としての自制心を失ってアフリカの原始野蛮の暗黒の中に堕ちる前の立派なクルツを意味しています。クルツは堕ちたが、マーロウは堕ちなかったのは何故か? 純正なイギリス人マーロウは確かに one of us だったが、教育の一部しかイギリスで受けなかったクルツは十分に one of us ではなかった?これがコンラッドの文意と読むべきだと私は思います。この「one of us 」論はまたの機会に本格的に展開するつもりです。

藤永 茂


コメント   トラックバック (1)